メロディ
〜ユラとガイの不思議な?蜜月〜
 
3
 
 
 
昼食の後で、ガイは衣装を正装に改め、パレスへ向かった。
静かに揺れる馬車の中で、幾つかのことを考え、消していく。その狭間に、先ほどのユラの言葉がふっと浮かんだ。
『毎日見ているの。でも、何も映らないわ』
彼の不思議な懐中時計を見ながら、彼女はそう言った。
なぜ映らないのかと、物足りないと言いたげな彼女の口調に、笑みが浮かんだが、そのことがちょっとだけガイの気持ちに引っかかりをつくっている。
(何か……)
ガイは取り出した煙草を唇に挟み、火を点けながら思いの奥を探った。
彼女を写した鏡は、最後に彼女自身を写して以来、誰の影も写さない。
ユラが彼と出会い、三年ほどの月日が経つ。
彼女に限らず、鏡に映った人物を迎えに訪れる際、ガイの目には、その人物以外は漠とおぼろげな影になる。そのようなものだと祖母にも聞いていたし、経験して悟った。
目的の人物のみが、露わなシルエットになり、彼の目に浮かぶのだ。だから、間違えようがない。
ある意図で鏡に映り、彼が迎えに行く人々は、ふんわりとした見えない膜にでも包まれるのか、導かれるように差し伸べた彼の手を自ら取るのだ。強いたことなどない。すべて、彼らの気持ちで委ね、こちらへ、時空を越える。
(ユラもそうだった)
みずみずしい、まだ少女の幼さを引きずった彼女は、彼が伸べた手をすんなりと選んだ。
その後も選んでくれた。
ガイはユラに告げたことはないが、あの列車に乗る、それが儀式になるのだ。そこで何かが変換され、組み替えられ、迎える世界にするりとなじんでいく。何もかも、そこで変わる。
彼女の抱えるこの世界での小さな疎外感は、生涯拭えないものかもしれない。自分には根の部分で、それを理解してやれないかもしれない。それを彼はどこか不憫にも思い、申し訳もなくも思う。
けれども、彼女の存在は既にこちらで生まれている。彼のそばでレディ・ユラとして、何の破綻もなく、瑕疵もなく。
思いに、慰めに似た愛撫をほしがるのなら、尽きなく繰り返してやりたい。それで彼女の気持ちが満ち、そして凪ぐのなら、それでいい。それは自分の務めであろうし、愛情に沿う。
 
『毎日見ているの。でも、何も映らないわ』
 
何が映ってほしいのだろう。何を彼女は、あの黒い瞳に写したいのだろう。
懐中時計を持っていたいと、ねだられたとき、何のためらいもなく、ガイは彼女の手のひらに載せてやった。
自分のルーツにまつわる、象徴であり根源のそれに、ごく当たり前に興味があるのだろうと思った。おかしな思いではないと感じた。甘えにつながる、そんな彼女のねだりごとは愛らしく耳に響き、叶えてやるのも易い。
そして、彼女を信じている。
ほのかな過去への慕情だろうか。ガイには伝えない、ユラがあの胸に秘めた記憶が呼ぶのだろうか。
おそらく、それが彼女の鏡を見つめさせる心に一番近いのだろう、とガイは思う。
ならば立ち入ることが躊躇される、ごく自然な思いの流れであり、当然の感情である。
迷いなく彼を選んだと、彼女は言った。別れの日々、彼を忘れたいほど辛かったと、泣いていた。その別れを強いた彼を、どこかで恨むほど切なかったとやんわりと、責めた……。
「何が見たいの? お嬢さん」
馬車は軽い揺れと共に停まった。御者台から降りたマークスが、ガイの側の扉を開けた。
なじむほどにも感じる白亜の宮殿が迫り、緑のアーチと蛇行する小道が眼前に広がる。パレスの車寄せに着き、彼の物思いは、そこでぷつりと途切れた。
途切れながら、胸に散り散りに残る。
彼女の目に果たして、鏡の影は見えるのだろうか。その確率は、見える見えないだけのフィフティー・フィフティーではないだろう。圧倒的に、後者が大きい。
(見えなければいい)
そう思った。
不意に彼の頭上を声がする。自分を声高に呼ぶ声で、こんな華やかな声を、この場所でまき散らすことが適う人物は、ごく限られている。
「ガイ、早く来て頂戴」
彼が声を辿ったパレスの階上の窓には、短い袖のドレスから白い腕を振るジュリア王女の姿が目に入った。開け放したそこから、再び早く来いと呼んだ。
午後の濃い日差しを受けた彼女のブロンドは、まるでティアラを冠したように輝いている。
(そう、姫には見える)
声に帽子を取り、応えながらジュリアが持つ、思いを見通す紛れもない瞳の力と、自分と同じく鏡の中のユラの影を感じ取った事実を思いやった。
(あなたにはきっと、見えはしない)
願いに近い確信に、小さなおかしさがふっと浮かぶ。
(見なくていい)
 
 
帰宅したのは日付が変わる、前だった。
タイを解きながら、ベッドで眠っているユラの髪をなぜた。起こさないでおこうと思い、けれども、無防備な彼女の肢体を見て、触れたいとも思う。
引いたレースのカーテン越しに、うっすらとした月明かりが、彼女の肌を浮かばせる。
指を髪から腕に這わすところで、彼女が眠りから覚めた。「ガイ?」と問う。
「他に誰がいいの?」
「…嫌な人」
まだとろりと寝ぼけた声で応じながら、寝返りを打ち、彼に背中を向けた。シャツを身体から剥ぎ、彼女の背をすくうように抱き寄せた。
柔らかな夜着から出た露わな二の腕も、抱いた胸のふくらみも、頬を寄せたうなじも、眠りから覚めたばかりの彼女の身体は、しっとりと熱い。
この彼女の熱が、彼は好きだ。何かにきんと冷えた彼の疲れを、ゆるりと溶かすように癒してくれる。
「ねえ、お嬢さん」
口づけの間に、ガイは問うた。今日は懐中時計の鏡に何か映ったのかと。彼女はその声の含みに軽いからかいを感じるのか、やや拗ねた声で、何も映っていないと答えた。
「映るといいね」
ユラの甘い吐息に混じる声が返った。「意地悪」であったかもしれない、「からかってばかり」であったのかもしれない。
それは途切れ、抱擁に溶けた。
 
翌朝、朝食の後で書斎にいるときに思いついた。
ガイは長椅子から立ち上がり、傍らのローテーブルに読みかけの新聞を投げた。ユラがそれを手に取り、きれいに畳んでいる。
その彼女の仕草に、彼はちょっと唇に笑みを浮かべ、「ねえ、お嬢さん」と声を掛けた。
「何?」
昨日、ハリスから渡され、ジャケットの内ポケットにしまった紙のことを訊ねようとして、彼は言葉の接ぎ穂を飲んだ。彼女が邸のどこかで見つけ、その後くず入れに捨てたのだとして、それらを問えば、彼女の身に着いた何気ない振る舞いを、責める口調になりはしないかと思ったのだ。
ガイはそのまま「何でもない」と返し、書斎を出た。
階上に上がると、寝室ではメイドが掃除をしている最中だった。一旦寝室を出ると、晩餐の着替えの用でもない限り、この部屋には戻ることのない主人が、朝食後再び現れ、若いメイドたちは慌ててハタキを動かす手を止めた。
ガイはそのまま寝室を横切り、奥の化粧室から、クロークに入った。整然と吊られて並ぶ中から、手近のダークグレイに目をやる。昨日着ていただろうジャケットを手に取り、ポケットを探る。目当てのものが見当たらず、メイドを呼んだ。
「アリス、おいで」
新参に近く、滅多に彼に呼ばれることなどないアリスは、びくびくとなりながら、それでも急いで主人のもとへ向かった。
「昨日僕が着ていたのは、これかい?」
「いえ、…お召しになったのは…、こちらでございます」
アリスが差し出した別のジャケットをガイは受け取り、胡乱な目で自分を見つめる彼女に構わず、ポケットを探った。「これに、間違いはない?」
「はい、ブラシを掛けたのは、わたくしでございますから。お忘れ物は、ございませんでした」
「確かに?」
「はい、さようでございます」
ガイは念のため、くず入れに頃合の紙がなかったかを訊ねた。アリスはその問いに、再び否を答えた。
ガイはそのままジャケットをアリスに返し、大股に廊下へ出た。階段を駆け降り、また書斎に戻る。
ユラは長椅子に身をよじって座り、傍らのシンガポアの首にリボンを巻いてやっている。彼女に、「お嬢さん、ねえ」
と、今度は先ほどとは少し内容を変え、問わずにいた紙のことを訊いた。夕べ彼が着ていたジャケットの中にあったものを知らないか、と。
彼女は、ガイの脱いだ後のジャケットのポケットをちょっと軽く探る。時計やハンカチ、入れたままのシガレットケース、手袋などを予め取り出してから、ブラシをかけるメイドの手に渡すようだ。
いつしか、ユラがそのような習慣をつくったのだ。
ユラは猫からガイへ視線を向け、扉を開けたまま立ち、自分を見つめる彼に、小首をちょっと傾げた。
「知らないわ、わたし」
大事なものなのかと、彼女は問い返した。それにガイは返事をしなかった。唇に手をやり、しばらくそのままでいた。
「いや、あなたが気にすることじゃありません」
「これから、出かける」と、そう小さく告げ、そのままガイは書斎には入らず、身を翻し、扉を閉めた。
彼は歩を早め、ホールへ向かった。
主人の外出の気配に、ハリスが沿うように側に立った。「お出かけでございましょうか?」
「ああ、パレスへ」
告げる声も低くなる。
馬車を仕度させる間、ガイは煙草を吸いながら、落ち着かずホールをぶらぶらと歩いた。
(あれはどこへ行ったのだろう。そもそも…)
 
ガイの手から、紙は消えた。



        

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