メロディ
〜ユラとガイの不思議な?蜜月〜
 
4
 
 
 
ガイが二度目に書斎を出て行ってから、わたしは扉の向こうに、微かにざわめきを感じた。あれきり、ガイは戻ってこない。
不思議に思い、卓上の呼び鈴を鳴らした。ほどなくハリスが現れ、
「旦那さまは、どうなさったの?」
「お急ぎのご用がおありだとおっしゃられ、王宮へ向かわれました」
「え」
まったく不意のことで、わたしは驚いた。彼は今日昼過ぎまで、時間が空いているはずだったのだ。一緒に昼食を摂り、それから大学へ行くだけの予定のはず。
けれども、急な予定と言われればしょうがない。ふと、思い出したのかもしれない。
ハリスが書斎を下がり、わたしは、長椅子にだらしなく眠っているシンガポアを撫ぜてから立ち上がった。
スカートのポケットの紙を取り出す。こんなもの、早く捨ててしまおう。
なぜ、ガイがこれをジャケットのポケットに隠していたのかは、訊ねなくともわかる。おかしな思いつきで、きっとこれを額に入れ、居間にでも飾らせようとしたのだろう。
何を描いてあるかも気づかずに、笑みを浮かべてこんなことを言う彼が、簡単に想像できた。
「なかなかよく描けていると思いますよ」
ガイはわたしのちっとも上達しない絵を、よくからかう。「早く大きなものを仕上げて下さい。ねえ、お嬢さん、そうしたら個展を開いてあげる。僕があなたのスポンサーになりますよ」。
つい最近もそんなことを言って笑っていた。わたしの絵は、ジュリア王女のおつき合いでしかないのに。
嫌なガイ。
意地悪なガイ。
こんなものを見つけてしまってしまうなんて。捨てて置いてくれればいいのに。
わたしは紙をもう一度広げてみた。この部屋の画集に見つけた、どこかの地方の古城を描いたものだった。デッサンの基礎がてんでなっておらず、古城なのか梯子なのか、自分でも判断がつかないほどまずい出来だと思う。
それを畳んで、もう一度ポケットに戻した。
書斎を出て、温室から庭へ出た。そこには庭師のジョンが、春に目がけて整えたばら園に手を入れているところだった。わたしに気づき、帽子を取った。
背の高いばらの木々には、花を咲かせたもの、ふっくらと蕾をふくらませているもの、それぞれだ。彼に断りを言ってから、数本構わないものを切った。
ばらを腕に抱え、代わりにジョンに先ほどの紙を渡す。
「後でいいから、焼却炉で燃やして下さいな。要らないものなの」
「はい、奥さま」
しばらくばら園を見て過ごし、ジョンに庭を走る小道に沿って、小さな種のばらを植えてはどうかと訊いた。彼は頷きつつも、「あれは弱いですからねえ」と代わりの花を勧める。白い小ぶりな勿忘草に似た花だそうで、それに気が移り、頷いた。彼が勧める方が確かだ。
ばら園からバーゴラを建てた場所に移り、つる性の植物が這い上がり、ピンクの華奢な花を咲かせているのを眺めた。
腕のばらをそろそろ活けないと、とその場を離れた。邸の中に入るとき、ジョンがわたしに、先ほどの紙は今しがた、確かに焼却炉に放ったと告げた。
「ありがとう」
 
ばらを活け終え、それを寝室に持って上がった。ベッドサイドのチェストに置き、化粧室の洗面台で手を洗った。
ふと気になり、ばらの下の懐中時計に目をやった。今日はまだ蓋を開けていない。
手に取り、冷たい感触のそれをぱちりと開く。マントルピースに寄せた椅子に掛け、曇ったままの鏡を見つめた。指で触れ、ついた跡をハンカチでなぞる。
これを持っていたいと、ガイに告げたのは、いつだっただろう。二人きりのとき、晩餐を終えた後だったかもしれない。書斎で寛いでいたときのことかもしれない。
「申し訳ない」と、ガイはやんわり断ると思った。大事な形見の品であるし、不思議な力を持つ懐中時計は、彼にのみ属した物のように思えたから。
「いいですよ。どうぞ」。
頼んだわたしが拍子抜けするほどあっさりと、彼はわたしの手のひらに、自分のポケットにしまったそれを渡してくれた。
とても嬉しかった。大切に違いない時計を、易くわたしに預からせてくれる彼の思いも。自分が、好きなときそれに触れていられることも。
それ以来、わたしは折に触れ、日に何度も手に取り、蓋を開け、眺めている。
このぼんやりと曇った鏡は、ガイによれば、すっきりと晴れるときがあるのだという。何の予兆もなく、突然それは降るようにやってくる。
その様子を思うと、胸が詰まるような気がする。わたしは見てみたいのだ。そのときの鏡に映る誰かを。
自分と同じ、何かを求められてここに映る人の影を見てみたい。
それがいつになるのかは、わからない。ガイも、そうあることではないようなことを言っていた。
何十年の後のこと? もしかしたら、生涯わたしは見ることがないのかもしれない。もしや、明日映るかもしれない。そうでなくとも、近い未来に……。
確かなことなど何もない。
映らない鏡を閉じ、わたしはそれを、元のようにチェストに戻した。ばらの切花の華やかな影に、懐中時計は凛とそして静かに眠っている。
わたしは寝室を出て、階段を降りた。一つ書かなくてはいけない手紙を思い出したのだ。
たとえば、もし、あれに誰かが映ったとしよう。そうしたら、ガイはあの不思議な列車で、その人物を迎えに行くだろう。そのまだ見ぬ奇跡に選ばれた誰かは、不安に思うだろう。恐ろしいと思うかもしれない。
こちらにやってきて、わたし自身が辿った心のある部分は、理解ができる。経験も伝えられるだろう。奇妙な作用で、するりとなじんでしまう奇跡も。違和感は、自分自身が抱えて放つものだということ。選ぶべきことも。何か、目的を持ってやって来るらしいということも。
書斎に入り、書き物机に向かった。ペンを取り、引き出しの便箋を取り出す。
必要なことを必要なだけ書き、封筒に入れ封をした。傍らの銀の盆に乗せる。人を呼ぶ呼び鈴は振らない。急ぎではないから、後でいい。お茶を持ってきてもらうときなどでいい。また、書く手紙は増えるかもしれないから。
わたしは椅子から立ち、長椅子に掛けた。まだシンガは眠っている。
あの鏡に誰かが映ったら……。
そんな物思いは、このところずっとわたしの頭のどこかにある。
「わたしが……」
自分が思い上がっているような気がして、頬が熱くなった。
できないのかもしれない。不可能なのかもしれない。ガイにはこのことを口にしたこともない。彼に知られるのは恥ずかしく、軽くからかわれたりしたら、泣き出してしまうかもしれない。
わたしは自分が行きたいのだ。
ガイの代わりに、鏡に映った誰かを、わたしが迎えに行きたいのだ。
 
 
一人で摂った昼食の後で、わたしが居間にいるときにガイは帰ってきた。いつもの帰宅時には似ない、どこかがやがやとしたざわめきがあった。
ガイは居間にわたしを見つけると、手を取った。それで膝に乗せたレース編みの針がこぼれた。
引き寄せて、腰に腕を回し、顔をのぞき込む。
「申し訳ない。あなたを一人にして。怒っていない?」
「ううん。…どうかしたの?」
「ええ、ちょっと」
そこへ、ドアをノックする音がした。その加減に微妙に違いを感じた。邸の誰かではないのかもしれない。「どうぞ」と、返したガイの声に、ドアは開いた。
そこには紺の軍服を纏った、エドワード王子の側近であるフィッツジェラルド大佐の姿があった。ガイへの敬礼と、わたしへのお辞儀の後で、彼はそろそろ始めてよいかを訊いた。
何を言っているのだろう。
ガイはわたしの腰に手を置いたまま、「ああ」と告げた。「ここに呼んでくれて構わない」
ガイにほのかに面影を通わす大佐は、彼の言葉に敬礼で返し、部屋を出て行った。
「ねえ、お嬢さん。あなたはきっと面白くないから、僕が呼ぶまで席を外してほしい。ほら、暖かな温室で、太った猫と遊んでいらっしゃい」
ガイはわたしの背を撫ぜ、そう言った。「面白くないって、何?」
「ちょっと嫌なことがあって…」
ガイは少しためらった後、軍の機密が漏れている可能性があると教えてくれた。ブルーグレイの瞳をやや伏せ、
「不用意に、僕が持ち帰ってしまった艦の設計図が消えたのですよ。昨日ジャケットに入れてあったのに、今朝にはもうない」
「ジャケット?」
「ええ」
「考えたくないが、持ち出されたとしか思えない」
彼はそこで、あなたを責めているのではないのですよ、と前置きをし、「もし、何かポケットに入れたままの書類などがあったら、捨てずに、まず僕に訊ねてほしい。ついうっかりと、機密のものを入れてしまうことがある」
「え」
「僕はときどき、ひどくうっかりとすることがあるみたいだから」
そこでガイはちょっと笑うと、わたしの額にキスをした。
邸の誰を疑う訳でもないが、不審な者が出入りしなかったかを使用人にこれから問うのだという。フィッツジェラルド大佐は、その件でガイがここに伴ったらしい。
「ガイ」
「ねえ、お嬢さん、聞き訳をよくして…」
表情は優しい、けれどもその声音には、ほんのり強張りを感じるのだ。
わたしは唇に自分の指を当てた。ガイの話はところどころ記憶と違い、よく理解できない。けれど、くず入れの中の……。ジャケットから消えた……。
嫌だ、まさか。瞬時に結びついた思いに、目の前が、恥ずかしさで赤くなるような気がした。
わたしは今朝、彼が目覚める前に、彼のジャケットからあの下手な絵を取り出しておいた。それはスカートのポケットにしまわれ、ジョンに渡し、燃してもらった……。
多分、きっと、あの絵だ。
「あの……、ガイ」
どう説明してよいのか悩み、それでも事が大きくなってしまった今、次第を口に出さずには済ませず、彼の腕を引いた。
「お願い、笑わないで」



        

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