セピアの瞳 彼女の影
1
 
 
 
幾日が流れたのだろう。
どれだけ時間が過ぎたのか。
王都マキシミリアンから離れたウィンザーの地を離れる際、彼は思った。馬車の開けられたドアに手を掛け、身を屈め乗り込む。何かに引かれるように、彼は後ろを振り返った。
ちらちらと雪が舞う曇天の下、そびえるグレーの石色をした広大な邸。彼のよく知る、なじんだその邸に、何か忘れ物をしたように思えてならないのだ。
大事な何かを。
失ってはいけないものを。
ポーチの扉の前に並ぶ出立を見送る使用人の姿が、当たり前のように目に入る。彼らに軽く手袋の手を挙げ、小さな心の影を振り切るように彼は馬車に乗り込んだ。
「出してくれ」
車内の壁を、ステッキの柄でかんと打つ。
閉じられた馬車の中の小さな空間。脚を伸ばし、ときには組み、コートのポケットに入れた革表紙の本のページを繰った。
ブルーグレイの瞳は丹念に字面を追っている。幼い頃からの耽読の癖で、彼はちょっとした活字中毒でもある。何か目が字を捉えないと、落ち着かない。それが長く続くと、いらいらとする。
大学を出、学問から遠ざかった友人などは、彼のその習慣をおかしがった。
「本にばかり埋もれているなんて、君はまったく、欲のない変わり者だな。世間には面白いことが溢れているのに」
一人が言えば、誰かが続きを引き取った。「そう、美しいご婦人に一度夢中になるのもいい。どれだけ君が乾いた生活をしているか、身を持って知ることになるだろうよ」
それに彼は軽く笑って返した。
「学者なんて、大抵がこんなような君らの言う『変わり者』ばかりだ。僕はそれで結構」
書斎でも居間でも、どこでもいい。煙草をくわえ、研究分野の本を読んでいられれば、彼にとってはひどく満たされた時間になる。それに没頭できる静かな空間、誰かの余計な会話に釣り込まれない安逸な時間。
それでいい。
孤独の方がいい。
(それでよかった)
離婚をした後の久方振りに取り返した、自分だけの汚されない環境。二度と戻りたくもない腐った女との腐った時間の果て。
孤独でいいと思った。
(それで十分だった)
ふと目がページを追っていないことに気づく。視線は紙面を彷徨い、思考が数字の羅列から離れている。
本を閉じ、傍らに置いた。ビロードのシートのぽっかりと開いた空間。それが目に入る。それが目にしみるように感じるのだ。
当たり前のように一人だった自分が、誰かの不在に寂寥で胸が塞がれそうになっている。
途方に暮れそうになる。
(どう、やり過ごしたらいいのだろう)
いつもそばにあった彼女の気配。甘いその香りも、柔らかな小さな身体も。彼に向けるひたむきな黒い瞳は、ときに恥じらいを乗せ伏せられる。彼の発するささいな言葉に、堪らないように頬を染めた彼女。
「嫌なガイ」
「意地悪なガイ」
ちょっと困らせると、すぐに頬をほんのりと膨らませ拗ねるのだ。
あの彼女の黒い髪の幾筋かに、手を伸ばせば、今だって触れられそうにさえ感じる。
膝の手を、彼は虚空に刹那、何かを捉えようと軽く握った。何の抵抗もなく空気をつかんだだけの手を、口許に運ぶ。
自分の滑稽さに笑みがもれた。
いるはずがないのだ、彼女が。
自分が『彼女の世界』に帰したのではないか。嫌がって、悲しがって、それでも彼の意に背くまいと、涙を浮かべながらも頷いた彼女を、無理にこの世界から剥ぐように帰したのだ。
(そう、僕が帰した)
わかりきった帰結。当たり前の孤独。
それに舌が苦い。嫌な味の香草を食べたかのように。
「いやはや、お嬢さん…、僕はどうしたら…いい?」
聞く者がいない言葉は、彼の指の間からこぼれた。
そして、静かに流れ、すぐに消えた。
 
自分の決断がふと揺らぎそうになる。破綻を避けるために決めた彼女との別れだった。
(その決断に、どこか瑕疵はないのだろうか)
(決断こそに破綻はないのだろうか)
考え尽くした最良の処置であると、彼は思った。信じた。
しかし自分の心の痛みを、計画に織り込まなかった。悲しみに暮れる彼女の瞳の前で、自分の不安をのぞかせてどうなると、敢えて避けた。
彼は置いた本はそのままに、胸のポケットから懐中時計を取り出した。銀のそれはよく磨かれてはいるが、古いものらしく、ところどころ傷がある。かちりと音を立て、家紋のゆりを彫った蓋を開ける。
こちこちと刻む時計の上にある曇った鏡、指でそっと拭うと、見知った彼女の顔が浮かんだ。
「ユラ……」
瞬きもせずに幾らか見守った後で、掌に時計を握り締めるように閉じた。また胸のポケットにしまう。
(僕はあなたに嘘をついた。大きな、嘘をついた)
降るように感じる孤独の中で、自分と時間を持て余し、やりきれない思いでいる。
心地のよかったはずの孤独が彼を包み、そして今、静かに苛んでいる。




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