セピアの瞳 彼女の影
2
 
 
 
「お嬢さん、しばらくあなたの世界に帰ってくれませんか?」
 
ガイがそう彼女に告げたとき、彼女は彼の腕の中で、固まってしまったように動かなかった。言葉も、返さなかった。
どれほどそのままでいたのだろうか。少なくとも彼女の時間は止まって、凍っていたのだろう。
(彼女の指先は、痛々しいばかりに冷たかった)
一方彼は、思考の芯は冴えていた。冷たいばかりに覚めてもいた。そして、自分のシャツの胸に置かれた彼女の指が、きんと冷えているのを可哀そうに思った。
きっと、彼女の時間だけが止まった。
見つめる彼女の黒い瞳からは、ふっくらとした涙の粒が生まれ、やや彼をなじるかのような色合いがある。
それでも彼女は、そういったことを口にしないのだ。彼へのまるで可愛い愛撫のような軽い愚痴以外、彼女は彼に自分の露骨な感情をぶつけなどしない。
堪えて、矯めて、何か自分の中できれいにまとめてからそれを露にする。
それはきっと彼女の持つ美しさであり、矜持に似たものなのだろうと、彼は思う。そして、優しさや思いやりであり、また大きな弱さでもあると。
「ねえ、お嬢さん、怒っているのでしょう?」
彼の好きな、彼女のうっとりとするような愛らしい顔。その瞳に涙が浮かぶのを見るのは、ひどく嫌だった。
彼は彼女にはいつも、はにかむような微笑を浮かべていてほしいと願う。
「…ねえ、ひどいことを言う、嫌な男だと思ったのでしょう?…」
慌ててそれを指の腹で払い、瞼に唇を当てた。
(彼女の涙に、僕は目を背けてはいけない)
その彼女に泣き顔をさせているのは、紛れもない自分であるのだから。
胸に感じる彼女の重さ。確かにそばにあるという現実。
「あなたを愛している」
彼女の頭を抱き、甘いその抱擁を感じながら、ささやいた。
「だから…」と。
彼は更に、彼女の胸に刺すような別れの言葉を連ねた。
彼の持つ懐中時計に、迎えを待つ新たな人物の影が映っていること。
その徴(しるし)を、彼の判断では無視できないこと。
「不可思議な謎ですが、……しかし、謎の中にもルールがある。ルールを破ると、必ず破綻する。ここではまだ異分子のあなたは、きっと壊れてしまう」
だから一時帰ってほしいと。
必ず二月の後にあなたを迎えに行くと。
講義のように乾いた声音で話しているつもりが、いつしか彼の声は熱がこもり、急くような言葉の羅列になっていた。
何かのずれで生じた僅かな焦り。それは心の乱れを抑えようとする作用なのだろうか。
確かに、彼女の動揺の色と悲しみの気配に、ふと釣り込まれそうになる自分がいるのを彼は感じた。
(手放せるのだろうか、僕に…。彼女が)
この期に及んで顔を出した他愛のない心のためらいに、彼は小さく息を飲んだ。
 
彼女はそれらを静かに聞き、はっきりと涙を流し、彼の胸に頬を預けた。
「怖い」と言い泣くのだ。
「わたし、不安なの……。あなたを信じているけれど、怖いの」
そのときの彼女の儚いような頼りない様を思い出すと、今でもガイは胸が抉られそうになる。
彼女の黒い瞳は、いつも当たり前のように彼に注がれた。ときに恥じらいや喜び、または落胆をのぞかせ、ひたむきに向けられた。
疑いようがないその真っ白な自分への瞳。愛情に確かに裏打ちされたそれに、彼は頑なだった気持ちを、自然に解かせていくことができたのだ。
「あなたを、愛している」
つぶやきは馬車の微かな揺れに、すぐとかき消えた。
(けれど、僕はあなたに嘘をついた)
本を開くには暮れ過ぎた夕景。きんとする冷えが、昼のものより明らかに厳しい。
彼は煙草に火を点けた。無礼を断る相手もいない。ちょっと昔の、独居が当たり前の日々のように、口に煙草をくわえた。
紫煙が、薄墨を流したような車内の色に、にじむように淡く溶けていく。
彼女に告げた別れの理由。そのほとんどは真実であったが、一つだけ偽りが混じっている。
ガイの胸にある不思議な懐中時計の時空を結ぶその鏡には、彼の迎えを呼ぶ、誰も映ってはいなかった。
(あなたを帰してまで迎えに行く『少年』など…、いない)
彼女を、ただ元の世界にあるべき世界に帰すためだけの方便。
別れるためについた嘘。
それを思うたびに、罪の意識に胸が痛む。彼女の悲しみの分、涙の分だけ痛むのだ。
 
彼女を帰すことを、ガイは彼女を初めて肌で抱いたときには決めていた。何も纏わない柔らかな彼女を知り、その甘い恍惚さに溺れそうになった。
行為の最中に、どれほど彼女を自分が求めていたかを知った。
離せないと思った。
誰にも渡したくないと思った。
彼女は真にはにかんで、恥じらって。彼のささやく言葉のすべてに、耐えられないように頬を染めた。
「あなたは、僕に全てをくれる。美しさも、優しさも、甘やかなあの声も……」
「恥ずかしいから、お願い。もう言わないで」
そう言い、身を彼の胸に伏せた。あの、柔らかで甘い感触。うっとりとする彼女の滑らかな肌。
結ばれたのは、必然であったかのような錯覚を彼も持った。しがらみも、何も関係なく、彼女は自分の妻となるようにこちらにやって来たのだと。自分と出会ったのだと。
何の疑念もなく、彼に一切を捧げてくれる彼女。「ガイでないと嫌なの。一人にしないで」と。
 
揺らぎそうになる決心を、再び確かなものにしたのは、王宮からの使いだった。皇太子であるエドワード王子の後見人を、もう一度頼みたいという王子の母君に当たるガイの叔母でもある皇后直々の手紙だった。
隣国エーグルへの親善として、向こうの王族の婚儀に王子が赴くのは、彼の体調を鑑みても難しい話であるし、姉のジュリア王女がその名代なるだろうことは、大勢の見方だった。
そうなると王女には、パートナー的存在が必要になり、更にそれにはエドワード王子の後見人であることが望まれることは、ガイには朝日を待つくらいに当然に感じた。
きっと自分にその厄介な役が回ってくるだろうことを。
果たして皇后の手紙はそれを告げ、一度はその肩書きを退いた彼に、懇願調に述べてもある。彼の立場で断れる筋でもなかった。
そしてそれを了承するのなら、エーグルへの大使役も、当然に付いてくる。
数ヶ月に及ぶだろう彼の不在……。彼女の中で何かが生まれ、もしくは何かが変化するには、十分な時間。
傍らで愛らしく身を縮ませて眠るユラを見つめながら、改めて彼は、別れを決めたのだ。彼女に選ばせるべきだと。
自分ではなく。
ここでもなく。
自分とは遥かに離れた場所で。
本当の彼女の気持ちと、将来を。
弾むような彼女の白い肌にそっと唇を乗せ、彼はつぶやいた。
「あなたが選べばいい。僕は……、あなたに全てを捧げる」



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