セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
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「もう、いいの。何でもないの」
わたしは、ブルーグレイの瞳を凝らしてこちらをのぞくガイに、ようやく答えた。
切なかったこと。
気持ちの置き所がなく、やりきれない心を抱えていたこと。
微かな、けれど消せないガイへの腹立たしさ。
わたしとは別の角度から、二人の距離を測るあなた。冷めたその視点が、突き放すようにも、きれいに感情を割り切っているようにも思えた。
そのことがどこか苛立たしくて、やはり憎らしくて。
許したいのに、許せなくて……。
 
「悔やまなかった日はないし、取り返しのつかない間違いを犯したと、いつも思っていた。…あなたを失うことが怖かった」
 
その言葉だけで、いい。
わたしの過去は報われる気がする。
詫びでなくてもいい。
ただ間違いだったと、認めてほしかったのだ。
冷静で聡明なあなたの珍しいほどの過ちなら、許すのも頷くのも易しい。妻であり、一番のそばにいるわたしの、それは務めでもあるから。
感じ方が異なるのは当たり前のこと。別れの正しさも、その意味も。わたしの思いとガイの正義も。
けれど、あなたに認めてほしかった。言葉にしてほしかったのだ。
それだけで、許せるから。
あなたの過ちなら、許すのはごく容易い。
愛しているから。
 
「許すわ、あなたを」
 
「え」
わたしは彼が重ねた問いに答えなかった。
理詰めで理屈で、別れを決めた彼への憤りも。そのわたしの愛しているからの心のわだかまりも。
もういいのだ。
手放してしまえる。
あなたの過ちに、ふんわりと溶けて、流れていくように。にじむ涙に、重なる互いの唇の熱と甘い吐息に。
それは、果てに柔らかな思いのエピローグになる。
 
「ありがとう」
 
ごめんなさいではなく、ありがとう。
それをわたしは胸の中で、あのブルーの彼に告げたい。届かなくてもいい。ひっそりとでも告げられたことが、嬉しいのだ。
 
 
その宵はパレスの晩餐会にガイに伴われ、出席することになっていた。
身に纏うオフホワイトとグリーンの取り合わせのドレスは、つい先日届けられたものだ。
化粧室のドレッサーの前で、わたしはアリスに結い上げてもらった髪にちょっと手を触れていた。
何か足りないように思い、以前ガイに贈ってもらった白百合の飾りを挿す。
「お似合いでございますわ。お羽織りになるコートはいかがいたしましょう?」
襟元にファーのついた白いものを出してほしいと頼む。
「かしこまりました」と、アリスが頷いてクロークへ消えた。首が寂しいような気もする。あのネックレスはどうかしら? どこへ……、
化粧室入り口には、とっくに仕度を済ませたガイが、開いた扉にもたれ、とんとんと指でそれを叩いている。

すんなりと伸びた身体に、黒のジャケットの正装の彼は、見慣れたはずのわたしにも目にまぶしい。華やかで、誇らしい気分になれる。


ブルーグレイの瞳を悪戯気に瞬かせて、わたしの腕にするりと指を添わす。
「ねえ、お嬢さん。あなたは鏡の自分に見惚れているの? ねえ、ハチドリみたいに愛らしいお嬢さん」
「見惚れてなんて、いないわ。意地悪なガイ」
わたしの腕を取り、引き寄せ腰に手を置く。軽く抱き、「おやおや、僕にはそう見えたのですよ」
「髪の様子を見ていただけなのに…」
ちょっと膨れたわたしに、彼がささやくのだ。「何も飾らなくても、あなたはとてもきれいだ」と。
「ねえ、あまりきれいになり過ぎて、僕に余計な心配はさせないでほしい。可愛らしいお嬢さん」
「余計な心配?」
そろそろ刻限らしく、ガイがわたしを促した。扉を出て、寝室から廊下へ、そこから階下へ降りる。階段の果てには使用人が並ぶのが見えた。
端にわたしのコートを抱えたアリスの姿が見えた。
やはりあの白いコートにしてよかった。ファーがくすぐったいのだけれども、ドレスに合い、少し大人めいてわたしを見せてくれる。
エーグルから訪れたセレスタン王子という人に、初めて会う緊張がある。朗らかな人だとガイは言うけれど、どうだろう。ガイのそばにずっといられればいいのだけれど。
ジュリア王女とどうもそりが合わないために、晩餐の席がひどく離れているらしい。
そして、エドワード王子の婚約者となる人は、体調が優れず欠席するということ……。
「あ」
コートを羽織らせてもらい、前を合わせたところで、首許のネックレスを結局忘れたままに気づいた。
取りに戻ろうかあきらめようか迷い、唇に指を置いたわたしを、ガイはどこか呆れたように、けれど軽い笑みを浮かべ、
「あなたは、上の空だ。僕の言葉など、その耳には、ちらりとも届いていないようだ」
「ごめんなさい、何か言った? 聞こえなくて…」
ガイはそれにちょっと肩をすくめて見せただけだ。そのままわたしをポーチの馬車へ導く。
「ねえ、何を?」
ハリスの開けた扉から、車に乗り込んでも、答えてはくれない。代わりに「さあ、手を上げてあげなさい」と促すばかり。
見送りの人々に、ガイに倣いわたしは、手袋の手を上げ、そのまま窓に当てた。
彼がステッキでかんと室内の壁を打った。それに軽い揺れで、馬車が走り出す。窓辺からは外のふわりと舞う雪と、そして木立の庭園を、白い化粧で隠した様子が望める。
暮れの群青ににじみかけた宵の始まりは、雪の白に染まり、徐々にゆっくりと、辺りを白い闇に変えていくのだ。
街道へ出るまでの細長いシャクナゲの道を抜ける。
「ねえ、ガイ?」
「わからない? かわゆらしいお嬢さん」
重ねた問いかけに、彼がようやく答えをくれた。返す言葉にためらい、わたしの手袋の指は、両で重なり絡まり、唇を覆う。それをガイがやんわりと捕らえた。軽く、けれどしっかりと引き寄せ、
「さあ、僕のそばにいらっしゃい」
彼のくれた言葉は、ささやきと優しい抱擁との中で、はにかみでわたしをきっと薔薇色に染めるのだ。
しっとりと心が潤んでいくのがわかる。
 
『ねえ、あなたが美しいのは、僕の前だけでいい』
 
わたしの美しさがあるとして、それはあなたのため。
あなただけに咲いて、枯れない花でいたい。
そうありたい。
ガイの指が辿る裸の首許。指は何の境界もなく滑らかに流れる。彼の唇の置かれた襟に隠れる辺りに、熱い痛みに似た感覚が走る。
「あ」
やはりネックレスがほしかったと悔やんだ。
ふと、ガーディアンであの日奪われたコートの内ポケットに、ネックレスが入っていたことを思い起こした。華美過ぎに思い、外した記憶がある。ガイに贈られたダイヤの飾りのある気に入りの一つだった。
あれはきっとベリンダの手にあるのだろう。彼女はあれをどうするのだろう。
どうであってもいいと思い、そして彼女の手に渡ったことに、わたしは感謝していた。
 
 
 
 
 
 
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