セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
10
 
 
 
返らない言葉に、リアクションに、わたしはもう一度小さくつぶやいた。
「わたしが、鍵を開けたの」
ガイはブルーグレイの瞳を凝らし、それからややすくい上げるように、視線を逸らした。
ベッドから立ち、彼は片方の手で口許を覆い、もう片方の手を腰に置いた。その姿勢のまま、ちらりとわたしを見た。
彼が手放した書類は、絹のシーツの上にある。
わたしはこんなような重大事を、気軽に冗談に乗せる女ではない。彼の前でそんな風に振舞ったこともない。
彼はわたしの言葉の重さを十分に量り、そしてその真偽を思ったのだろう。
ようやく彼がくれた返事は、
「理由を聞きたい」
わたしはそれに、上手く答えることができないだろう。わたしの中で起きたあの衝動は、あのときのわたしにしか理解ができない。
今でなら、当のわたしでさえ、あまりに軽率で、愚かで、どうしようもない行動だと思っているのだから。
わたしは悪寒を感じる腕を自分で抱いた。唇を開いた。声が身体を包む震えで上ずる。
ベリンダの身の上話を何度もの慰問で聞き、同情し、親身に感じてしまったこと。
犯した罪の割りに重い刑に、不憫だと思ったこと。長い日々をあの鉄格子の中で過ごす彼女を、ひどく可哀そうに、哀れに感じたこと……。
ぼそぼそと、それらを乾いた口調で告げるわたしを見るガイの瞳は、少し尖り、ちょうど彼が、本に意識を集中させているときのような表情になっている。
よく理解のできない難解な表現の文章に出会ったみたいだった。そうでなければ、彼にとっては、手の施しようのない出来の悪い生徒にでも向けるような瞳だろうか。
話し終え、ガイはちょっとわたしに背を向けた。そのまま暖炉の前で彼は腕を組み、低い声で訊いた。鍵はどうしたのかと問う。わたしはそれに、看守が落したものを拾ったのだと答えた。
「あなたのしたことがどういうことか、わかっていますか? 何を引き起こすのか? どういうことになるのか? あなたはわかっている?」
わたしはわかっていたのだろうか。
あのときのわたしは、目の前のベリンダに自分の過去の影を見て、それで胸が詰まって、切なさで一杯になった。可哀そうで、痛々しくてならなかったのだ。
だから、手に触れて背を撫ぜて、「大丈夫」だと、慰めてあげたかった。八方塞のような希望のない状況で、それがどんなにか心に染みるのか、どれほどありがたいかを、わたしは身を持って知っているから。
 
安易に彼女を過去の自分に重ねる馬鹿さ加減に、気づきもしなかった。
気持ちに余裕がなくて。
苦しくて。
わたしにあの別れの過去をもたらしたガイを、どこかで許せない自分。許した振りでいる自分。
誤魔化して、紛らせて、けれども結局胸に抱えた僅かな恨みが、彼と触れるたびに見つめ合うたびに、じくじくと痛むのだ。しまったはずの過去の思い出が、彼なしで過ごした日々の辛さが。じわりと顔を出す。
ガイの嘘がなければ、あんな思いはしなくて済んだ。
 
愛しているのに。
あなたしかいないのに。
 
だから、許せない。
そして、そんな自分も嫌らしくて、目を背けていたくなる。
 
わたしの軽薄な憐憫は、ベリンダの振るった暴力であっけなく終わった。わたしだけの思い込みであり、都合のいい自己投影。それが、彼女に幾度も頬を張られて覚めた。
まだ残る長い刑期。ままならない日常。苦痛ばかり。閉じ込められた檻が開いたのならば、奇跡とばかりに、飛び出すだろう。愚かな貴婦人の驚愕も恐怖もどうでもいいではないか。コートを剥ぎ取ったら、用はない。当然のことが起きただけ。
「やりやがったよ。『1085』の奴とうとうやりやがったよ」。
意識を失う間、牢獄全体が鳴り響くように感じた受刑者たちの声と騒音。仲間への喝采のようにも、わたしへの嘲笑にも聞こえた。
 
「不憫に思うのなら、他にやりようがある。些細な罪ならば、刑を短縮させる恩赦も特赦もある。僕にでも王子にでも一言頼んでくれればよかった」
抑えてはいるのだろう、けれど微かに彼の声にはなじる気配がある。わからないのだ。ガイにはわたしの思いも、気持ちも。そしてそれらが何に由来するのか。
思いもしない。
気づきもしない。
「ねえ、お嬢さん」
彼は暖炉の前を離れ、ベッドのそばに戻った、縁に身を屈め、視線をわたしに合わせながら、説くように言葉を重ねた。
わたしがベリンダを気に入ったのなら、刑期の後で使用人として雇うこともできたこと。刑を終えた後の生活を保障することを約束し、希望を持たせてあげることもできたろう。そして子供の行方を捜してあげることもできたはずだろう、と。
「あなたのしたことは、結果彼女の救いにはならない。
手配書が回り、ほどなく捕まるでしょう。もちろん刑期はぐっと増える。終身刑になるかもしれない。万が一捕縛されなくとも、紹介状もない彼女にまともな仕事があるとも思えない。日々を捕まることを怯えて過ごす彼女に、安らぎなどあるのでしょうか。果たして会いたかった子供にも、会えるのでしょうか……」
ガイは言葉を、「僕は、責めるのではない。けれど、これがあなたのしたことですよ」と締め括った。
わたしは彼の告げたもっともな内容に、唇を噛んだ。
涙がこぼれた。それは低い嗚咽になり、しばらくわたしはその心地のよい逃げに浸った。
ごめんなさい、ごめんなさい……。わたしのせい、わたしのせい……。唇からもれるのは、とりとめのない詫びのささやき、羅列。
いつしかガイの腕が、わたしの身体に回った。引き寄せ、頭にちょうど顎を乗せる。
「もう、いい」
髪を指が撫ぜ、絡め、彼は言葉もなくわたしを慰めてくれる。「大丈夫。僕に任せておきなさい」。愚かな振る舞いをしたわたしを、一度も責めなかった。
「あなたが犯したことは、僕がしたのも同じだ」
それは瞬くよりもあっさりと、呼吸のように自然に。
ガイは涙をしまうわたしの頬に手を置き、指でぬれたまなじりを拭う。
ちょっとだけ嘆息し、わたしから離れると、彼はベッドの上の書類を取り上げ、片隅に置かれた小さめのライティングデスクの上でペンを走らせた。
わたしにそれを見せもせずに胸にしまい、「終わりだ」とつぶやいた。
身を翻し、そのまま部屋を出ようとする彼の背に、わたしはベッドを抜け出し、抱きついた。
彼の掛ける迷惑を思い、その申し訳なさと、そしてやはりわたしの過ちを造作もなく処理してしまう彼に、やり切れない軽い焦れがない交ぜになる。
わたしは彼を困らせたいのだろうか。
胸の鬱屈の原因は、あなたにあるのだから……。
ただ、そんな風に、簡単片付けてしまわないでほしい。
「ガイ…、わたし…」
ガイはわたしの回した手に触れ、軽く握った。「あなたはもう忘れてしまいなさい」
「どうして?」
そんなに容易く、わたしを許すのだろう。そうできるのだろう。
彼はわたしの手を唇に当て、「愛しているから」とささやくように言った。
「誰でもない、あなただから」
次はまず僕に相談してからにしてほしいね、と軽口に紛らせ、彼はちょっとだけ笑う。
わたしは応えず、彼のジャケットの背に頬を押し当て、怪我の箇所に鈍い痛みを感じる。
不意に、夢の中の記憶が、ほろりと思いの狭間に浮かぶのだ。ガイの深い寛容に、あの優しさを重ねたのだろうか。二度と目にしたくないと思ったあの人は、夢でわたしのしてしまった行為を許してくれた。
『誰だって間違える』のだと。
 
『誰だって間違える』
 
その言葉は、わたしの胸の奥に届いた。すぐに溶けるように心のひだに入り込み、ある思いが芽生え出す。
それは不思議な感覚で、目の前でぱちりと手を打たれたように、わたしははっとなった。
ガイは間違えたのだろうか。
わたしを一旦手放したこと。別れを決めたことを、彼は理詰めに説いてくれた。わたしのためであることや、彼の愛情と責任感と犠牲感。それらが成した決断だと。
わたしはそれが嫌だったのだ。肌にまるで馴染まない理屈ばかりの言葉に聞こえ、重さはあっても、心に響かなかった。受け入れたくなかった。
そこには彼の恋の熱がない。冷たいばかりの冷静さしか感じられないのだ。
それが、堪らなく腹立たしくて、静かな怒りのやり場がなくて……。けれども、そんな感情を彼に剥き出しにしたくなかった。きっと醜いだろうから。汚いだろうから。ガイを恨んでいるなどと思われたくない。許せないなどと、思われたくなかった。
だから取り繕って、過ぎ去った過去のように振舞って……。
結局怒りの出口を迷う心を持て余し、自分を、ぎりぎりと追い詰めただけ。
 
『誰だって、間違える』
 
なら、ガイもそうだろうか。
そうであったら、救われるように思う。わたしを手放したのは過ちだったと、悔いてさえいてくれたのであれば……。
そうであれば、わたしは彼を許せる気がする。そして、自分の気持ちを解放できる気がするのだ。
あなたの間違いならば、許すのは、認めるのは、とても容易い。
愛しているから。
あなた以外あり得ないから。
あなただけのわたしでありたいから。
わたしは回した手を彼の指と絡めた。指先が結ばって、彼の長い指に包まれる。
 
「わたしを帰したことを、悔やんだ?」
 
突然口にした場違いな問いかけに、彼は「え」と、絶句した。
「お嬢さん?」
振り返った彼が、わたしを見下ろす。訝しげに伏せたブルーグレイの瞳。わたしを映す、わたしだけに注がれるその視線。
「別れてから、後悔をした?」
「どうしたの?」
わたし視線は真剣みを帯びて、声も常になく低く響いた。さりげなく問いたかったのに、その余裕がなかった。そのままの思いを、繕わずにぶつけただけ。
彼は瞳を瞬かせ、唇を開いた。指をわたしの顎に置き、少し上向かせる。
「悔やんだ。堪らなく悔やんだ」
わたしは彼の声に、瞳を閉じた。
嬉しかった。
心の奥の凍えた何かが溶けるような。あるいは焦げ切ってかちかちに固まったものが、ゆるりとほどけていくように。
嬉しい。
「間違ったと思っている? ねえ、離れたのは間違いだったと思った?」
わたしの声は、いつしか涙ににじんだ。嬉しいのに、ほしかった言葉がもらえたのに、わたしは泣き出しているのだ。
「悔やまなかった日はないし、取り返しのつかない間違いを犯したと、いつも思っていた。…あなたを失うことが怖かった」
 
わたしはあなたの後悔が聞きたかった。
間違いだったと悔やむ、その声がほしかった。
理知的で冷静なあなたの、恋情の熱がほしかった。
 
それだけなの。
 
それだけで、わたしは過去を抱いていけそうになる。自分の過去を許せそうになる。
あなたのそばで、幸せなだけのレディ・ユラでいられそうになる。
涙を拭うわたしの指を彼が頬から放した。髪をかきやり、唇を重ねる。「あなたの涙を見るのは、堪らない。ねえ、お嬢さん、僕の気持ちを疑ったの? あなたを離したのは、僕の気持ちが揺らいだからだと?」
わたしは口づけを受けながら、やや首を振る。「ねえ?」と、ガイの焦れた声がする。
「それで、悩んでいたの?」
わたしは彼のシャツの胸に指を置き、それを緩く這わせ、その問いに答えない。
答えないのはそうではないから。
言葉で伝えるのは困難で、口に乗せた途端、別のものにすり替わりそうで。
「…ねえ? お嬢さん」
わたしはその声に応じられない。深まるキスの気配と、わたしを抱く強くなる腕の力に、瞳を閉じ、少しこのままでいたいと思うだけ。
幸福な気分に、今、少しだけ浸っていたい。



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