月のマーメイド 彼女のブルー

13

 

 

 

「あなたという人は、ずるい」

ガイがわたしを見つめながら、腕に抱き、ときに髪に指を滑らせながら言う。

「本当にあなたはずるい」と。

わたしはこれまでの緊張と不安が弛緩した、ゆったりとした気持ちの中にいた。

嫌な、実に不穏な黒い闇は、溶けるように消え去り、そしてガイがわたしへ向けた怒りの意味も、その重さも、わたしの中で、うっとりとなる幸福に代わるのだ。

「ごめんなさい、あなたを怒らせたこと。黙っていたこと。本当にごめんなさい。許してくれるでしょう?」

「わかっているのでしょう? あなたのそのかわゆらしい頭の中では、もう僕がちらりとも怒っていないことを、知っているのでしょう?」

彼は普段のように優しい声音で、からかいをにじませ、わたしにささやいてくれる。

「けれど……、でも、ガイ。わたし夕べから、本当に不安で恐ろしかったわ。あなたがどうしてわたしを避けるのか、わからなくて……。眠れないほど、心配だったの」

彼はくすりと笑い、指先でわたしの目尻に触れた。「確かにあなたの瞳は、あのウィンザーの雪ウサギのように赤い」

「どうしてガイがわたしを放っておくのか、わからなくて、とても不安で、寂しかったのよ」

「おやおや、お嬢さん。あなたは僕を一生放って、あのフィリップとかいう詐欺師とロールズバリーへ行くつもりだったのでしょう?」

「からかって、ばかり。嫌なガイ」

わたしは彼のシャツに頬を当て、その温もりと鼓動を感じながら、彼とこうしていられる奇跡を思う。

かけがえのない今を味わう。

一旦は心をちぎる痛みで手放し、そうしてまた手にできたもの。

そうしても、またゆらゆらと幻惑されて揺れ、やはりあなたに相応しくないと決めた、あの感覚をなくすほどの真っ暗な絶望。

その闇の明けは、まぶしくて、心がときめくほどに華やいで、わたしをあなたへの思いで溢れさせる。

「ねえ、だから……」

ガイをなくす不安。

それにわたしはいつだって、幸せの只中でさえ、心の奥で震えている。

目が覚めて、あなたがいない一人のシーツ。それを認める朝のあの風景を、わたしはいまだ引きずり、それに怯えているのだ。

それは、わたしの外面からは見えない大きな傷としてある。もしくは、まるで体内の重要な一つの器官かのように、血液を送るように、それは不安を全身にめぐらせ、指先をきんと凍らせる。

いずれにせよ、いつだってわたしを些細な事柄で、不安にさせるのだ。怖がらせる。そうして弱さを、痛みに似た悲しみを、ずるずると引き出してくる。

まだ癒えない、その思い。いつ果てるのか知れない、その思い。

あなたがわたしに刻んだ、深い深い孤独。

だから、そんな風に笑わないで。簡単にからかって済ませないで。

「お願い、ガイ。黙って一人にしないで。怖いの、あなたがいなくなりそうで。恐ろしいの。お願い、一人にしないで」

わたしの言葉を彼は、どう聞いたのだろう。

ちょっとの間があった。

また独りよがりな思いに、心を悩ませていると、面白がっているのだろうか。そんなときの眉をちょっと上げる彼の仕草が、目に浮かぶ。

「お嬢さん」と、彼は言った。

「二度とあなたを、黙って一人になどしない」

それは心を鎮ませる柔らかな、薬。彼のくれる優しい言葉に、わたしの心は凪ぐのだ。

それでも口にする。彼への甘えを込めた、それはわたしの願い。

「嫌よ。もう二度と夕べみたいな夜は、嫌」

わたしの言葉に彼は、吐息混じりにつぶやく。困ったような、やれやれといった呆れの響きを乗せて、「あなたは、やはりずるい」と。

ガイがわたしの顎に指を当て、くいと上に向かせた。

「お嬢さん、夕べ僕が、あなたのしでかしたことに、どんなに怒っていたか、知っていますか? どうやってそれをやり過ごしたか?」

「ガイ?」

「あんまりに気が立って、滅多と行かない軍の射撃場で、ひたすら馬鹿みたいに銃を撃っていたのですよ。王女のパーティーの後の、あの盛装のままで。的を替え、黙々と打ち続ける僕を、あの場にいた者は、さぞ気味が悪かったでしょうね。グレイなど、眉をしかめたままだった」

わたしはそれに、相づちを打てなかった。ごめんなさいと、つぶやくしかできない。

わたしに背を向けた後の彼を、騒ぐ胸で思い巡らせたけれど、今彼が言ったようなことなど、頭に浮かびなどしなかった。わたしの思考は「どうして?」をくるくると堂々巡りするばかりだった。

「ガイ、……ごめんなさい」

「朝になっても、何だか腹立たしさは引っ込まない。どうしてあなたは、あんなにも自分勝手なのだろうと、大学に行っても引きずっていた」

けれど、と彼は言う。

「あなたの姿を見たら、そんな怒りが溶けてしまった。愛らしいあなたが泣くのを見たら、もう僕の怒りなど、どうでもよくなってしまった」

「ガイ……、わたし、あなたに…」

恥ずかしく、瞳を伏せて言いかけたわたしの言葉を、彼が遮った。

「だから、あなたはずるい」

ささやく声は、口づけと混じり、溶けて絡む。

「あなたはいつだって、僕を簡単に操るのですよ。その可愛らしい唇で、瞳で、どうしようもないほど優しい心で、いつだって、僕を困らせて……已まない」

口づけと、抱きしめる腕の熱。

それはわたしを包み、陶然と酔わせて、憂鬱を薄く幸福ににじませる。和らげる。

ガイだけが、わたしの心に残る傷に気づいてくれる。触れて、癒すよう舐めてくれる。

あなただけが、わたしを許して、そして包んでくれる。どこまでも、きっと。

そんな風に思うわたしは、あなたの言うように、ずるい。

きっと、ずるい。

 

 

夜の闇。

暖炉の暖かな温もり。

月の光。

それらが届く柔らかな空気。質感。

わたしの身じろぎに、天蓋のレースがふわりと揺れた。

ガイがわたしを引き寄せる。ベッドサイドのチェストから彼の持つ不思議な懐中時計を取り、わたしに示した。

「ほら、ご覧なさい」

ガイは言う。「僕はこの鏡に映った人物を、あの不思議な列車で迎えに行く」

わたしは彼の掌の中のそれに見入った。百合をデザインした家紋が彫られた銀のそれは、小さな傷が幾つもあり、薄く曇っている。

わたしとガイとの絆の、それは象徴のような存在。

「あなたはここに写り、そして僕のそばにいる。きっとあなたという人は、何かこの世界での目的を持つのでしょう」

「目的? なあに?」

ガイはそれに、軽いあくび混じりの笑みを返す。そうしてわたしの髪に触れ、指を這わせ、肩を抱いた。

「僕をあれこれ悩ませることとか……」

「意地悪」

「この世界には、あなたの存在する意味があるのですよ。あなたでなくてはならない、あなたでしかできない目的が、きっとある。僕はそう思う。それがあなたをこの鏡に写した理由、僕はそう考える。だからこそ、あなたは齟齬なくこちらに適応し、受け入れられている。異分子などではない」

ガイの言葉は、わたしの胸に吸い込まれるようにしみた。

 

あ。

 

わたしが抱えた違和感は、わたしが悩みやためらいに、自ら生み出したものだ。誰からも、向けられたものではない。わたしの中にこそ、迷いの種があった……。

そもそも、彼は初めてわたしをこの邸に伴ったときから言っていたではないか。

「この世界はあなたを受け入れてくれる」と。わたしはその言葉のくれる優しさと安堵感に、どれほど癒されただろう。どれほど切ないばかりに嬉しかったろう。

わたしの持つ目的。

それは何だろう。

このどこまでもわたしを包んでくれる、ブルーグレイの瞳のあなたに出会うため。

めぐり合って、愛し合って、そうして彼を幸せにする。

それがわたしという存在の意味であれば、嬉しい。そうであればいい。

あなたのために、わたしがいる。

きっと、そう。

ぱちりと懐中時計を閉じる音がする。やんわりとわたしを抱きすくめる彼の腕の仕草。

ほのかにシャボンの匂いのする彼の髪はまだ湿っていて、かきやるわたしの指にしっとりと絡んで、それは溶けるように流れる。

「ガイ、わたし……」

彼のくれるキスに、その言葉は途切れ、重なる唇の隙間に「ねえ、ガイ」と、わたしは繰り返した。

「ねえ……」

首筋に乳房に、ガイの指が優しく沿って、流れていく。

深まる唇の熱。触れ合う、その次第に高まる熱。求め合う気持ち、心。

言葉など要らないのかもしれない。

伝えなくても、伝わるのかもしれない。

重なるその温もりと、触れる優しさに、それは伝わるのかもしれない。水が土にしむように、自然に当たり前のように、彼に辿り着くのかもしれない。

けれど、伝えたい。

あなたに伝えたい。

「愛している」

そう繰り返してくれるあなたに、伝えたい。

わたしの潤んだ心と瞳を見てほしい。

「あなたのために、ここにいるの」

 

 

バスの後で、ガウンを羽織ってベッドに戻ると、ガイはまだ眠っていた。

もう少しすれば、朝の光を浴びながら、一緒に熱い紅茶を飲むのだ。そんなときの彼の表情は、瞳を細め、まぶしそうにちょっとぼんやりとしている。

ノックの音に、わたしが応ずると、アリスがお茶を持って入ってきた。

銀のトレイに乗ったティーポットのお茶。カップに注ぎ、そのふうわりと立ち上がる湯気の香気を楽しむ。

すうと胸に広がる、それは朝の香り。唇をカップに当て、そろそろと口に含む。舌が焼けそうなほど、熱いのだ。

アリスは手紙を持っていた。それは王女からのもので、今朝早々に届いたという。

「ジュリア王女さまは、お急ぎのご用でございましょうか?」

「さあ、わたしにもわからないわ」

こんなに早朝に手紙が届くなど、初めてのこと。それは彼女は、急に現れたり、思いついたことを突飛に行う人ではあるけれど。

アリスが下がり、わたしはベッドの縁に掛け、手紙の封を切った。

そこには今日のレッスンは必ず出ることと、面白い趣向をまた思いついたので、そのことについて詳しく計画を立てようと書いてある。わたしに乗馬のレッスンをすぐ始めるように書いてある。きっと面白く、楽しいからと。

『それで春にはユラと馬に乗って遠乗りを〜』……。

「嫌だ、……馬になんて乗れないわ」

いつの間に起きたのか、ガイがわたしの肩越しに、手紙をのぞき込んでいた。

「おやおや、あなたは忙しくなりそうですね」

寝覚めのガイは、ちょっと目をこすり、笑みを浮かべ、そんなことを言う。腕を伸ばして傍らのガウンを取り、肌に纏う。くるりとそれを巻きつけ、ベッドを出た。

「ほら、昨日あなたが書いた欠席の詫び状は、捨てなさい。王女がお待ちだ」

肩を揺らして笑うのだ。

わたしはその彼の仕草に、王女の突然の思いつきに、やや膨れた。

他愛のない憂鬱。

取りとめのない日常のそれは、幸せの狭間に見え隠れし、わたしをときに悩ませて、ためらわせる。

「ほら、膨れない」

ガイの指が髪に伸び、夕べとは逆に、わたしのまだしっとりとする髪に絡んだ。

「ねえ、お嬢さん。ジュリア姫はあなたがお好きなのですよ」

「わたしも彼女は好きよ」

「なら、馬でも絵でも、付き合って差し上げるといい。そうそう、あなたの乗馬服を作らせないといけませんね。それとも王子から、数年前の物をいただきますか? ほら、いつかの仮面舞踏会の衣装のように。あなたに随分と似合うようだから」。

「嫌だ、ガイ。それをどこで? 王子から?」

彼はそれに答えない。黙って、瞳に笑みを浮かべながら紅茶を飲むのだ。彼に知られた恥ずかしさに、頬が熱くなる。

「馬なら、僕が教えられますよ、お嬢さん」

「本当?」

「ええ」

ガイがかちゃりと音を立て、ソーサーのカップを戻す音。ちょっとわたしを引き寄せて抱き、ささやく小さな言葉。優しい言葉。

立ち上がりバスに向かう彼。

そして自分の仕度と、彼の衣装を調えるために、わたしも立ち上がる。

ドレスの色、彼のシャツとタイの組み合わせ。そんなことを、もうわたしの頭は考え始めている。

ガイのジャケットのポケットに、わたしがイニシャルを刺繍したハンカチを入れること。

それから、邸に飾る花々を温室で切らなくてはいけないこと。

そんなことを、考え出す一日の始まり。

ありふれた、朝の風景。

かけがえのない、大切な風景。

それは光に溢れ、わたしを包んでいる。

 

 

 

 

 

 

(長らくお付き合い下さり、誠にありがとうございます)




『月のマーメイド 彼女のブルー』(12)へ♪          サイトのご案内トップページへ♪
『月のマーメイド 彼女のブルー』ご案内ページへ          

お読み下さり、ありがとうございます。
お読みになってのご感想、残していただければ、幸いです。 Blogまたはメールフォームよりお気軽にどうぞ♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪