月のマーメイド 彼女のブルー

12

 

 

 

ガイはわたしを包んだ腕を解き、ゆっくりとわたしから離れた。

新しい煙草に火を点け、くわえる。彼はきちんといつものように断りを入れてくれたけれど、わたしはそれに何と答えたのか。

既に感覚のなくなった冷たい指先を顔に当て、わたしは涙を流し続けた。

ガイはそれをどこかぼんやりと見つめながら、何も語らない。ただ紫煙をくゆらせるだけ。

彼が何を抱え、何がわたしとの距離を置かせるのだろう。

「どうして……?」

「あなたは…」

わたしの問いに彼が口を開いたとき、ノックの音がした。彼は言葉をつなぐ前にその音に応じた。「ああ、入りなさい」

入ってきたのは従僕頭のマイクだった。定時のお茶の時間のため、ワゴンを押している。

わたしはいつ、こちらにお茶を運ぶように告げたのだろう。それすらおぼろなほど、不安にわたしは上の空でいたのだ。

わたしはマイクに涙を見られないように、とっさに彼から背を向けた。

テーブルにクロスが広げられる。ティーセットが所定の場所に置かれ、たっぷりとある湯気の上るジャグから、ティーポットにお湯が注がれる。茶葉を蒸らす間、ケーキスタンドに数種類のお菓子が並べられるのだ。かちゃりと、微かに鳴るティーカップの音。

背を向けていても、それらが瞼に浮かぶほどにわたしには見える。いつもの同じ光景。

違うのは、わたし。ううん、わたしとガイ。

静かにマイクが部屋を出て行った。

沈黙がどれほど続いただろう。恐ろしいほどの、重い時間。わたしはガイに話してほしかった。何でもいい、何か言葉をもらいたかった。

「あらましは、ジュリア姫からも伺いました。けれど、僕はあなたからも聞きたい。何があったのか、僕にも知る権利くらいはあるでしょう? あなたの夫として」

やっと彼がくれたのは、こんな皮肉をのぞかせる言葉。どうして彼は、わたしをちくりと苛めるような言葉を使うのだろう。選ぶのだろう。

わたしはテーブルからナプキンを取り、それで涙を拭った。うっすらと白いそれに、わたしの化粧が移った。

立っているのが辛くなった。ガイが手を伸べてくれない空間に立っているのは、めまいがしそうなほど辛い。

わたしは椅子に掛け、うつむきながら、涙を拭ったナプキンを手の中でいじりながら、話し始めた。

ガイは相づちもくれない。ただわたしから距離を置き、煙草を吸いながら、わたしの声を多分、聞いていてくれる。

わたしはジュリア王女にも話した内容と、ほぼ同じことを喋った。

まず、ガイがゴブジス島へ行き留守の間にあった王宮の舞踏会で、初めてフィリップ・ワイズに会ったこと。そこで誘われて踊ったこと。

二度目に会ったのは、これも王宮で、このとき彼は自分を『ロールズバリーに領地を持つ、フィリップ・デクスター子爵』と名乗ったこと。

ここで、彼が笑った。ちょっと肩を揺らす。ロールズバリーという土地が、私有地ではありえないことを了解している彼にとって、フィリップ・ワイズのついた嘘は、きっと馬鹿馬鹿し過ぎるのだろう。

それにうっかりと騙された、信じ込まされたわたしを笑っているのかもしれない。おかしな女だと。

「次会ったのが、確か、『夫人の会』の帰りだったの。レディ・アンとばったり出くわしてしまって、嫌な一日だったの。わたし彼女に連れられたティー・ルームでコートを忘れたの、飛び出してきたから。
それを追いかけて、わたしに渡してくれたのが、あの人だったの。

彼は、わたしのせいで、帰りの手段をなくして困っていたのよ。だから、わたし、彼を滞在先のホテルまで送ったの」

ガイは小さくつぶやいた。「どうして、アンなどに付き合ってやるのかわからない」と。

「そうね、あなたにはわからないわ、きっと」

ガイにはわからないのだ。彼女のあの瞳の持ついやらしい魔力のような力を。それに射すくめられて、動けなくなることの恐ろしさを。ぎゅうっと気持ちが沈むような、意思を止めるような、じわじわした感覚。嫌な圧迫感。

彼女と別れることで、自分からきれいに切り離したあなたにはわからない。

わたしは自分の機知や力で、彼女の罠から逃げ出したのではないのだもの。ただ彼に救ってもらっただけ。穢いものを見なくていいように、さっと目の前にカーテンを下ろしてもらったようなもの。今だって彼女のいやらしさ恐ろしさに、わたしはまだ心の奥で、それらを宿すあの瞳に震えているのだ。

だからあなたのように、強くなれない。

 

ガイは黙り込んだわたしを促した。

「どうぞ、続けてくれませんか」

わたしは話を戻した。

馬車の中で、フィリップ・ワイズがしきりにわたしの瞳と髪の色に付いて触れ、自分のそれとの共通点を強調したこと。そして、自分の家系の奇妙な不思議について。

幾度か手紙のやり取りがあって、彼に会うことになったこと。「郊外の湖畔のホテルに行ったの。そこが静かだからって」

「あの、あなたがやたらと遅くに帰った日のことですか? 馬車の調子がおかしくなったと言っていた……」

わたしはうなずいた。そして嘘をついたことを詫びた。

ガイはふいっと視線を、わたしから逸らした。短くなった煙草を、マントルピースに投げる。

その仕草に、彼の持つわたしへの怒りを見た。空いた手で、彼は前髪をかき上げ、「それで?」とそれでも促す。

わたしは話すのが辛くなってきた。喉がひどくひりひりとする。

わたしが言葉をつなぐごとに彼の怒りが増し、そしてその中にわたしへの拒絶を見るようで、辛い。

わたしは目の前のカップを取り、少し飲んだ。既に生温くなった紅茶をソーサーに戻すとき、それはかちゃかちゃと耳障りな音を立てた。

「あの男はあなたに何を言ったのです? さあ、僕に聞かせて下さい」

彼はこれを言うとき、逸らした瞳を真っ直ぐにわたしに戻した。ブルーグレイの瞳には、笑みもなく和らぎもなく、視線はただわたしに、凍ったように注がれる。

そんな瞳で見ないでほしい。

 

「あの人は、怖いことを言ったの。自分の家系には、必ず隔世的に狂人が出ること。それは曽祖父の代から始まって、彼は…、わたしと同じように外からやって来た人物だと、彼は言っていたの。
それに、わたしはすっかり信じ込まされて、てっきり自分と同じだと思ったの、別の世界から、あなたのような人に連れられてここに来た人物だと、思い込んでしまったの」

ガイはそれに再び肩を揺すって笑った。次第に笑い声は大きくなる。おかしくて仕方がないように。

彼のその笑い声は、まるでわたしを鞭打つようだった。愚かな馬鹿なわたしを。

「それで、あなたも同じように狂うのだと?」

「ごめんなさい…、わたし、馬鹿だったわ。あんまり恐ろしくて、つい信じ込んでしまったのよ」

「彼は貴婦人を騙すことに長けた男で、『紳士』の通称で犯罪仲間には通っているらしい。あなたのような世間知らずなご婦人を騙すのは、実にたやすいでしょう」

「あの人が狙っていたのは、伯爵家のダイヤネックレスなの。わたし、王女に気づかされないでいたら、盗られてしまうところだったわ、あんな大事な品を……。ごめんなさい、本当に馬鹿で、迂闊だったわ。あなたが結婚のときに贈ってくれたネックレ…」

「あんなもの、どうだっていい。また購えるではないですか」

ガイはわたしの言葉を遮った。

そうして真っ直ぐにわたしに瞳を据えたまま、彼は口にした。腕を組み、やや小首を傾げる。

「ねえお嬢さん、あなたは、僕を愛してくれているの?」

 

ガイの問いに、わたしはまったく虚を突かれた。どうしてそんなことを彼が訊くのか、わからなかった。

どうして訊く必要があるのかも、わからなかった。

わたしは彼の瞳を見つめるばかり。

「本当に、あなたは僕を必要としているの?」

わたしは立ち上がり、彼のそばに行った。組んだままの彼の腕に触れる。

「何を言っているの? どうしてそんなことを訊くの?」

騙されたわたしが、あなたの許を去ろうと思ったのは、かけがえのないあなただから。自分を犠牲にしても、守りたいと思ったあなただから。

だから……、

彼は組んだ腕を解いた。わたしの顎を指で軽く持ち上げ、視線を自分のそれと合わせた。

「わからないの? 可愛らしいお嬢さん」

彼は指の腹で、わたしの目尻に残る涙を拭ってくれた。

やっと見せてくれた親しげな仕草に、わたしはまた涙が浮かぶほど心が躍った。瞬いた目から、もう涙が溢れるのだ。

「どうして僕に、一言も話してくれなかったのか、僕はそれに随分腹を立てていたのですよ。フィリップ・ワイズから聞かされた不可思議な話を、僕に話してさえくれれば、あなたは一人で悩まずに済んだ」

ガイは言う。「僕なら、そんなふざけた妄想をすぐに看破できた。黒い髪に黒い瞳……、馬鹿馬鹿しい。そんな人間など、うんざりするほどいる」

「ごめんなさい、ガイ……、わたしすっかり信じ込んでしまって……、恐ろしさにとりつかれていたのよ」

「だから、あなたは僕に嘘をつき、あの詐欺師の口車に乗って、どこかへ消えるつもりだった。
……きっとそう、どこか汚らしい場所で乱暴され、薬でも飲まされる。逃げ出さないように、どちらかの足首を切り取られたかもしれない。果てに売春宿にでも、外国にでも売られる……。可愛らしいあなたなら、すぐに買い手はつくでしょう」

「嫌」

わたしはガイの言葉に、背中に冷水を浴びせられたように震えた。そうなっていたかもしれない。そうなっていたかもしれない。

自分の愚かさから、わたしはガイの口にしたような目に遭っていたかもしれないのだ。

ガイだけが愛してくれたこの体を、さまざまな手に触れられ、辱められて……。逃げられない、恐ろしい闇……。

今更ながら恐ろしさに肌が粟立った。彼の胸に突っ伏すように頬を当てた。

腕が、背中に回った。抱きしめられるのを感じる。強く、きつく、苦しいほどに。嘆息のような吐息の後で、彼の声がした。

「知らぬ間に、僕はあなたを失うところだった。それが腹立たしくて、しょうがなかった。お嬢さんあなたは、理由も知らずにあなたをなくした僕がどうなるか、考えたことがありますか? 残された僕がどうなるのかを」

それにわたしは答えられない。わたしはそれを考えなかった。そのことに思い至らなかった。

ただ、ガイの迷惑でいたくなかった。あなたの将来を傷つけたくないと思った。重荷になりたくなかった。

たくさんの愛情と幸せを注いでくれたあなたの、せめて障害にはなりたくなかった。

だから、いなくなろうとした。

「ごめんなさい。ガイの…邪魔をしたくなかったの、それだけなの。愛しているから、あなたの迷惑にはなりたくなかったの。それだけは、嫌だったの」

彼の髪を撫ぜる指、絡む髪と滑る指の動き。

「どんなあなたでも、愛している。あなたに関わることのすべてを、僕は知っておきたい」

ガイの気持ちとわたしの気持ちの、すれ違い。同じところからそれは始まるのに、辿る先が違った。

わたしがもう少し強かったら、選んだものは違うのだろうか。変わったのだろうか。

「僕の幸せを思うのなら、それはあなたの存在なしではあり得ない。すべて、あなたがくれた」

彼はささやく。「あなたの愛らしい胸に、忘れずに置いておいてほしい」と。

鮮やかな日常も。

喜びも。

幸せも。

重なる、触れるそのうっとりとする温もりも。

「みんな、あなたが僕にくれた。あなただけが、それらをくれるのですよ。あなた以外には、あり得ない」

同じ。

すべてはガイがわたしに与え、注いでくれたもの。

あなた以外には、あり得ない。

「あなただけを愛している」

その言葉はわたしの胸にしみわたり、広がり、溶けて、なじんでいく。

「僕を思うなら、僕のそばにいてほしい。隠さずに、何でも不安は話してほしい。嘘も、もう御免だ」

「ごめんなさい」

彼はわたしの頬に唇を置いた。指で顔をずらし上向かせ、唇を重ねる。煙草の匂いの香る、彼のキス。

 

嬉しい。

あなたといられる今が嬉しい。

あなたを感じる、触れられる今が、嬉しい。

それは堪らないほどに、わたしを幸福に溺れさせる。うっとりと溺れて、喜びに酔わされて、わたしは目を閉じる。

あなただけがくれる、わたしだけの幸福。

「ねえ、ガイ。わたし、あなたを、怒らせたのね。ごめんさない」

「そう、自分を忘れるくらい、あなたに腹を立てていた」

「許してくれる? ねえ、ガイ」

彼は答えずに、わたしの髪を指ですくい、耳朶に唇を置いて、やんわりと噛んだ。

「本当は帰ってきたときから、怒ってなんていなかった。ただ、僕に秘密を持ったあなたを、ちょっと懲らしめてあげようと思っただけですよ」

「え」

「僕の芝居はどうでした? 可哀そうに、あなたを泣かせてしまうくらい、真に迫っていたようですね」

わたしはまったく言葉を失ってしまった。

見上げた彼のブルーグレイの瞳。笑みを浮かべたそれは輝き、わたしの影を写し、悪戯っぽく瞬いた。




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