月のマーメイド 彼女のブルー

1

 

 

 

目覚めたのは、まだ明け方にやや間のあるとき。

わたしはふっくらとした枕に頬を沈め、シーツを抱くように身体に絡め眠っていた。

テラスに向いた大きなフランス窓から、カーテン越しの月明かりが、まだ明け切らない室内をぼうっと照らす。

「ガイ……」

右の手を伸ばした先に、彼がいなかった。

あ、と、わたしの指はシーツを滑り、そのつるつるとした感触を伝えるばかり。

きんとした指先からの冷たさが、徐々に心にのぼってくる。

目覚めて一人に気づく、あの落胆とあきらめにも似た空っぽな孤独。今もわたしはそれを引きずっている。

だからすぐに目覚めて彼に触れる。触れたいと思う。

怖いのだ。

冷たい一人のシーツに、目覚めて気づくのは堪らない。堪らなく怖い。

わたしは身を起こし、傍らのガウンを肌に羽織った。ベッドを出て、腕を抱き、ほんのりと寝室に明かりのもれる化粧室に向かった。

ガイはそこにいた。鏡の前で顎の辺りを泡だらけにして顔をあたっていた。レザーを持ちながら、洗面台の縁に置いた手紙のようなものを、目で追っていた。

バスの後でか、ゆるりとバスローブを纏っている。

「もう、行ってしまうの?」

わたしの声に、彼は視線を手紙から鏡に移し、それからわたしに移した。

「起こしてしまった?」

そばに掛けられたタオルを取り、泡だらけの顔を拭う。

そこで、すっきりと目覚めた彼の瞳と会う。彼はちょっと欠伸をもらし、「ええ。軍の艦が、六時には出るというので」

「夕べは、そんなこと言っていなかったわ」

彼が出かけるのを、わたしはてっきりお昼の前くらいに遅く思っていた。ガイはわたしの思い違いを、訂正はしなかった。

彼は今日、この国のゴブジス島に向かう。そこにはほぼ要塞化した軍の基地があり、兵が多く詰め、軍の施設も艦もその工廠もある。

ガイがそこへ向かうのは、一年ほど前、彼がエドワード皇太子の後見役として、その姉のジュリア王女と共に隣国エーグルに赴いた際に、そこで王女を狙った暴漢から彼女を守り、怪我を負ったことに起因する。

ガイは一命を取り止め、怪我も癒え帰って来た。けれど、別の火種が持ち上がったのだ。

皇太子のほぼ名代の形で行った隣国で、国賓の彼が襲われたことに対する、こちらの兵士側の怒りや憤懣が、エーグル側の軍との小競り合いを招いた。

それは鎮火しながらもまたくすぶり、いまだぶすぶすと小さな煙を上げているという。

ガイは軍の、正式には王子の要請で、軍の高官らと共にゴブジス島へ行き、直に兵士たちの前で両国の親和と友好の大事についてを語り、また争う必要の絶無であることを説くのだという。

それを受けたとき彼は苦笑して、「人前で、数式以外のものを語ることが、果たして僕にできるのでしょうか」などと肩をすくめていた。

彼の役割も、その重要性も、外からやって来たわたしにも理解できる。納得もできる。

けれどガイは行ってしまう。ほんの十日ほどの滞在だというけれども……。

けれども、行ってしまうのだ。

わたしは幾度、一人のベッドで寒々とした朝を迎えねばならないのだろう。

やはり、それが堪らなく寂しい。

わたしは彼の背中に寄り添い、前へ腕を回した。

「もっと遅くに、あなたが出かけるのだと思っていたのに」

ガイはわたしが回した腕に、手を重ねた。

「お嬢さんが、眠っている間に行こうとしたのですよ。あなたは僕がゴブジスへ行くのを、つまらなさそうにしていたから」

彼はわたしの腕を撫で、「王女のサロンに伺って、フレドリックに絵を習うのでしょう。僕が帰るまでに一枚大きなものを仕上げてほしい。それを、そう、階段の壁に飾りましょう」

そんなことを言って笑うのだ。わたしがスケッチを数枚描いたきりで、もう音を上げているのを知っているくせに。

わたしが頬を彼の背に当てて黙ったままでいると、何を感じるのか、

「すぐに帰るから。十日なんて、ほんのすぐですよ。困ったお嬢さんですね」

彼はからかうようにそう言う。「もう少し、眠っていらっしゃい。ほら、あなたの目は赤い」

ガイはもうわたしを抱いた宵の影をすっかりと消し、後は紳士らしく身なりを整え、ステッキを手にするだけ。

それが寂しかった。ふわりと優しくわたしをベッドに残し、遠くへ彼は行ってしまう……。

わたしは腕にぎゅっと力を込めた。頬を背に強く当てる。「ねえ、もう一度抱いて」

そんなことを口走った。

ガイだけにしか抱いてほしくない。

ガイしか知らないわたしを、一人の夜に放っておかないで。

「お願い、抱いて。もう一度」

ガイの口から、吐息のような笑い声のような、ちょっとあきれた響きを持つ声がした。

急ぐのは知っている。あまり時間のないのもわかる。

けれど、あなたがほしいの。わたしの影を消したあなたに、もう一度わたしを残したいの。

「簡単でいいから、お願い」

彼はわたしの腕を解き、振り返る。そうして優しく抱きしめた。「どうしたの?」と、問う。

わたしはそれに答えずに彼のローブの胸をはだき、唇を置いた。

髪に彼の唇を感じる。それが流れてほしくて、わたしは焦れた。

ほんのりと柔らかな照明。窓からはまだ朝の明かりは差さない。その中でわたしは自分のガウンを滑らせた。足元にすとんとそれは落ちた。

早くあなたがほしい。

彼の腕が体を包み、その嬉しさに涙ぐみほどにわたしは陶然となるのだ。

キスを受けて、わたしの膝が他愛なく崩れていく。床に膝が折れ、着いた。

ガイがわたしの脚と背に腕を回す。

「あなたをこんなところで愛せない」

ベッドへ運んでくれようとする彼を、わたしは止めた。「いいの」と。

「ここでいいの。ここで抱いてほしいの」

離れていても、わたしを感じてほしいの。

あなたになら、どこででも愛してほしいとせがむわたしを。

「お願い」

わたしはもう始まっているから。早く、愛して。

「あなたは、なんて可愛いらしいのだろう」

彼の普段より少し急くようなキスと愛撫。それらを受け、うっとりと目を閉じた。じんわりと、わたしが彼に溶けていくのを感じる。

「あ」

もれそうな声、歓びの声にはっとする。ガイの早い出立に、使用人も起き出しているのだ。

唇を噛んでやり過ごすわたしに、彼が自分の指をわたしの唇にあてがった。

「僕の指にしなさい。あなたなら、思い切り噛んでいい」

「え」

唇からの吐息に、しっとりとぬれていく彼の中指を、わたしは初めやんわりと、しかし堪らない肌の疼きに押され、次第に強く噛んだ。

 

目覚めたのは、ノックの音。

周囲は朝の光で明るくなっていた。ベッドの外の様子を、天蓋から降りた優しいレースが白っぽく見せる。

わたしは一人で眠っていた。ガイは既にいない。

小さな幕間のような情事の後、わたしをベッドに運んでくれ、すぐに着替えると出かけて行った。わたしのせいで、時間がなくなったのだ。

わたしは身を起こし、ガウンを肌に纏った。きゅっと前で紐を結び、ノックに返事をした。

わたし付きの小間使いの少女のアリスだ。朝のお茶を持って入ってきた。

わたしは熱いそれを、ベッドで少しずつ飲みながら、少し背中が痛むのを感じている。化粧室の床でガイと重なって、すれた部分が傷むのだ。

「奥さま、旦那さまはもう、海の上でいらっしゃいますよ。今日中にはゴブジス島にお着きになるそうで。
あちらでは軍のお偉い方々と、国の大事に関わる大切な講演をなさるのでございましょう? 執事のハリスさんが申しておりました。旦那さまはお偉いお方だと。
素晴らしいことでございますね。アリスもそれを聞いて、他のお邸に奉公に上がったお友だちに鼻が高いのでございますわ。うちの旦那さまは、素晴らしいお役目をお持ちのお方でございますもの」

いつもの陽気なアリスの声に、わたしはうつむいて紅茶を啜るだけだった。ようやく、ほんの小さな声で、「そうね」とうなずいた。

恥ずかしさに、今更に愕然となる。

大事な役目を控えた忙しい彼。その出立の前に、わたしは抱いてほしいとせがんだのだ。

彼は何か手紙のようなものを見ながら顔をあたっていた。急くものだったのではないのか……。

なのに、わたしは自分だけの感情で、一人置いておかれるのが寂しくて、愛してほしいとせがんだ。

それをガイは適えてくれはしたけれど……。

羞恥と、自分のしてしまった行為の考えのなさに、このとき身がすくむ。

なんて愚かなのだろう。

わたしはなんて、馬鹿みたいに自分勝手なのだろう。

 

わたしが噛んだ、彼の指。

痛まなかったろうか。跡に残らなかったろうか。

気遣いつつも、どこかでやはりほんの少し残っていてほしいと思うのだ。

わたしの影を、離れた今、彼に残しておいてほしいのだ。




『月のマーメイド 彼女のブルー』ご案内ページへ♪     『月のマーメイド 彼女のブルー』(2)へどうぞ♪     サイトのご案内トップページへ♪
『月のマーメイド 彼女のブルー』ご案内ページへ          

お読み下さり、ありがとうございます。

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪