月のマーメイド 彼女のブルー

2

 

 

 

わたしには、この世界に来て、ガイの妻となってから、日常自分に課したものが幾つかある。

邸に花を欠かさないこと。そして、ガイの肌に触れるもの、ハンカチであったりピローケースであったり、そういったものにイニシャルや簡単な図案を刺繍すること、少しでも、数針であっても、必ず針を運ぶこと。

または、厨房に足を運び、料理人と話し、料理の様子を押し付けない程度に見ること。他には邸に届く手紙の整理や、その返事に心を配ることなど。

ときに間にお茶の時間を挟み、または外出をしたりなどして、それらの時間は、一日の中で定まってはいない。

眠るまでの許された時間の中に、ぽつぽつとその仕事を置き、それらをこなし、一日を終えると、まるで粒の小さなジュエリーのネックレスが一つ出来上がるように思え、嬉しい。

ささやかなその、小さな小さな粒を通したネックレスは、日々により色味が異なり、ときに輝きが異なる。けれど、それらはこれからのわたしという女を、ずっと幸せにしてくれるように思うのだ。

人に見せることはできない。しかし、わたしにはそれを感じることができる。それを裸の首にさりげなく飾っている気もする。

それが嬉しいのだ。

そんな風に、わたしは日々を送る。再び出会えたガイとの大切な日々を、まるで胸にしるしを刻むように、大事に過ごしている。

 

 

ガイがゴブジス島に出かけてすぐに、胸がざわめくような出来事が起きた。

エドワード王子のパートナーとして、舞踏会に出ることになったのだ。これは彼の祖母に当たる王太后の誕生日を祝って催されるもので、王宮の大広間に招かれた人々が、おかしなことに仮装をして参加するという趣旨だという。

わたしはジュリア王女の代役に過ぎない。彼女が風邪を引いたため、急遽その代わりに王子のそばにいて、数度踊るという役が回ってきたのだ。

その誘いを、わたしは直に王子から知らされた。王女の見舞いに伺い、その折に彼と会った。

ガイの妻であるわたしを、まぶしいブロンドの王子は、ごく気さくにそばに寄せてくれる。

「ジュリアより、僕はユラと踊る方がいい。留守のガイの代わりに、僕が君のパートナーになるよ」

そう言って笑った。深い海のような瞳をちょっと瞬かせて。

王子の言葉を受けて、本当は戸惑いの方が勝った。この世界に来て、わたしは舞踏会に出たことなど、ただの一度しかない。

ガイはそういった会を好まないし、自然わたしも遠ざかるようになり、王子の申し出にも、華やかさに心が躍るより、やや面倒な気持ちと怖じる気持ちが、まず顔を出す。

「ジュリアばかりではなく、たまには僕にも付き合ってよ」

そんなことを言い、彼はわたしが重く受け止めないよう軽く誘ってくれる。

王子という人は、長く療養を繰り返した影響があるのか、立場上控え目にはしているけれど、人の好き嫌いが激しいようだ。

ジュリア王女とは別の意味で、そのきれいなブルーの瞳に相手の心をのぞくことで映し、自分に追従だけで近づく人間を、瞬時に見分けているのではないかと、ひっそり感じることさえある。

いつか聞いたことがある。「アンドリューと比べられるのが、一番癇に障る」と、硬い口調で王子がもらした言葉を。

三つ年上の健康な異母兄の王子との比較。その影を表情にちらつかせる人物を、王子は今もひどく嫌う。

けれども、彼がわたしをそばに寄せてくれるのは、会ったこともないアンドリュー王子との比較をしないからではなく、従兄弟であり後見役である、懇意なガイの妻だからだろう。

だから、王子はわたしに親しみを見せてくれる。

舞踏会の件を、渋々と承諾し、仮装のドレスを見繕うのに、少々頭を働かせた。

そこでふと、王子がわたしに自分の衣装を着せることを思いついた。何が面白いのか、乗り気で、

「皆、奇抜な格好をするんだ。恥ずかしがらなくていいよ」

そんなことを言って、自分のアイディアを譲らない。新しいドレスを作るにも間に合わず、結局押し切られ、王子の言う通りになった。こんなところは、姉のジュリア王女によく似ている。

その後、数日して王宮から届いた、王子が数年前に袖を通したという薄いブルーのスーツは、少々丈を詰めれば、わたしにぴったりだった。

「まあ、おかしなことを思いつかれるのでございますね、王子さまは」

邸の家政を取り仕切るアトウッド夫人も、呆れ顔を見せながらもおかしそうに笑う。

それに結った髪を隠す帽子を被り、ステッキを持ち、会場で着けるという仮面を携帯し、わたしは迎えの馬車に乗った。

とにかく、ガイの留守でよかったとほっとした。こんなまるきり少年のようになったわたしの妙な姿を彼に見られたら、彼はきっと、「よく似合いますよ」などとからかい、ひどくおかしがるはずだ。

そんな彼の瞳に会えば、わたしは恥ずかしくて顔も上げられない。

 

 

まるで昼のように燦々とシャンデリアが輝く舞踏会場は、王宮のほぼ中ほどに位置する。ぐるりと庭園をめぐらし、夜の中照明を施され、美しくライトアップされた雪の庭園を見ることができる。

確かに皆、思い思いの装いを凝らしていた。動物を模した衣装を纏ったり、海賊に扮していたり、それぞれだ。

何でも今夜の主賓である王太后さまが、こういった遊びを好まれるのだとか。ご本人は、老齢とあって階上の桟敷席に座り、オペラグラスで華やかな喧騒をご覧になっている。

「ユラ、まるきり僕みたいだ」

王子はわたしの仕上がりにいたく満足気で、早速と、わたしの腕を取った。自分はいつもの衣装に仮面を着けるのみ、なのだからずるい。

けれど、王子さまであり、失礼があってはいけないから、仮面舞踏会であっても、王族はそれほど奇抜な格好はしないものなのだという。

煌くシャンデリア、その下でくるくると踊る珍妙ななりの人々。笑いがさんざめき、華やかに宵は更けていく。

幾度王子と踊っただろう。ときに休み、軽いお酒を飲んで、人々と話す。そういったときに必ずもらう言葉が、「アシュレイ閣下がお元気になられてよろしゅうございました」または「アシュレイ伯爵も、こういった社交においでになられるべきでございますよ」。

わたしはそれらに礼を言い、または曖昧に言葉を濁して笑むのだ。

それの繰り返し。ときが流れ、王子は騒ぎに飽き、わたしはじんと頭が痺れるように、疲労を感じた。

早く帰って、バスを使いたい。

ちょうど王子に連絡が入った。軍に関係のある事柄で、彼の判断を仰ぐということらしい。

「大したことじゃないんだけど、ここを抜け出す口実になればと思って、いつでも連絡を寄越すように頼んでいたんだ」

王子はそう言い、わたしと別れた。

ちょうどその後だった、わたしも彼に合わせ帰るつもりで、会場を出かけたとき、背中に声が掛かった。

「一曲、お付き合いをいただけませんか?」

断るつもりで、振り返った。そこにはひどく背の高い婦人がいた。美々しく裾の長いドレスを纏い、扇子を手にしている。ブロンドのくるくるとした髪は肩に垂れ、仮面を着けた顔を縁取っている。

低い声、そして見上げた喉の突起、女性には逞しすぎる長手袋の手。

「可愛らしい紳士がいらっしゃると、先ほどから気になっておりました。わたし、いや、わたくしと踊っていただけませんか?」

断りを述べる前に、思わず唇から笑いがもれた。どう見ても男性の女装なのだ。

わたしが男装をしているのだから、その反対があってもいい。けれど、その『婦人』はレディには厳つすぎ、化粧も浮き、滑稽でしかない。

ガイが女装をしたら、こんな感じかしら。そんなことを思って、おかしくなる。なかなかに笑いが収まらない。

「ああ、お笑いになるのですね」

「ごめんなさい。あんまりに、板についていらっしゃらないから」

それに相手の『婦人』も、声を上げて笑う。

「そうですね。自覚しています。こんななりをしたのは初めてですよ。誤解なさらないでいただきたい」

『婦人』はわたしを知っているという。王子の相手をするわたしの名は、こんな社交の場には珍しいアシュレイ伯爵夫人だと、会場のあちこちでささやかれていたという。

それに心が、ややひやりと冷えた。笑いも引っ込む。

自分の知らないところで、知らずに自分の名が人々の口に上る感覚に、わたしはまだ慣れていない。ガイのように慣れていない。

性格的なものもある。けれども、わたしは外から来た人間だ。その意識は、彼のいない場所では、ふと不安に変わる。

「そう…、噂になっていたのですね」

『婦人』は腰を折って、わたしに片手を差し出した。「踊っていただけませんか?」と。

「よいではないですか。あなたは今宵、レディ・ユラではいらっしゃらない。どこか外国の可愛らしい紳士ではないですか」

その言葉に、ちょっと気持ちが和む。彼の口調が軽やかなせいかもしれない。確かにわたしは、『どこかの外国』紳士なのだろう。

わたしは誘いに、笑ったお詫びも込めて、「一曲だけ」と受けた。

仮面の向こうに『婦人』の黒い瞳がのぞき、瞬いて輝いていた。

 

 

ジュリア王女の風邪が回復し、早速彼女から、絵のレッスンへの誘いの手紙が届いた。わたしはそれに返事をし、翌日には、彼女のサロンに赴いた。

数枚のスケッチを絵の教師のフレドリックから教わり、イメージではふうわりとした芍薬を描いたつもりが、彼には「チューリップには、花びらが多過ぎませんか?」と不思議そうに問われ、何も言い返せなかった。

その恥ずかしく気まずいわたしの気持ちをすっかりと読んだ王女は、にやにやと笑い、わたしの腕を抱いた。

「マキシミリアン一の画家には、遠そうね」

 

サロンで絵のレッスンの後でお茶をいただき、暇を告げたのは、夕刻ごろだった。手にスケッチブックと、画材を持っている。邸に帰ってから少し練習をするつもりだった。

少しくらいは、上手く描きたいもの。

既に慣れた回廊の途中、前から紳士がやって来るのが見えた。黒いスーツに帽子、コートとステッキは馬車に置いたのか、手ぶらでこちらへ向かって来る。

行き交うときに目が合い、ガイよりやや若い年のころの彼が慇懃に会釈をした。わたしはそれに返し、通り抜けようとした。

「レディ・ユラ、覚えていらっしゃいませんか? わたしです」

その声に長身の彼を、わたしは見上げた。黒い瞳と少し癖のある黒髪。そのハンサムな彼と、わたしはどこかで会ったのだろうか。

「わたしですよ」

低い笑みをにじませた声に、はっとする。仮装舞踏会の『婦人』だ。

彼は改めて慇懃に腰を折った。自分はロールズバリーに領地のあるフィリップ・デクスター子爵だと名乗った。今日はこれから挨拶のために王子のサロンに伺うのだという。

朗らかに笑う彼は、わたしが王宮で何をしているかを聞いた。「ジュリア王女と絵を習っているのです」

「それは素晴らしい。画廊に並んだら、すぐに買いますよ」

「嫌だわ。まだ一枚も描いていません。絵は単なる王女のお付き合いです。あの方も、わたしをコンパニオンのつもりで、いらっしゃるもの」

「ほお」

それにも彼はにこにことうなずき、慇懃に相づちを返してくれる。笑うとちょっと少年ぽくも見え、なぜだか、ちくりと胸が痛む。

どこか、柏木先生に似ているのだ。雰囲気がそうなのだろうか、黒い髪と瞳がそう思わせるのだろうか。

どこか、微かに彼を思わせる。

だから、ちくりと胸が痛んだ。

フィリップさんはわたしの髪を誉めた。

「黒い髪はひどくきれいだ。夜の闇のように、深くて悩ましいですよ。あなたのそのアイボリーのドレスによく似合う。珍しいほどの黒い瞳ですね。見事なほどに美しいですよ」

ねっとりとささやかれでもしたら気味が悪いだろうが、彼はそれをあっさりと爽やかに口にする。言葉にする。

「黒い瞳は好きなんです。どうしてだろう、気になって仕方がないのです。自分と、同じだからかな…」

わたしは言葉を返せなかった。

似たような言葉を、わたしは柏木先生からもらったのを覚えていた。「君が気になって仕方がない」と。

ざわざわと胸が騒いだ。妙な緊張で、喉がからからに渇いた。

「僕の妻に何かご用ですか?」

不意に声がした。その方へ顔を向けると、ガイの姿が目に入った。彼は整った庭を横切り、すぐそばまで来ていた。王宮に慣れた彼らしい。そんな行儀の悪い『近道』は、普通ゲストは誰もしない。

彼の姿を目にしたことで、胸のざわめきは止んだ。

ガイはわたしの腕を取り、引寄せる。彼の手がわたしの腰に回った。「何をしているのです?」

そう言って、わたしの顔をのぞく。わたしはこの紳士とは先だっての舞踏会で会ったこと、そして偶然ここで再会したことを告げた。

ガイは、ちらりとフィリップさんへ視線を向けたきり。挨拶の言葉も述べなかった。

「失礼にも、奥さまをお引止めしてしまった。申し訳ありません。ではわたしは…」

フィリップさんは帽子の縁に手をやり、わたしへ柔らかい微笑を向けると、足早に去って行った。

わたしはガイに訊ねた。彼がゴブジス島から帰るのは、まだ四日ほども後になるはずだったのだ。

ガイは思いの他、早く用が済んだと言う。軍港からすぐに王宮へ入り、王子へ報告を済ませた後、ジュリア王女の許へ、絵を習いに訪れているわたしを迎えに来てくれたらしい。

 

邸へ向かう馬車に二人きりになると、ガイの視線を受けるのが、ぎりぎりと身を縛られていくように感じる。ひどく恥ずかしいのだ。

今更ながら、数日前、彼の出立の直前にわたしが彼にせがんだこと、望んだことが思い出される。

わたしはなんてはしたない、恥ずかしいことをしたのだろう。馬鹿みたいに軽率で、いやらしい。

わたしは下を向き、スケッチブックをいじり、または窓の外の景色を眺めた。

「僕が早いのを、あなたはもっと喜んでくれると思っていたのですよ。がっかりだな」

返事もしないでうつむいてばかりいるわたしを、ガイはどう見るのだろう。呆れているのだろうか、おかしな女だと思っているのだろうか。

ガイの手が伸び、わたしの腕を取った、ちょっと、けれど強く引く。わたしはおかしなほど簡単に、すとんと彼の膝に乗った。ふんわりと彼の纏う煙草の匂いがわたしを包む。

「あなたは全く、猫みたいな人ですね。どうしたの? 数日前はあんなにも愛らしく僕に擦り寄ってきたのに、今はつんとしている。拗ねているの? 僕が留守にしたから」

ガイの唇が頬に触れた。それは耳に移り、飾りの着いたその下を軽く噛んだ。「お嬢さん」とささやく。

わたしは恥ずかしかったのだと、言った。ガイの瞳を受けるのが、堪らなく恥ずかしかったと。

「ごめんなさい。みっともないことをして、自分勝手でごめんなさい。寂しかったの、ガイが行ってしまうのが」

彼はそれにちょっと笑った。吐息に絡むような軽い笑い声。指にわたしの髪を絡め、するりと外し、また絡める。

「あなたのことばかり考えていた。ずっと、あなたのことばかり。僕の奥さまはどうしてあんなにも可愛らしいのだろうと、うっとりとしていた」

だから、兵の前で行ったという講演は、どこか上の空だったという。「あの程度の内容で、彼らを鎮めることが叶うのか、いやはや疑問だ」

「え」

あなたのせいだ、と彼は言う。そして笑う。

唇が触れて、それが濃密に絡まるのはすぐ。

「早く、あなたを愛したい。そんなことばかり考えている」

おかしいでしょう、とガイは笑う。病気みたいでしょうと、彼は笑う。

わたしはそれにはにかんで、言葉を返さなかった。

待ち望んで、しっとりと心が潤んで、焦れているのはわたし。

きっと、わたし。




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