甘やかな月  〜プロローグ〜
 
 
 
ばたりと玄関の開く音を聞いて、わたしは洗い物の手を止めた。エプロンでぬれた手を拭いつつ、声のする方に向かう。
夕食も終えた時間なのに、最近はお客がちらほらやって来る。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔しますよ。社長は、おいででしょうね?」
父の会社の経理を担当する矢島さん。幼いころから父の会社に寄るたびに、お菓子をくれたり優しい言葉をかけてくれた。いまだにわたしをほんの少女のように思うのか、チョコレートを渡してくれたりするのだ。
あのころはふさふさしていた髪はうっすらとし、染みの出た目の下には、皴がくっきりとある。彼の疲労と老いの影が、そこにはっきりと見える。
隣りには見知らぬ男性がいた。アタッシュケースを持ち、紺のスーツを隙なく身に着けた、いかにもビジネスマンといった人物。
会計士、もしくは弁護士さん?
眼鏡の奥の彼の瞳と目が合った。
「父は、居間におります。あの……わたしは、娘です」
「存じておりますよ。由良さんと、おっしゃるんでしたね」
「はい」
屈んでスリッパを差し出したとき、上から彼の声が降ってきた。ピアノは弾けるのかと。
見上げると、矢島さんが彼の肘を引いている。渋い顔で、止めろと言うのが聞こえた。
二人を居間に案内し、わたしはお茶の用意にキッチンに立った。曇りガラスの扉で仕切られた居間の様子が、ここからぼんやりと見える。
ドリップして淹れたコーヒーを二つ。父には紅茶を入れた。父は最近胃の調子がよくないと、コーヒーを好まない。きりきりと胃が痛むのだそうだ。
居間の一人掛けのソファに父が掛け、それと向き合う形で彼らが座っている。ガラステーブルの前にコーヒーを置き、父の側にあるワゴンに紅茶を乗せた。
アタッシュケースは閉じられたまま、見知らぬ男性の膝に乗っている。ぱちんとその留め金の弾かれる音がした。
「ここはいいから。由良、お前は自分の部屋に行っていなさい」
父が、わたしへ追い払うように手を振った。
「はい。……ごゆっくり」
居間を出て、そのまま自室のある二階に上がった。
エプロンを外し、ベッドにすとんと座る。
瞼の裏に、父の表情が浮かんだ。くたびれたような、辛そうな。矢島さんが刻んだ同じものが、父の表面にもはっきりと表れている。
愛する人のそんな影を見るのは、ひどく嫌なものだ。
 
 
随分前に母が亡くなり、わたしは父に男手一つで育てられた。まだ幼いころは家政婦さんが来て、家の中を見てもらっていたが、わたしが高校生になると、自分で家事をするようになった。
工夫し、あれこれ自分なりのルールを決め、家を切り盛りしていくのは楽しいもので、父もわたしの好きなようにさせてくれた。
地元の女子短大に入ってからも、そんな生活が続いた。友人と遊び、ほのかな恋をして、ケーキ教室に通う。
それがわたしの日常。
父の経営する会社が、上手くいっていないのだろうと、おぼろげながら察し始めたのは、ごく最近のことだ。
止めていたはずの煙草を吸い出した父。夜分の来客。その会話の重苦しい雰囲気。
それらには、ついぞ、笑い声が上がるのを聞かない。
もちろん父は、会話の内容など、教えてはくれない。不安で、視線を向けても、「お前は心配しなくてもいい」と返ってくるだけだ。
何もしなくていいというのは楽だけれど、何もできないというのは、気持ちが滅入っていく。
部屋の窓を開けた。冷たいきんとする冬の空気が、湿気と共に入り込んでくる。この冷気が、空気を洗ってくれたらいいのに。汚れたものをみんな。
指がかじかむまで、無心な振りをして、わたしはそうしていた。





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