甘やかな月(1
 
 
 
それはほんの小さな綻びのはずだった。他愛もなく繕えて、また、今までと同じ世界が続くのだと疑わなかった。
そんな驕った思い込みは、きれいに裏切られる。
わたしは、なんて甘く、幼いのだろう。
ころころと坂を転げるように、水が下方に流れるように。気づいたときには、全てが遅く、逃げられない。
 
 
父が亡くなった。自殺だった。一番に出勤した社員が見つけたという。父は社長室で首を吊ったらしい。
そこからはとんとんと、まるで予め決められたお芝居のように進んだ。慌ただしい葬儀の後、父の会社は人手に渡り、莫大な借金が残った。わたしは全てを放棄する代わりに、帰る場所を失うことになる……。
しかし、父の借金を肩代わりしてくれるという人が現れた。家と土地を処分させてくれれば、それでいいという。
おかしなことに、その奇特な人物は、父の負債の債権者本人なのだ。
この話を持ってきたのは父方の叔母だった。わたしは「金沢の叔母さん」と呼んでいた。お喋りで、少々押し付けがましいところがある。
そして、彼女と共に現れたのはいつか家に来たことのある、あのアタッシュケースの眼鏡の男性だった。
 
「いいお話なのよ、由良ちゃん。借金もなくなるし、短大も卒業させてもらえる。こんなお話滅多にあるものじゃないわ。お断りしたら、罰が当たりますよ」
叔母さんは隣りに掛けた男性(時任さんという)に、言葉を求めた。
彼は父よりもずっと若い。三十半ばごろか。整ってはいるけれど、あまり表情のない顔をしている。冷たいほどの声で、「その身一つで、来て下って構いません」などと言う。
「ねえ、あちらさんがこうもおっしゃって下さっているのですよ」
叔母さんが言い募る。まるで返事をしないわたしを責めるかのように。
 
まだ十九歳のわたしが、借金のためにいわくありげな五十を越えた人の後妻に入ることを説くのだ。
彼女は自分の娘に、同じことが言えるのだろうか? 
 
「あなたがうんと、ひとつ頷いてさえくれれば、全てが終わる。亡くなったお父さんの会社の社員の雇用も保証される。あなたは路頭に迷うこともない」
わたしは彼の言葉に、返事も返さず、すいっと立ち上がった。
自室に入り、机の父の携帯を手に取る。メモリーから矢島さんの番号を拾い、コールする。
何度かの後つながった。
『お嬢さんでしたか。社長の番号なので、びっくりしました』
落ち着いた、けれど寂しげな声。矢島さんは父の葬儀や会社の件でも、忙しく働いてくれた。お礼は既に述べたけれど、もう一度改めて口にする。
『最後のご奉公ですよ。こちらこそ……、社長には大変お世話になりました』
「あのね、矢島さん。訊きたいことがあるの」
わたしは今家に時任さんがいること、わたしの縁談と借金の肩代わりのことを打ち明けた。
わたしのぼんやりした頭でも、父が騙されたのだという疑念が湧いてくるのだ。父の会社の経営不振から父の死までの経緯が、娘としてすんなりと飲みもめないだけでなく、ひっかかりがどうしても拭えない。

おかしいのだ。
矢島さんはたっぷりとした間を取った。長く嘆息した後の声は、絞り出すようだった。
『乗っ取りですよ。上辺は経営のコンサルタントの顔で近づいてくる。いつの間にかこちらの社員を取り込んでしまう。気付いたときには、どうにもならないほどに、負債が膨れ上がっているんです。……あまりに、やり口が汚い。蛇のような連中だ』
「そう……」
その蛇のような人に、わたしは望まれている。ぞわりと肌が粟立つのを感じた。
『縁談の件は……、お嬢さんがお決めになってなって下さい。決して勧められないが、生活は保障されます。……一つの選択肢ではあります』
「……ありがとう。よく、考えます」
電話を切った。
振り返るとドアに、時任さんが立っている。それが、胸を嫌なようにどきりと打つ。いつからいたのだろう。
「あんまり遅いので、心配しました」
けろりとしてそんなことを言う。父の後を追って、わたしも命を絶つとでも思ったのだろうか。
「今、行きますから」
部屋を出る際、彼とすれ違った。背中越しに冷めた声が聞こえた。
「あんまり人を信じない方がいい。矢島氏だって、あなたがこちらに縁付くことを望む一人ですよ」
それにわたしは、言葉を返せなかった。
 
頭の奥を、じんとする痺れが広がる。
わからなくなる。




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