HALEM

10
 
 
 
硬い石でも口に含むような、味気なさだった。幾ら爪先に舌を這わせても滑らせても、王は微動だにしない。
檻に入れ日干しにさせた後で、こんな地下牢へ放り込む。王の晴れない怒りに、わたしは怯えていた。次は何が待つのか、何を科せられるのか、その気配すら感じられないことが怖かった。
ただ単純に、あっさりと命を奪われるのではないのだろう、と嫌な想像がつくばかりだ。また明日の朝を待って、あの檻に戻されるのかもしれない。今度は長く、苦しんで、本当に渇き切ってしまうまで……。
怖かった。
その恐ろしさで、わたしは石の床に置いた手で、王の足に触れた。脛から手のひらをゆっくりと、滑らかな感触の肌へ滑らせていく。こんなことで、王の怒りの何がほぐれるのか、わたしにもわからない。わからないまま、顔を上げ、衣を潜り指先が辿った線に、唇を乗せる。
よく知った肌の匂いと、慣れた行為。リーのもとから連れ戻されてから、一言の詫びも口にしていないというのに。わたしの中にいつしか巣くった、王への甘えと慢心が、この期に及んでのこんな仕草によく現れている。
頬を寄せた王の片脚へわたしは腕を回して、愛おしいもののように抱いた。
黙ったままの王。静かな暗い密室に、わたしの呼吸だけが、恐怖に急かされ、一方的な愛撫にぬれていく。
罪悪感は、今も生まれてこない。
甘やかな監獄のようなハレムから出たいと願った気持ちに、偽りはなかった。外を知りたいと望んだことも、何の嘘もない。そして、愛と未来を誓い合ったリーではなく、最後に王を心で欲した事実。誰でもない、わたしが選んだのは王なのだという、確か。
それら偽りのない心に根ざした思いの上に、王への罪の意識は芽生えない。
ただ、怖いのだ。見えないこれからが。王の怒りが。
「お前のせりふは、愉快だった。あの男の蒼白になった顔は、見物だったぞ」
ぽつりと頭上に降ってきた言葉。先刻船で、わたしがとっさについた、まずいでまかせのせりふを言うのだ。リーが、何も知らないわたしをさらおうとした、と。
わたしは王の声に、顔を上げた。暗がりに、白く衣装が浮かぶが、こちらを見下ろす彼の顔色は量れなかった。
言葉はつながらない。
「事実ですもの…」
見え透いた嘘をつぶやき、わたしは再び脚に唇を重ねる。腰から伸びた手を取り、指を絡めた。
その手が、思いがけず強く握られ、込めた力で硬い床へ押し倒された。ずきんと背を打つ痛みがあったが、それよりも、組み敷かれるときめきが勝った。
それで、何もかも今、変わると思った。
 
抱いてほしい。
 
王はわたしを押し倒し、のしかかるように覆い被さった。ふわりと起こる小さな風に、彼の香がする。芳しく鼻腔をくすぐり、気持ちが昂ぶっていくのだ。荒く衣を剥ぎ、肌を露わにする指。乱暴に脚を開かせる腕……。
何の愛撫もないのに、これだけの触れ合いに、わたしは既に甘い吐息をもらしていた。
脚を擦り合わせるようにし、わたしは行為をせがんだ。
組み敷いた姿勢のまま、王は瞳を凝らし、わたしをきつく見つめていた。それはどこか冷めていて、なぜかいつもの女を求める欲望の熱が感じられない。
「ねえ…」
焦れて、わたしはまたせがんだ。誘うように彼の腕を撫ぜ、または乳房を一人いじってみる。
「このように、あの男を誑し込んだのか?」
「え」
「そうなのか?」
王はわたしから身を起こして離れた。片膝をついて腰を下ろし、淫らに肌をさらしたままのわたしを、冷えた視線で距離を置いて眺めるのだ。そこに雄らしい熱い猛りなどなく、わたしを抱く気などないことが知れた。
「あ…」
王が放つ気配には、淡々とした冷たさと、浮き上がる酷薄さが漂うばかり。彼には端から情事に及ぶつもりなど、なかったのだ。ただ、わたしをその気にさせ、淫らな姿態をとらせ、嗤いたかったのではないか。
だから、組み敷きながら、リーの話など持ち出してくるのだ。
わたしはようやく身体を起こした。羞恥に頬が熱い。王の挑発にうっかり乗り、こんな場所で抱いてもらえると考えた、どこまでも浅はかな自分を、呪った。
乱れた衣を直し、膝を抱え横座りした。視線は、自分の膝へ下がる。
「お前ほどの女ならば、あんな異国の男をすっかりその気にさせるのは、さぞ容易いだろう。何をしてやった? その身体で?」
わたしは首を振ることで、答えに変えた。
リーとの間にあったものは、壊れやすい純な恋だけ。ハレムの性が染み付いたわたしは、抱かれることを切に望んだけれど、果たせなかった。
「何をしてやった?」
王の声が、凄みを増して鋭くなった。それにもわたしは首を振ることしかできない。
「何も…」
辛うじて出た言葉は、すぐに王にかき消された。
「何をした? あの男に、何をしてやったんだ?」
声は強く大きくなり、石の壁に反響し、耳に、全身に、突き刺さるように届いた。身を叩きのめされるようなその威のある声の恐ろしさに、わたしは震え上がった。
「何も…」
「サラ」
王は立ち上がり、腕を組み、再びわたしを酷薄な瞳で見下ろした。不意に髪の束をつかまれた。地肌が強く痛むほどの力で引かれ、引きずられてわたしはまた床に伏した。
「お前はハレムの女だ」
王の足先が、伏したわたしを仰向けに転がした。そのまま左肩に足を置き、ぎりぎりと踏みつけるのだ。加減はされてあったろう。でなければ、わたしの肩は他愛なく砕かれてしまっている。それでも耐えがたい痛みに、わたしは悲鳴をもらした。
意志とは関係のない熱い涙が、知らず頬を伝った。
王の数多の女たちの中で、とりわけ愛されていると人に思われ、自らそう思ってきた。けれど、それでわたしは幸せだったことはない。不満はなかったが、だから満ちていたということはないのだ。
いつもどこか、芯の部分であきらめに似た醒めがあった。日を追うにつれ褪めていくだろう王の寵愛や、衰えていく自身の容色、何も生み出さない飼われているという毎日……。
それらはハレムにある限り、どんな瞬間であっても、わずかに感ぜずにはいられないのだ。毎夜王の閨で執拗に抱かれ続けても、誰か別の女を蹴落としてでも、晴れない靄のような物思い。
それらに浸蝕していく自分が、わたしは切なかったはずだ。
そんなとき、リーが現われたのだ。わたしにないもの、あきらめたもの、手に入らないものを、愛と共に差し出してくれる男。その彼を選んで、どうしていけないのだろう。
 
では、王が何をくれるというのか。
 
肩の痛みに抗い、わたしは涙にぬれた瞳を王へ向けた。こちらを冷たく見据える王と視線がぶつかる。
「…由を」
「何と?」
「自由をくれると、リーは、わたしに…」
告げながら、涙があふれた。望みが断たれ悲しいのか、王の仕打ちが忍び難いのか、ただ恐ろしさに通じたものか、涙の意図が、自分にも知れない。
「一緒に、生きていこうと…」
肩から足先を外し、王が身を屈めた。その動きに言葉が途切れた。床に倒れたわたしの痛む方の腕を乱暴につかみ、身を起こさせる。
何をする気であるのか、意味を考える前に頬を平手で打たれた。あまりの衝撃に耳がわんわんと鳴り、二度三度続き、均衡感を失った頭が頼りなくふらついた。
視界が霞む。
「お前はわたしの女だ」
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。平手で頬をはたかれて身が床に倒れ込んだ。王の人を呼ばわる大きな声が続き、棺の蓋を思わせる音を立て、扉がすぐに開いた。
「用意しろ」
短い命は何だろう。王は何をする気なのだろう。痛む頬とぼんやりとする頭。視線は定まらない。
扉の向こうに別な男の姿が目に入った。ほどなくその男が王へ手渡したのは、柄が長い先端に火の色に熱せられた焼きごてだった。罪人の証やまたは家畜などへ所有者を表す印を焼き付けるためのものだ。
何がなされようとしているのか、瞬時に悟った。
恐ろしさに泣きながら抗った。許してほしいと叫んだ。そのわたしの身体を床に押しつけ、易く王は脚を開かせ、衣を剥いだ。
「お前のせいだ、サラ」
低い声が、合図。
露わになった片内腿に、熱せられた焼きごてが押し付けられたのは、すぐだった。
経験したことのない想像を絶する熱さと痛みに、わたしは声を限りに叫んだ。他の感覚が麻痺する、それほどの苦痛だった。
たっぷりと肌に置かれた焼きごてが、外され、痛みが増した。やっと自由になった身体を折るように庇う。ふと目に入った内腿の痕には、王の印章がくっきりと赤く残されていた。
それはかつて、歴代の王が所有する奴隷に行った処置だ。恐怖心を植え逃げ出さないようにさめるためと、また万が一逃げ出しても、その肌の印章により連れ戻しやすくするためだ。
 
その印章が、わたしの肌に刻まれた。
 
王への恨みであるとか、事がここに及んだ悔やみであるとか、そういった感情はわたしの中に現れない。代わりに、肌の執拗な痛みが薄れることをのみ、息を殺して願った。
いきなり、身体を折って耐えるわたしに、冷たい水が浴びせられた。幾度も幾度も。冷えた床がそれでさらに冷え、寒さを感じた。そして水が傷痕にひどくしみた。
 
「お前はわたしの女だ。自由など、ない」
 
その声だけを残し、王は踵を返した。嫌な音を立て開いた扉が、また嫌な音で閉まり、わたしは一人になった。
王が置き去りにした床に置かれたランプは、灯火を衰えさせ、冷えた牢をほのかに照らす。
寒い。
已まない悪寒が背から全身を覆う。               
凍える闇が、わたしをのみ込んでいく。



             

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