HALEM

11
 
 
 
激しかった痛みは、じくじくひどく痛むものに変わり、既に耐え難いものではなくなってきた。
身体をくの字の折って倒れこんだまま、両の手のひらで覆えるだけ腕を抱いていた。寒いのだ。ここに入ってから感じていた冷気が、今では堪らないものになりつつあった。ぬれそぼった身体を、牢内に充満した冷気が全身を刺すように痛めつけていく。
ほしいものは何もない。
檻に入れられ、日干しにされた。乾いていたはずの喉を潤す水であるとか、焼きごてを押された脚の傷のための薬などのことは、考えもしなかった。
逃れたい、そればかり。
それは、心も身体も傷ついた身を横たえた、ぬれた硬い石の床から。冷たくて、そこからも肌は凍えていく。それから、この寒くて不気味な地下牢から。
寒い。
背筋から身体へ広がる悪寒は、途切れない。いつしか、かちかちと歯の根が合わなくなっていた。痛みや寒さから耐えるため、噛みしめていた奥歯のせいか、頭が響くように痛み始めた。けれどもそれは、奥歯などのせいではなく、王に幾度もぶたれたことが原因なのかもしれない。
ここに置かれたままいたら、わたしはおかしくなってしまう。死の可能性すら、頭をちらつく。
助けてほしいと、心は叫んでいた。
声の代わりに、涙が絶えなく流れていく。
助けて。
助けて。
音のない涙の声で叫びながら、それは誰に向けたものであるのか、ほんのちょっとだけ、そんな疑問が脳裏に過ぎった。
 
誰もいないではないか。
 
誰が、今のわたしを助けてくれるというのだろう。不憫がり、また不安に思ってくれるというのだろう。
誰もいない。
そんな当然の事実に、わたしはこんなとき虚ろな頭で愕然としている。たとえば家族、友人、愛する人、恋人……。自身を取り巻くものなど、何もない。自分にとって、かけがえのないという存在が、たった一つすら浮かばない。
わたしにはハレムの女であるということ以外、確かなものは何一つないのだ。
その唯一の確かすら、もう覚束ない。
 
 
苦痛と寒さ、それらに身を折って耐え続け、どれほど経った頃か。わたしは意識が遠のくのを感じていた。やはり頭はぼんやりとし続けたまま、細かなことを考える余裕はない。
已まない悪寒に包まれながらも、わずかばかりわたしは眠ったらしい。短い夢が、ぶつぶつと脈略なく現れては消える。ひとときのその中でも、優しいことなどなかったように思う。誰かの非難や、嘲笑、そんなものばかりがつづいた。
ふっと現実に戻ったのは、頬に何かが触った感触だった。目を開ければ、いつの間にかそばに人がおり、わたしへ身を屈ませているのだ。それは婆やだった。
「ひどい熱があるよ」
覚醒したわたしへ、いつものようにぽつんと言葉を投げて寄越す。彼女はぬれた布で、頬や髪の汚れを拭ってくれているのだった。
わたしは言葉を返さなかった。気だるさがものを言う気力を、まったく削いでしまっている。
応えないわたしに構わず、それでも婆やは手まめに世話を焼いてくれる。水や妙に苦い味の薬湯を飲ませてくれ、ぬれた衣を脱がし、代わりのものを着せてくれる。着替えの作業は堪らない苦痛だった。脚が絹地に擦れ、内腿の傷に触ったのだ。
彼女が、開かせたわたしの傷部分を丹念に見ているのに気づいた。
「我慢をし、このままだと膿むからね」
何をするのか、考えるよりも先に、ぴたりと傷部分に布があてがわれた。腿を縛るその瞬時の痛みに、出せないはずの声がわたしの唇からもれた。
「ああ…」
「じき痛みが治まるはずだよ」
そうなのだろうか。そうであってほしいと、わたしは婆やの言葉に、容易く縋った。
処置が済めば、また悪寒と脚の痛みに耐えることが続く。
婆やはすぐには去らず、しばらくそばにいた。ハレムの女とその世話係と監視を務める婆や。それだけのつながり。それだけの関係。
その彼女が、どうしてか、こんな悲惨な状況のわたしの面倒を見てくれている。不思議とこのときの彼女から、いつもの人を食った雰囲気や押し付けがましさは感じられない。あまりにわたしが惨めな姿をさらしているからなのかも知れない。
王の寵愛を受ける女が、自由と愛を夢見て、異国の男とハレムから逃げ、あっけなく捕らえられた。そして、罰を受け傷つき、牢に入れられている。馬鹿馬鹿しいほどの芝居じみた事の成り行きは、ハレムを知悉している彼女でも、憐れさを催すのかもしれない。
どんな感情であっても、誰であってもいい。
人にそばにいてもらえることは、今のわたしには嬉しかった。こんな柔らかな思いを持ったのは、いつぶりであったろう。そんなことすら、覚えていない。それほどに、忘れた遠い過去……。
問わず語りに、婆やは告げた。
「放っておけば、サラ、あんた死ぬからね」
だから、ここへ様子を見に降りてきたと言うのだ。王の命ではないと、言外に告げている。
いつまでここに入れられているのか。
その先どんな罰が待っているのか。
ハレムへ戻ることは、叶うのか……。
問いたいことは幾つかあった。けれどもそれらは言葉にするのが億劫でもあり、知ることが怖くもあった。
いずれにせよ、問うても無駄で、王の怒りの深さや、それがいつ晴れるなど、婆やになどわかるはずもない。
わたしはこれから先を、所詮、自らの身をもって知っていくしかないのだ。
うんざりと、思考を投げ出したわたしに、ふっと降ってきた声があった。
「夢を、見られたんだろう? あの男と」
「え」
目を転ずると、婆やは女らしくもなく、胡坐に似た格好で座り、わたしを見ている。
「なら、いいじゃないか。それを一生の宝物におしよ。これからの大概のことは、それで耐えられる」
「え」
婆やは何を言っているのだろう。こんな境遇に堕ちたわたしを、慰めているのだろうか。憐れんでいるのだろうか。
責めるものでもなく、口調は淡々としていながらしみじみと、声はわたしへ届く。
「以前あたしがきつく止めても、あんたは聞かなかった。それほどほしかった男だったんだろう? 一緒にここを出たいと望むほど」
なら、いいじゃないか、と婆やは言う。ぽんと胸を叩き、
「ここにいる間は、何も変わらないよ。きれいなままさ。二度と会えなくても、どうにもならなくても…」
「婆や?」
そこで彼女は胡坐をかいていた脚の衣を、自らやや剥いだ。そこからややたるみのある肌が現れる。彼女の指が、その肌をすっとなぞった先にあったものに、わたしは目を見開いた。
王の印章があった。随分前のものなのだろう。ときを経て、薄くなりはしているが、くっきりと刻まれた王への隷属の証は紛れもない。
 
まさか、彼女も……。
わたしのように……。
 
わたしは知らず、婆やの肌に残る印章を凝視していた。
「あたしはあんたのような、寵愛の篤い女じゃなかった。数多いる女の中の一人にしか過ぎなかった。伽を仰せつかった数も、五本の指で足りるくらいのもんだ」
「婆やも…、ハレムに?」
彼女はその問いに、かすかな微笑を返すことに代えた。では、ハレムの噂通り、婆やは以前、彼女自身がハレムの女であった過去を持つのだ。
出入りの商人と恋に落ち、男の故郷の遠方で一緒になろうと誓い合った。
「簡単だと思ったよ。広大なハレムに自分一人がいなくなろうと、王には痛くも痒くもないと思った。寵愛を受けている訳でもなし、上手く抜け出せさえすれば、大丈夫だと思ったんだよ…」
そこで婆やは話を区切り、「若かったからね、無鉄砲なもんさ」とつぶやいた。
ところが、あっさり捕まってしまったという。王の放った追っ手に捕らえられ、男はその場で斬殺されてしまった。そのくだりで、何を思うのか、彼女はほんの少しまぶたを閉じた。
「婆やは…?」
「あんたと似たようなもんさ。わたしの場合は、まず鞭打ちだった。それから、ここへ放り込まれた」
「それからは?」
「男たちのなぶりもんだよ。臣下に下げ渡して、好きにさせる。…あたしゃ、一生分の交わり事を、あの頃済ませちまったようなもんだよ」
婆やの声は淡々とした口調ながら、表情には自虐の色が浮かんだ。辛かったのだろう、苦しかったのだろう。それは想像に難くない。
「……それからは?」
多くの男から散々の陵辱を受けた後で、彼女を憐れんだその中の一人が、王への寛恕のとりなしを行ってくれたという。
ハレムの女に戻れる訳もなく、そこの下女として勤めるというのであれば、許すと、特別の沙汰があった……。
そして、今に至る。
選りによって、逃げ出したハレムで、今度は下女として働かせる。その身の遇し方すら、懲罰の匂いが濃い。
驚くべき彼女の過去に、強い同情と関心を寄せながら、一方で、自分のこれからが怖くなるのだ。
わたしは……。
わたしも、婆やと同じような目に……。
暗い想像が頭を占め、ねつ気に侵されつつも、心が冷えていく。より一層、牢内の薄闇が気配を増した気がした。
「あたしは男を殺されちまったけれど、あんたの方は生きてるって話じゃないか。さすがの王も、異国のお使者までは手にかけられなかったんだろう……。それを、せめてものよすがにしな。しばらくは、きついだろうけど…」
リーが生きている事実。傷を受けはした。けれども生きている。その事実は、土壇場で裏切りを犯したわたしの後ろめたさを、若干は軽くする。
生きているリーをよすがに。
出来るのだろうか。彼との美しい思い出を胸に抱いて、おそらく過酷なこれからを、耐えていく……。
わたしに出来るのだろうか。
今はそれに勇気を感じられるほど、わたしは強くも前向きにもなれない。心で身体で王を求めながら、その同じ王の放つ苛烈な自分への仕打ちがただ恐ろしいのだ。これからが、この先が。
「あ」
ふと、何かがこのときつながった。婆やは言った。彼女の男は殺されてしまったと。本来なら、リーが異国の外交官などでなければ、あっさり王はリーを殺しただろう。でも、殺せなかった。そこで思い出すのは、王に捕らえられ、その後改めてこの牢で対面した際、彼はまずこう言ったのだ。
『とんでもない恥をかかせてくれたな』
王のこの言葉は、リーや異国の人々に恥辱を受けたという意味ではなく、ハレムの女を奪われながら、リーを殺すことが叶わなかったことによる屈辱感を指すのではないか。
そうであれば、一層わたしへの怒りも恨みも深いだろう。この勘のような思いつきは、それほど外れてはいないように思えるのだ。そう思えるほどに、わたしの受けた振る舞いは、どれも過酷だったから。
身体の訴える苦痛より、このとき心の恐怖感が勝った。
知り尽くした王の肌、肢体。閨での癖、力強さとあの性急さ……。けれども、わたしは王の思考の癖を知らない。あの頭脳が何を考えるのか、どう思うのか。物事にどうけりを着けるのか……。
ハレムの女でしかないわたしは、何も知らない。
突き上げる王への畏怖に、どうしようもないまま涙はあふれていく。潤んだ視界に映るのは、積まれた石の壁と硬い床。いずれも暗い色をし、じめじめと湿っていた。
その中に、一つ小さな光を見つけた。涙でぼやけた瞳を凝らすと、それが、銀の腕輪であることに気づく。わたしの物ではないから、あれは王の物だ。折檻を繰り返す最中、落としたのだろうか。
わたしはそれに震える指先を伸ばした。届かない。
「あれを…」
婆やに頼み、手のひらに載せてもらう。幾重にも彫りが施された、凝ったものだ。わたしの腕には大き過ぎるそれを、いつもそうするように、左手首に通した。そうして、その手を口もとへ運ぶのだ。熱い唇に、きんと冷えた銀の感触。
この仕草の意味は何だろう。
「あんた…」
王の物らしい腕輪を、自分の手首に飾り、愛しげにそれに唇を寄せるわたしの行為が、婆やには奇異なのだろう。その豪奢な銀の飾りの持ち主は、散々に打ちつけ、一生消えない傷痕を肌に残したというのに。
「サラ、あんた……」
わたしは婆やの声に応えずに、乾いた唇で、王の名をつぶやく。
 
「カイサル」



             

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