HALEM

9
 
 
 
船から連れ出されたわたしは、王によって、荷馬車の荷台に投げるように放り入れられた。頬と脚を強く打ち、涙がにじむほど痛んだ。
荷馬車には、他剣を手にした男が四人あまりも同乗している。何とか起き上がろうとしたわたしに、何も言わずその男の一人が縄をかけた。後ろ手に回された手首と、足首に二箇所。
まるで、罪人のような格好である。
その間、急な嘶きや蹄の音が響きと、砂埃の舞うのが知れた。王は先に宮殿へ帰ったようだ。それにつれほどなく、荒く荷馬車が走り出し、がたがたという荷台の上で、わたしは転がされたままであった。
打った頬が熱く痛い。船で王にしたたかに拳で殴られ、更に荷台で激しく打った。きっと赤く腫れるだろう。もしや、痕が残るかもしれない。
自分の顔に、しばらくは消えない傷ができる。滑らかな肌の上のその痕を鏡で見るたびに、わたしは何を思うだろうか。潰えてしまった自分の夢や自由を見つけるかもしれない。また、そこからはっきりとしたあきらめを見出すのかもしれない。
または、リーのことを……。
じりじりとした日の光が、容赦なく身体を焼いてくる。それも構わないと思った。馬車が揺れるたび、傷ついた箇所が痛む。それもしょうがないと思った。
わたしは、リーを裏切ってしまったから。
まぶたを閉じれば、容易に彼のあのブルーの瞳が甦る。日に弱い肌と、すっきりとした身体の線と、それから、抱き合うときほんのりと香る何か、香水のような匂い……。
未知の、明るいとても素敵な自由の夢を、確かに彼はわたしに与えてくれた。それは得難かったはず。どうしてもほしくて、焦がれるほどに望んだものたちだった。
なのに、わたしは彼を切り捨てた。
選りによって、逃げたいと望んだ王を、わたしの芯の部分で真実求めているのを知ってしまったからだ。
敢えて自ら船に現われたことにも、光を受け煌く剣を提げた腕にも、容赦なくリーを蹴り倒した行為にも、王らしい堂々とした猛々しさと、凛々しさによく似た酷薄さが、秀麗な姿に、美しく匂い立つのを感じた。
あのしなやかで強い身体が、自分をどう思うままに蹂躙したかを、わたしは肌で知っている。激しさと性急さ、それらからほのかな歓びが生まれることまでを、わたしはよく覚えている。
国を取り巻いて点在する、数多の砂漠の民をも支配する王の力の輝きに触れ、わたしはそれに魅せられてしまった。
その強い腕に抱かれ、組しかれ、乱暴にまた愛されたいと思ったのだ。
 
ほしいのは、この男の方だと。
 
リーの受けた痛み、傷を頭に描くだけで、わたしは胸の奥が痛んだ。これからのことを恐れる気持ちはそれでかすみ、切なさと悲しさの中で、わたしは溺れるようにしていた。
 
 
王宮に着けば、わたしは引きずるように荷馬車から下ろされた。気持ちが薙いでいて、雑な扱いに文句を言う気にもなれなかった。そのとき、足首の縄のみは外された。
裸足のまま、暑すぎる砂と石敷きの床を歩かされる。回廊を進み、先導の男が見覚えのある赤銅色の大きな門を開けた。
その扉の向こうは、ハレムであった。このままハレムへ、王はわたしを戻すつもりなのだろうか。まさか…、そんな甘い処遇がある訳がないと思い、思いながら、もしや、また古巣に戻し飼い殺し同然で置くのも、罰とでも判断したのかもしれない……。
訝るわたしを、半ば引きずるように背後についた男が、門の中へ押し入れた。そこは、ハレムの前に広がる庭園だ。足を入れた途端に、ふわりと甘い香りが漂う。誰かの香かもしれないし、花々の自然な芳香なのかも。また、始終尽きない菓子の匂いも混じっているだろう。
よく知る、ハレムの匂いだ。
ハレムの庭園をしばらく歩くうち、右腕に何かが当たるのを感じた。小さな小石のような、つぶてのような、何か。
「あ」
歩を進めるうち、再び今度は頭の部分に、何かが当たるのを感じた。ちょっと痛いほどの刺激で、驚きに髪を降ると、地面に落ちたのは小鳥の死骸だった。
庭園を抜けたハレムの泉の前には、房の欄干や、露台から身を乗り出すようにし、わたしを眺めている女たちの姿が、びっしりと伺える。あの中の誰かが、わたしに小鳥の死骸や小石などを投げつけたのだろう。「サラが、ざまあみろ」とばかりに。
右頬を、ぐしゃりとした妙な衝撃が襲った。それは腐った卵で、割れた瞬間から、凄まじい臭気が立った。男たちは女のやり様を、止めもしない。ただ今ばかりは緩慢に、歩を先へ促すだけだ。
次々に髪や身体に降りかかる異物を、わたしは敢えてもう振り落としたりしなかった。
「裏切り者、このあばずれ」
「あんたの住処はもう、ここにはないよ」
「殺されてしまえ」
「ハレムの恥だよ、サラ。死んで償いな」
盛んに降る罵声。次第にヒステリックに、甲高く盛り上がっていく。
これが、王がわたしにまず与えた、ハレム女たちへの牽制を込めた罰なのだ。無事ハレムに戻れるのやもしれないとなど、甘く考えた自分を軽く呪った。
 
 
ハレムを抜け、わたしはいまだかつて訪れたことのない場所に来た。馬場には小さい、庭のような、けれど日の照りが良過ぎ、植物の姿が稀な空き地だった。
そこからは男が二人減り、代わりに婆やが現われた。婆やの姿に、わたしはこれまでの流れのすべてをようやく理解した。
思いがけず、あんなにいきなりに王が現われたこと。ハレムでの仕打ち。皆、婆やが、王へ注進に及んでいたのだ。なぜなら、彼女はわたしとリーの恋を知っており、更にはいやらしく出奔の計画すら感じ取っていたから。
婆やは陰った場所にわたしを立たせ、そのまま足元の水桶で頭から水を被せた。男にも命じ、何度も何度も。火照った肌に冷たい水は心地よく、生き返る気がした。そして、頬の卵の臭いも取れた。
「飲んでおきな」
婆やは、わたしへ桶の残り水を差し出した。怪訝で首を振ると、もう一度飲めと命じ、それでも手を出さないわたしへ、顎を背後へしゃくって見せた。
「え」
そこにはいつ据えられたのか、鉄製の檻があった。そう大きくもなく、人間が四〜五人も入れば一杯になってしまうほどのもの。
「日干しにさせろとの仰せだよ。さあ、悪いことは言わない、せいぜい飲んでおきな」
否応もなく、わたしは桶に唇を当てた。辛くもないのに、耐えられないほどでもないのに、わたしの瞳から、次々に涙がこぼれた。
そんなわたしの様子を仔細げに、皺のないつるんとした渋い顔で見つめる婆やが目障りで、それから、堪らなく憎くなった。
「あんたのせいで…」
桶を地面に落すと、思い切り、左右に婆やの頬を張ってやった。しれっとした顔で、彼女はそれを受け、出来事を流すように「早くしな」と、男へ顎をしゃくった。
 
 
肌や髪、衣が乾いてしまうのはあっという間だった。そこからじき、喉の渇きが徐々に大きくなっていく。
わたしは檻の角にもたれるように座り、うつむいていた。火のまぶしい光が、上から横から容赦なく差し込んでくる。肌が熱くなり、唇が乾いて切れた。
檻の外にはぐるりと塀で、何もない。もしや、ここは庭など平和なものではなく、元来が罰を与える場所として造られたのではないか。わたしのように、檻に入れ、日干しにさせる……。
王はわたしを本当に、日干しにさせるつもりなのだろうか。渇き死にさせ、裏切られた胸のつかえを取りたいのだろうか。
どうするのだろう。
暑い。
暑い。
息をするのも辛い。
どれだけ時間が過ぎたか。いっかな日はかげりも見せず、煌々と照り続けている。
暑さと、光と、喉の渇きに耐え、耐えながら思うのは、リーのことだ。今、わたしは辛くはあるが、リーの受けた傷や痛みを描けば、何とかそれで凌げそうな気がするのだ。
彼への詫びでもなく、その許しがほしい訳でもない。彼の痛みをまるで、このとき共有するかのように感じることは、わたしの気持ちを少しばかり楽にしてくれるのだ。
自分のことばかり。
こんな女、だから。わたしは。
 
 
意識がどこか、朦朧とする。
日が沈みかける頃、ようやく婆やが現われた。男を二人従えている。小さなカップに一杯の水を持ち、その手を檻に差し入れた。
喉の渇きに、一瞬で飲んだ。もっとくれないのだろうか。恨めしげに彼女を見ると、応えもせず、男たちに檻を明けさせた。
掠れる声で、「どこへ?」と訊いたのは、興味からより、渇いた喉で声が出せるのかを、試したかったからだ。
婆やの声は、人を食ったような返しで、
「男ならあと一日は入れておくところを、ハレムの女はひ弱だから、出せと仰せだ。すぐに殺すと苦しまず、惜しいじゃないか」
それに「だから、止めときなと言ったのに…」繰言のようなものが続いた。
再び引きずられ、ふらつく身体を、わたしは男に前後に挟まれ進んだ。どこへ行くのだろう。扉を入り、冷たく冷えた宮殿内の廊下を進む。突き当たりで男がまた扉を開けた。そこは地下への入り口のようで、石の階段が、ずっと下方へ伸びていた。
「降りるんだよ」
先導する婆やが低く命じる。一度転びながら、ランプの灯された地下へ降りていく。壁は石が詰まれたもの。手で触れると、きんと冷たく心地がいい。
階段が果てた。
 
通路が左右に伸びている。婆やは躊躇わずに右へ先導し、行き止まりにあるしっかりとした扉を錠で開けた。中は真っ暗で、婆やの手のランプで、うっすらと辺りが見えた。何もない。ひどく空気が冷たく感じる。
ここは牢だ。
婆やは床にランプを残し、何も言わず、男と共に出て行った。がちゃりと扉が施錠され、わたしはまた一人になった。
どれほど硬い床に座り込んでいただろう。
婆やの残したランプはとうに消えてしまった。ふと、再び錠が開く気配がした。彼女が食べ物でも運んできたのかと思った。真っ暗な牢の房に、婆やのランプがまぶしく光を投げる。
独りでに重い扉は閉じた。棺の蓋でも閉めるような、嫌な音だった。
「あ」
座ったまま見上げれば、そこに現われたのは、婆やではなく王自身であった。ただ一人。緩やかな下衣を長く足先まで垂らし、素肌に肩からケープを流している。
ランプの光を受け、王の瞳は黒々と冴えた冷たい色をしていた。その瞳のままわたしを睥睨し、低く押し殺した声で告げた。
「とんでもない恥をかかせてくれたな」
わたしはそれに言葉を返せず、ただ王の足先を見つめていた。言葉で詫びるのも苦手、上手い言い訳など考えも浮かばない。とうに王はわたしとリーが企てた逃亡の計画を知っていたのだ。どうとも取り繕うなど無理ではないか。
仮に何を言ったとしても、言葉に真実味などない。それは真実であり得ないのだから。わたしはリーに恋をし、彼の勧めに従い、共に逃げることを決めた。紛れないのは、単純なこの事柄だけだ。そこに、王への恐れはあったが、罪悪感は生まれなかった。
無言のまま、わたしは頭をたれ、床に額づいた。その姿勢で王の爪先に唇を押し当てた。
舌を這わせ、指先を舐めた。
暗い牢に、聞こえるのはわたしの、淫靡な舌のぬれた音だけ。




             

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