HALEM

12
 
 
 
牢へはたびたび人が降りてきた。
それは婆やのときもあれば、そうでないときもあった。彼らは粗末な食べ物と水を持ってここへ来る。
多弁になったはずの婆やとも、自身の身の上話の後には、あまり会話らしいものもない。誰かから、止められているのかもしれない。
ろくな味のしない物を、ただ毎日の習慣で食べる、またはぬるい水を飲む。それが日に一度のことなのか、それ以上あることなのか、日の差さない牢の中の日々ではひどく曖昧で、時間の流れがまるでわからない。
身体の熱がとれ、腿の傷も癒えつつある。そうっと巻いた布を外し見ると、くっきりと鮮やかに印章は残るが、少し引きつる以外の痛みは、もうほとんどない。
ここへ入れられて、どれほど経ったのだろう。
何をすることもない毎日。膝を抱え、壁にもたれ、目をつむる。硬い床に、しょうがなく身を横たえている。カビのような血のような汚れを見つけ、その一点を、見つめ続ける……。
それの繰り返し。
腕の、王の落としていった銀の腕輪に指を這わせながら、わたしがしているのは、そんなことだ。
身体の痛みが治まった今、以前ほどの恐怖を、わたしは感じなくなった。それは恐ろしくはある。いつまでここに入れられているのか、叫びたいほどの苛立ちもある。
けれども、腕にわずかな王の存在を感じることで心強くもなり、それらは耐えられるものになった。これまでの、どこか傲慢で冷めたわたしを取り戻しつつもある。
日干しにされる罰も受けた。そして地下牢に放り込まれ、消えない印章を肌に焼きつけられた。
もうこれで懲罰は済んだのではないか。わたしの中に芽生えた、甘い予感。それは時間ごとに、日増しに心に根付いていく。婆やの場合と、わたしの場合では違うのではないか、と。
確かに、同じく焼印は肌に押された。けれども、その後は牢に放置されたまま。何の沙汰もない。ここにあとどれほどか置いて、それから外へ出してもらえるのではないか。それで罪を許されるのではないか……。
その甘い予感は、腕輪に触れていると、強くなるのだ。もう少しの辛抱なのだと、自分に言い聞かせることも出来る。
 
わたしは王に愛されているから。
 
甘い予感の由来は、抜き難い自分への自信からだ。自惚れではない、寵愛の薄かった婆やの場合とは違うのだ。
「愛されている…」
呪文のように、幾度もつぶやいた。それは薄暗く湿った牢内に、あのハレムの庭園の艶やかな花びらのように、一瞬気配として広がる。
銀の腕輪に唇を寄せる。やんわりと噛む。その仕草は、繰り返す情事の最中、何かをせがんで王の腕に指を滑らせるような、そんな夢のような錯覚へ、わたしを導いていくのだ。
どれほど、王に抱かれていないのだろう。
どれほど……。
抱いてほしいと願いながら、叶えられない切なさに、わたしは焦れた。指を腿の傷へ沿わす。ゆっくりと円を描くように優しく触れ、瞳を閉じる。
敏感な傷痕は、柔らかな指の動きにうっすらとした不思議な快感を生んだ。
「あ」
指先をそこから肌の奥へ滑らせた。しっとりと既に潤んで、容易く指先を迎え入れていく。悪戯に、好むように、静かに肌を伝わせた。
「あ」
思いがけない、ぬれた小さな声がもれた。それは次々と淫らにあふれていく……。
 
わたしは王に愛されている。
 
王の残した腕輪に彼の姿をにじませて見、それをよすがにしているのだ。初めての自慰にうっとりと陶然となるほど。
婆やの言った、リーの姿ではなく。王の姿を、わたしは心に描いていた。
 
 
動きは突然あった。
棺の蓋を開けるような音を立て、男が二人牢へ入ってきた。これまでここへ食事を運んできた事のある男たちで、彼らは床に座り込んだわたしに、立つように促した。
どこへ、とは問わなかった。問うても答えなど返らない。それに、どこへ行くにせよ、ここから出られることに胸が弾んだ。
一人が前に立ち、もう一人が背後に立った。わたしは両手首を前に束ねられ、忌み嫌った牢の房から出た。
冷たい石の床をただ歩いていく。真っ直ぐ進み、行き止まり、左右に折れた箇所で右に曲がる。先ほどの房と同じ扉が並ぶ。
幾つか角を曲がり、だらだらと歩を進める。まるで迷路の中を歩くようで、わたしにはまったく方向感覚がなくなってしまっていた。通路の所々で階段があったが、男たちはそこへ進もうとはしない。
ある段階から、階上へ上がることが叶わないと悟り始めた。また別な牢へ放られるのだろうか。暗い想像が頭をもたげた頃、先を行く男が一つの扉を開けた。扉の向こうから、むっとしたすえたにおいが小さな風に流れてくる。がやがやと人声もする。
背後の男が、中へ入るよう背を押した。広大な空間が広がっている。その空間には、前面は鉄格子、残り三面を石壁に仕切られた房が幾つも幾つも存在した。その中に、むさ苦しいなりの男たちの姿があった。
ここは、紛れもなく地下牢だ。これまでわたしが押し込められていた独房とは異なり、それぞれの房に数人の男たちが見える。彼らは罪を犯した囚人のようだ。
背後の男は、急かすようにわたしの背を押す。驚きに歩が止まってしまっていたのだ。王宮の地下にこのような場所があることを、わたしはまるで知らなかった。
房の前を、わたしは歩かされた。
それぞれの房の鉄格子に、鈴なりになる囚人たち。男ばかりのこの世界に、女のわたしが珍しいのだろう。興味を引くのだ。
耳を覆いたくなるような野卑な声が次々に上がる。次々に笑い声や歓声に似たものが出るに及び、前を行く男が、腰に提げたこん棒を抜き、それで鉄格子をがんがんとひどく打った。
威嚇に声は止んだが、まったくではない。また静かに聞こえてくる。
ある房の前で止まった。その房には、やはりだらしない格好をした囚人が、四人いた。食い入るような視線を感じた。わたしを見ているのだ。
房の錠が開けられた。鉄の扉から中へ素早くわたしを押し入れると、すぐに錠を締めた。
すえた嫌なにおいを先ほどから感じていたが、房に入ってそれが強くなった。空気の悪さは、地下であることと、閉じ込められた囚人たちからのものだ。生々しく、それらがわたしに迫っている。
わたしを連れてきた男たちは、しばらくその前にいたが、すぐに踵を返した。短い言葉が投げられる。
「沙汰があるまで、ここにいろ」
そうして行ってしまった。
わたしは肌を粟立たせ、驚きに硬くなっていた。
地下牢から、出してもらえるのではなかったのか。もう、許しを得られたのではないのか。
これでは、婆やと同じ……。
「おい、お前…」
囚人の声がした。わたしは首を振り、距離を取り壁に下がった。違う、こんなはずじゃない。わたしがここにいていいはずがない。
一人の男に腕をつかまれ、二人目に床に押し倒された。ねじ伏せるように身を乗せてくる。
全身を怖気がふるい、恐怖に甲高い悲鳴が出た。こんな声を上げたことがない。その悲鳴に和してがやがやと一斉に、他の房から声が上がった。非難ではなく、それは男たちの興奮した声だ。わたしが何をされようとしているか、見えているかのように。
無駄な抵抗と知りつつ、抗った。声を上げ、もがく。身体をまさぐる男の手。何本ものそれは、首に胸に腰に脚に、伸びてくる。這っていく。
「嫌」
抗うわたしの頬を、涙が伝った。せめて泣きたくない。陵辱されながら、泣いていたくない。あまりにも惨めだ。
信じていた。わたしは王に愛された女だったはず。ハレム一の寵愛を受けた女だった……。特別な、女だった……。
なのに、今薄汚い地下牢で囚人たちに犯されようとしている。囚人たちに穢された女を、王が抱くはずがない。
 
王は、わたしを、棄てた……?
 
それは、呼吸が止まるほどの驚愕で、恐怖だった。どこかで信じていた安穏としていた自分がいたことを、呪った。甘さを呪った。
望まない涙に頬をぬらしながら、ここに及んで初めてわたしは、リーとハレムを出る誓いを交わしたことを悔やんだ。彼を選んだことを悔いた。過去の自分を憎むほどに。
 
王は、わたしを棄てたのだ。
 
不意に脚をまさぐる手が止まった。
「お前…」
わたしの身体に覆いかぶさっていた、一番大柄な男が訊く。「王の女なのか?」と。声には、なぜか若干の震えがある。
「え」
「まさか」
男の声に他の手も止んだ。腿にある王の印章を見つけたようだ。それを見て訊いているのだ。王の女なのか、と。
「ええ、ハレムの女よ。離れて」
男たちは、何かを互いに目交ぜして確認しあっている。ややして王の印章に怯み、彼らはわたしの身体から離れた。
同じ房に放り込まれたとはいえ、さすがに王のハレムの女を房内で犯すことには躊躇があるらしい。
わたしは乱れた衣を直し、立ち上がった。腕を組んで男たちを見下ろし、左の手首にはめた銀の腕輪を突き出し、
「王より頂戴したの」
まるで自分の物のような素振りで、手首を揺らした。効果はあった。男たちは奇妙なものでも見るようにわたしを眺めている。欲望は消えてはいないだろう、けれど、抑えて隠してしまっている。
わたしは心中、大きく安堵していた。ここでどれほど過ごす羽目になるのか知れないが、彼らがわたしに触れてくることはない。その安堵の思いが、わたしを強くした。
王は、わたしの肌に刻んだ印章の重さと威力が危険を回避させると知り、ここへ入ることを命じたのでは……。ほんの少しのつもりで……。
腕輪に触れながら、わたしはまたそんな甘い妄想を抱いている。先ほどまで、陵辱されそうになる恐怖の中、王の背信を知ったのに、またこんな都合のいいことを……。まだ……。
信じていたいのだ。愛されていると、求められていると。
壁にもたれ、わたしは静かに泣き出した。こんな場所にいながらも抱く自分の中の甘さが嫌でもあり、またそれを捨てられないでいる弱さも堪らなかった。
 
自分が、嫌になった。
 
その涙を、男たちはどう取ったのか、詫び言を口にし始めた。先ほどの振る舞いは悪かった、と。こんな場所に長くいたら、女がまぶしくてしょうがないのだ、と。
大柄な男が、ふと訊ねた。
「あんたみたいな女が、何でこんな場所に?」
わたしはそれに答えず、曖昧に首を振っておいた。余計なことを口にしたくなかった。自分がどういう存在なのか、わからない。王の女であるのか、そうでないのか……。わからない。
考えたくなくて、他の疑問でそれら不安を粗く覆う。
それ以上の詮索はない。代わりにわたしが訪ねた。ここは何の場所なのか、入れられている男たちは囚人なのか。
別な男が答えた。
「そうさ。独房に入れるほどもない罪人が、ここに集められる。看守は滅多と来ないが、何せ、ここは地下だからな」
「どうして? 見張らないの?」
また別の男。
「ひどく暴れようもんなら、奴らは牢ごとすべて砂で埋める。簡単な話らしいぜ、流しこみゃ済むって。ここ以外に、昔埋められた地下牢があったって言うぜ。中にいた、何百って囚人は皆生き埋めさ」
大柄な男が締めた。
「王の命によってな。」
王の命。
王の命。
王の命。
ここに連れられたのも、王の命。
何もかもが、王の命だ。
息苦しさに、わたしは瞳を閉じた。
 
 
数日が過ぎた。食事の数で日を数えていたけれども、途中で止めた。
盗みを働いた者、人に怪我をさせた者、そんな人々に囲まれて過ごし、自分もかつてこの仲間だったことを思い出す。わたしは五年ほど前、バザールで盗みを犯して捕らえられた女だ。そこから、くるりと人生が変わってしまった……。
ふと、思い出すことも稀な弟のことが浮かんだ。わたしがいなくなり、どう生きているのだろう。近所に子のない夫婦がいた、あの人たちは貧しいわたしたちに優しかった。あの夫婦にもらわれていたのだったら、わたしがそばにいてやるより、よほど、弟にとっていい……。
食事の時間になった。滅多に現れない看守が、大鍋を提げてやってくる。ぐちゃぐちゃした奇妙な食べ物を、鉄の椀に入れ、房内に人数分差し入れる。
看守が他、それぞれ囚人へ酒を振る舞う様子を見て、わたしは同じ房のハッサンへ振り返った。飲み物は水以外、これまでそんなことはなかった。
大柄な彼はちょっと肩をすくめ、
「祝い事だろうさ」
と言う。
何の祝い事だろう。
と、そこで別な房から大声が上がった。必ず日に数度、どこかの房で喧嘩が起こった。剣呑なその声にも、しばらくして慣れた。娯楽も何もないのだ、気もすさみがちになろうし、また喧嘩しかその発散の場がないのだろう。
看守のこん棒が鉄格子を荒く叩く。
「喧嘩を止めろ、恩賜の酒だ。ほしくないのか?」
何のための恩賜だろう。王にどんなおめでたいことがあったのだろう。ハレムにもこんなことはなかった。決められた祭りの日以外の祝い事の日など、聞いたことがない。
何だろう。
ちょっと気にかかり、ちょうどこちらの房の前にやって来た看守を引き止めた。
「ああ、お前か、何だ?」 
何の恩賜なのかのわたしの問いに、その看守は歯切れよく、こう告げた。
「王の御子さまがお生まれになるのさ。ハレムの何とかって女が、王の御子を授かったんだ」
「え」
子の少ない王は、このたびの慶事に大層喜び、地下の囚人にまでも恩賜の酒を振る舞ったのだという。
わたしは手に持っていた、薄汚れた鉄の飯椀を床に落とした。手が滑ったのだ。椀を落としたわたしへ、幾つか声が掛かったが、あまりの思いがけない話に、何も考えられない。
ハレムの女の、誰かが、王の子を産む。
王の子を……。
いつかの閨での王の声が、不意に耳に甦ってきた。あれはまだ、わたしがリーとの誓いへ迷い、心を決せずにいた頃だった。
 
『サラ、わたしの子を産め』
 
王の声。低く冷たさのある、けれども情事の最中の熱のあるあの声。あの声は、わたしに子を望んでいたのだ。わたしが……。
「いやあああああああああ」
わたしが彼の子を授かるはずだったのだ。別な、ハレムの女などではなく。わたしが……。
立ち上がり、わたしは鉄格子に手を掛けた。掛けながら叫ぶのだ。
「出して、ここから出して」
心の軋む、痛む声。
 
王に会わせて。
 
それはどこにも届かない。




             

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