HALEM

13
 
 
 
夕べ、房に四人いた囚人が一人減っていった。慶事の恩赦が与えられたのだ。
そして今朝も一人減っていった。ここは、元々が軽微な罪を犯した者が、雑多に詰め込まれる場所。どれほど長くても一〜三年を越えることは稀だという。
それでも早く出られるに越した事はない。ナジムは釈放の知らせと共に、満面に笑みを浮かべ、自分があるバザールの外れでやっている食堂へ、ぜひ来てくれと言う。「女房の作る飯は、なかなかのもんだ」と。
「あんたみたいな別嬪さんと会えて、嬉しかったぜ」
わたしへもそんな言葉を、機嫌よく投げる。わたしは曖昧な笑みで返した。悪い男ではないのだろう。何かの弾みで、少し道を外れただけ。
数日、同じ狭い房内で寝起きを共にした。粗末な食事、妙に冷える地下牢の居心地の悪さに共に耐えれば、妙な親近感もわくから不思議だ。
王の慶事を知り、以来食事を摂ることを拒んだわたしに、厳しい声で「今は食っとけ」と宥めてくれたのは、このナジムだった。
どんな塞いだ顔をしていたのか、
「こんな場所の飯でも、食わねえと腹が減る。あんたに何があったのか、よくわからんが、腹を空かせて嫌なことに耐えるのは、食っておくより、余計情けねえもんだぜ」
そう言ったのは、大柄なハッサンだった。それらに促され、無気力なまま飯椀の中の物を口に運んだのだ。味などない。ただの咀嚼と嚥下。それでも、わずかに、そうしないでいるよりましだったろう、確かに。
それから連日、恩赦の釈放が数日続いた。次々と囚人たちが地下牢を後にしていく。それで地下牢内はどこか賑わいだ雰囲気で、日に必ずいずれかの房で起こる喧嘩の数も減った。
わたしの気持ちだけは、その賑わいから外れていた。何が嬉しいのだろう。何が喜ばしいのだろう。わたしには、ここを出ても行くあてもない。脚にあの印章を刻み、どう生きていけばいいのか。ハレムにも戻れない。王にも、会えない……。
ここを出されれば、外の世界に放たれ、望んだハレムの外の自由を手に入れられるかもしれないというのに、ちらりとも心が弾まない。それは、共に自由な未来を誓ったリーがいないからではない。
それはもう、ハレムの外へ出ることを望んではいないから?
 
王の気配から隔絶された自由など、わたしはもうほしくなどないのだ。
 
 
 
この地下牢で唯一女のわたしには、身を清めるため、一時房を出ることを看守に懇願し、許されていた。とはいっても、地下牢の隅で看守の陰に隠れるようにしながら盥の水で、手短に髪や肌を拭うばかりだ。
あるとき、一縷の願いを掛けて、こちらに背を向ける看守に呼びかけた。「ねえ」の声に、肩越しに看守がやや振り返る。
「何だ?」
「出してくれない?」
「何を?」
わたしは、だらりと垂らした看守の手をそっと取った。手のひらをそっと自分の胸の谷間に導く。衣の上からも感じる乳房のふくらみに、一瞬指先がこわばって、すぐにそれは解けた。
一本の指が、胸の谷間を辿る。そうさせながらささやく。
「牢からわたしを出して。出して王に…」
そこで、指が止まった。看守は振りほどくようにわたしの手を放し、
「無駄な真似は止めておけ。我々にそんな権限はない」
と、房へすぐに戻ることを急かした。
「今度妙な真似を働いたら、二度と房から出さんぞ」
わたしは腕をつかみ、房へ引きずる看守の仕打ちに、衣の前をかき合わせ、ちっと舌打ちが出た。
 
 
わたしに恩赦の沙汰があったのは、ハッサンに続いてだった。
「元気でな、サラ」
「ありがとう」
房に一人になり、何とも情けない表情を見せたマスルールに目顔で別れを告げ、わたしは鉄格子の房を出された。
出たとしても、胸が躍る訳でもない。王宮の外へ釈放か、また新たな別な場所へ監禁されるか……。希望も、予感もなく、わたしは看守に続き、地下牢を出る。
見覚えのある、ランプの灯された石壁の迷路のような通路をだらだらと歩き、ある地点で階段を上った。上り切り、地上への扉が開いた途端、わっと輝かしい光が、わたしの全身を包んだ。まぶしさに、目が眩む。明るさに容易に慣れないのだ。
ふらつきながら看守に従い、王宮内を歩く。廊下は非常に静かで、そして信じられないくらいぴかぴかと光って見えた。この場所は知らないが、こんなようなつるつるした石敷きの廊下は、ハレムにも当たり前にあった。かつては、普段何気なくそこを裸足で歩き、またはサンダルの脚を運んだ。
慣れていたはずのその廊下の輝き、庭園へ続く腰壁や欄干の見事さ、美しさ。それらが、今のわたしには妙にまばゆく、そして距離のあるものに感じられるのだ。牢に長くいたからか、そればかりが理由ではないのか……。よくわからずにいた。
しばらく歩き、一人の老女官が立つ扉の前で止まった。そこで看守はわたしをその女官に引き渡し、扉の中に入ったのを見るや、背を向けた。
壁に二人の女官が立つ以外は、ハレムの女部屋によく似ていた。窓辺に垂れたカーテン、大きな水瓶に、中央の天蓋のある寝台、化粧台に、敷かれた毛足の長いラグ……。
室内に目を奪われている間に、扉は閉まっていた。
そばの老女官は、変に厳しい声でわたしに湯浴みを命じた。壁に立つ他の女官にも命じ、湯の用意をさせる。それはわたしの沈みがちな気持ちを引き立てた。清潔な場所で、清潔な湯を使える。おそらく新たな衣装も用意されるのだろう。単純なもので、それらに喜びを感じた途端、空腹を感じた。熱く甘いお茶が飲みたくなった。
垢じみた衣を脱ぐとき、わたしはおかしな恥じらいを感じた。これまでは女官であろうが、ハレムの小女であろうが、肌を見せることにためらいがなかった。それはハレム女の特性といえるものかもしれない。あの湯殿では、肌を隠す女など、一人としていなかったのだ。初心な新入り以外は。
それでも、急かすような視線に急かされ、すべての衣を落とした。      
身を清めた後は髪を洗い、そして新しい衣装に腕を通す。ありきたりな意匠のものであったが、文句はない。
すべてが済むと、二人の女官らはてきぱきと片づけを行う。老女官は一人わたしの傍らに手を前に組み立ち、じろりと強い視線を投げた。
硬い表情には、熱い湯を掛けたように油分のない固くなさがにじむ。隙のない様子、磊落さなど欠片も見えない。似た年頃でも、ハレムの婆やには、枯れた女らしい意地悪さと蓮っ葉さが生々しく匂った。どちらが好ましいか、といえば、わたしは習い性で、やはり婆やのような女を慕わしく思う。
老女官の厳しい声は、「こちらで、過ごすように」とわたしへ命じるように告げた。
外出以外はすきに振舞っていればいいこと。必要な世話は、そばの二人の女官が受け持つとのこと。
わたしは拍子抜けのような、それでいてまだ望みを捨てられないでいるような、不安定な気分でそれらの声に頷いた。どういう経緯でここに移されたのか、解けない疑問については封をした。甘い予感に酔うのは、もう懲り懲り。酔いたい自分を感じるのも、惨めだ……。
それから、一つ願い事をした。ここで退屈に一人で過ごすことが予想され、わたしは、ハレムの私室に飼っている猫を連れてきてほしいと頼んだ。それに、老女官は他の女官へ命じるような視線を向けた。向けられた女官は、ちょっと迷惑そうな顔色を浮かべたが、「はい」と短く答えた。彼女が、仕事の傍ら猫を探してくる羽目になるのだろう。
すべて済んだのか、女官らは身を返し、扉へ向かった。わたしは寝台に腰掛け、脚を組んだ。女官の背中に、声を掛ける。
「甘いお茶をお願い」
返事はない。
「熱いお茶が飲みたいの」
振り返った一人の軽い頷きが返ってきた。ハレムの厄介な女の世話など、迷惑でしかないのだろう。それとも、一際問題のあるわたしだから、厄介がるのだろうか。
どちらでもよく、そんなことより、自分が変わらずに、臆せずはっきりとした声でものを告げることが出来たことに満足していた。
自分の犯してしまったことに、後悔はしている。リーを傷つけたこと、それを償いようがないこと……。
けれども、それは紛れもなくわたしが、自ら選んだことなのだ。悔いればいい。恥じる必要はない。
 
 
柔らかく熱い風に、カーテンがなぶられる午後。わたしは午睡の後、広々とした露台に出て、庭園を眺めた。
通路を人々が行き交い、または木陰で憩う。漫然とそれらを眺め、風に髪を踊らせておく。
ここに移され数日過ぎた。文句のない環境。その中で、やはり囚われたままのわたし。
王は、どういうつもりで……?
迷いへ傾きかける思いを、わたしは日に何度もざっくりとかき混ぜた。考えても無駄なことを言い聞かせ、強いて、今の境遇に満足を感じるようにしている。
そんな中、世話役の女官らの仕事に、わたしは「ありがとう」と小さな礼を添えることを覚えた。寝台を整えてくれる、湯浴みを手伝ってくれる、食事を運んでくれる……、すべてのことに、小さく「ありがとう」と添えるのだ。
返事などいいのだ。わたしがそれで気持ちが凪げばいい。
面白い変化で、それが幾度も幾度も重なれば、削いだように無表情だった彼女らから、微かな微笑をもらえるようになり、「サラ」と名で呼ばれるようになった。
「あ」
猫が小さな鳴き声を立て、そばの欄干に小柄な身を弾ませて飛び上がった。わたしはちらりとその背をなぜ、限られら世界のどこかへ勝手に遊びに行く姿を横目で追った。
目を庭園へ戻すと、行き交う人々の中に、明らかに異なった雰囲気の人々が見えた。衣や衣装の具合でそれとわかる。彼らは外の部族の人間だ。何か王への願い事、貢物などがある場合、彼らはキャラバンを組んで、砂漠を越えやって来るのだ。彼らの歓迎の宴も催されることもよくあり、わたしはその席で、乞われて踊ったものだ。
歩を運ぶ人々の姿を目で追っていると、ふと、こちらを見上げる人もいる。毎日のことで、何となくわたしも見覚えた姿であったりし、あちらもそうなのであろう。官吏の青年らは、わたしを指差し合い、手を振る場合もある。わたしもそれに返す。
彼らは、わたしが何者であるかを知らないのだろう。王の寵愛の篤い身でありながら、異国の男と逃げることを選んだわたしのことを。
けれども広大な王宮で、わたしの存在など知る者は稀なのだろう。暇な女官の一人とでも思っているのかもしれない。
たっぷりと露台で過ごし、猫を抱きわたしは部屋に戻った。することなどなく、寝台に寝そべり、猫を相手にまた短い午睡をとった。幾らでもわたしは眠れた。
寝台は好き。柔らかくて、包んでくれて、何もかも忘れさせてくれる。
だから好き。
 
 
食事を運んできた女官の気配で、わたしは目を覚ました。どこかで楽の音がする。宴でも始まるのかもしれない。昼間見たキャラバンの人々を思い出した。
ランプを灯した、柔らかな明かりの下で食事を摂った。給仕の女官に訊けば、やはり旅の人々を歓迎する宴が催されているのだという。
食事を済ませた。
「ありがとう」
下がる彼女に礼を言い、わたしは露台に出、しばらく気持ちのいい風を受けてから、また戻ってきた。やはり楽の音が、間断なく聞こえる。風に乗って運ばれてくるのだ。
それは夜の甘い風なじみ、どこかしっとりと響く。一人その音を聞き、聞きながら、いつしか身を踊らせていた。
衣を揺らし、髪を振り、身体をしんなりと躍らせるのだ。ときに背をのけ反らせ、床を足の裏で打つ。寝台で寝そべる猫が、わたしの動きを目で追っている。揺れる衣装の裾にじゃれ付く。それがおかしくて笑った。
肩の髪を頭を振って払い、膝を折るように腰をしならせた。ふと思い出した。キャラバンでやって来た彼らの誰かが、わたしのことをひどく褒めたのを覚えている。王へのお追従も込めて、その誰かはこう言ったのだ。さすがは目を見張る美女がいる、と。
『ハレム一の女だ』と。
 
「何をしている」
 
声にわたしは動きを止めた。
振り返れば、扉の前にランプの光に王の姿が浮かび上がった。黒衣の彼は腕を組み、わたしを見つめている。鼻梁に影ができ、すっきりと秀麗な容貌に、頬に掛かる影が恐ろしさを加味する。
顎を軽く前へ動かす。それにわたしは跪いて応えた。
胸が震えた。
どうして王はここへ……?
沈黙が続いた。語るもののないわたしと、語らずにそれを睥睨している彼。どこまでも続くかに思えた沈黙を破ったのは、王の方だった。
「どこにいても、お前は懲りないな」
降ってきたその声は、冷たさのあるいつもの声。耳になじんだあの冷酷な声だ。けれどもそこに、ほんのりとした嘲笑に似た笑みを感じる。
そんなことに胸が鳴るのだ。どうしようもないほどに、震えて、高鳴っている。
「それは?」
「え」
王が何を指しているのか知れず、わたしは顔を上げた。目が合う。彼の黒い瞳は少し細まり、その視線の先をわたしは必死で探り、辿った。
左の腕にはめた、腕輪に行き当たった。かつて地下の独房で王が落としていったものだ。見つけて以来、わたしがはめている。自分の物の様にして。その腕輪の存在で、わたしはあの地下牢で救われもしたのだ。
自然、右の手が左の手首に触れた。王の腕輪に触れる。
返したくなかった。王の物ではある。頂戴した訳でもない。けれども、返したくなかった。
これはわたしに残された、唯一の……。
王は何も言わず、ついっと視線を外した。
身を翻す気配。行ってしまう。そのことが胸を苦しくしめつけた。行ってほしくないのだ。結局言葉に出来ず、わたしは彼の垂らした床のケープの裾を目に留める。
そのとき、誰かが開いた扉から入ってきた。すっと影だけが動いたかに見えた。白い美しい衣を着たその姿は女のもので、見覚えのある顔立ちに、わたしは小さく胸の中で声を上げた。
ハレムの女だ。
何の許しがあって、王宮のこんなところにまでやって来るのか、王の後を追ってくるのか。解せずに、わたしは女の顔を凝視した。
「探しに参りましたわ。お姿が消えたから……」
語尾を消すように霞ませる甘えた口ぶり。彼女の手は、するりと王の腕を取った。王はそれを外さない。自分のそれと絡ませる腕を解きもせず、鬱陶しがるそぶりもない。
わたしはその珍しいばかりの光景を、頬を張られたような衝撃でもって見つめた。
 
この女なのだ。王の子を懐妊したのは。
この女なのだ。



             

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