HALEM

14
 
 
 
まなざしがぶつかり合った。
女は寂しげな顔立ちに、はっきりとした得意の色を浮かべている。自分は王の特別な存在であると、しっかり自覚した顔をしている。
この女は、以前わたしにある頼みごとをしていた。王がわたしに伽を命じ、それをわたしが都合で断った際、彼女を王に推薦してほしいといったものだった。妙な、そして自虐なその願いを、わたしは叶えてやる気もなく、なのに易く頷いたのだ。
『サラのねだりごとなら、王も耳を傾けて下さるから…』
女は、ひどく変わる。ハレムの女は特にそれが顕著だ。
その身に纏うもの、または帯びた何か。王よりの、まばゆく、見えないある名誉。幸せと言うより強運と言う方がしっくりとくる、特別なその何かを手に入れた女は、周囲とは確かに違うのだ。
 
わたしも、きっと、そうだった。
 
寂しげな顔ながら、彼女の瞳には勝ち誇った色がある。わたしを見下す、侮蔑する、鮮やかな驕慢さ。
特別仕立てらしい華やかな線の彼女の今宵の衣装は、それらによく似合っている。
人と引き比べる癖などないくせに、わたしは自分の身に着けた簡素な衣装が、このとき恨めしくあった。同じほどの優美ななりをすれば、美しいのは間違いなくわたしだ。
わたしなのだ。
女は王へ、甘えが鼻にかかった嫌な口調で話しかけた。
「こんな所で何をなさいますの? 広間へ戻りましょう。新たな舞が始まりましてよ…」
王の応えはない。
彼はただ女の声を聞いているだけだ。不愉快なあの声を、黙って。
返事をもらえないことに苛立つのか、女はじろりと不躾な視線をわたしへ流した。
「もう、死んだのかと思ったのに…」
面白くないのであろう、わたしの存在が。なぜ、ここに赦されてあるのか、なぜ、王が足を運ぶのか、不安なのだろう。
彼女の瞳には、ぎらぎらとした敵意が光っている。王の子を懐妊した幸運の身でありながら、安穏とはしていない。ようやく手にした幸運に影を差しそうな存在には、したたかに爪を研ぐ。
ハレムの女の性だ。
挑発的なまなざしに、わたしはどうしてか、頬が緩んだ。ほんの軽く胸が躍った。
わたしの中にもあるからだ。ハレムの女という、消えない性が。それが、こんなとき、疼くように胸で小さく燃えるのだ。
わたしは跪いたまま、左手首の腕輪に触れた。癖のように、つい指が触れたがるのだ。
「穢れた女の顔は見たくないわ…」
女は、ひとり言のような、やはり王への甘えのような声で言う。
「なら、お前は行け」
素っ気ない王の声に、彼女はさっと蒼ざめたが、わたしはおかしさにふき出した。笑いの残る声で、促した。
「行けば?」
わたしの返しに、女は髪の飾りを引き抜くや、それをわたしの顔目がけ、投げつけた。飾りは上手く落ちず、わたしの髪をかすっただけだ。
「売女が」
「その売女に、王の伽を譲ってくれと頼んだのは、誰だったかしら」
わたしの言葉に、彼女は見る間に頬を赤く染めた。忘れたい過去なのだろう、顧みられることのない寂しいハレムの過去は。
人の恥部を抉る趣味はない。けれども、必要があれば、必要なだけ抉ってやる。
王は、わたしたち女二人のやり取りを、涼しい表情で眺めている。ほんのり唇の端に笑みに似た嗤いを浮かべながら。
この男の冷酷さに出会うとき、わたしは背筋を冷たい何かが這うのを感じる。そう感じる傍ら、乳房の奥で、ぱちりと欲望の火がはぜるような心地がする。
 
この男を虜にしたいと。
愛で溺れて、自制をなくすほどに。
 
叶うのか。
出来るのか。
それが果たせたら、わたしは自分のすべてを失ってもいい。何もかも、王に捧げてもいい……。
うろうろと、うつつの夢を彷徨うわたしを引き戻したのは、女の声だった。
「罪人が。身の程知らずの態度でいると、今に泣きっ面をかくわよ。薄汚いあんたの弟、捕まえて去勢させてやる…」
声にわたしは立ち上がり、女の腕を引きつかみ、その顔を左右に平手で張った。
女が、どうしてわたしの唯一の肉親である弟の存在を知っているのか、不思議であった。かつて、わたし自身が彼女にもらしたのかもしれない。寂しげな様子であった彼女の身の上話にでもつられて。
「お前は、下がれ」
女に命じながら、王はわたしの腕を容易くつかみ上げ、部屋の後ろへ押しやった。わたしは力にたたらを踏んで止まり、転ぶことを避けた。
頬を赤く腫らし、恨めしげにわたしを睨む女も、再度王に退去を命ぜられ、扉を出て行った。
わたしは少し息を乱していた。瞬時に頭に上った堪らない怒りは、ほどなく冷めた。言葉は、下品なあの女の精一杯の虚勢であり、わたしへの憤懣だということが、知れるからだ。
気持ちが落ち着くのと同時に、女が出て行くまでの一連の出来事の中で、奇妙な何かに気づいた。そこから、ある思いが胸を占め、嬉しさをもって心を満たしてくのだ。
王は、あの女に手を上げたわたしを責めなかった。嗤ったわたしを咎めなかった。それらに憤りさえ見せなかった。
王はあの女を愛しんでなど、いないのだ。たまたま子を授かった女だから、そのことにのみより、彼の気を惹くのだ。寛大さを見せるのだ。それ以外でも、それ以上でもなく。
だから……。
ほどない距離にある王を見つめながら、わたしはどんな顔をしているのだろう。きっと唇に笑みを浮かべているだろう。鏡を見なくてもわかる。艶のある、王の好むあの微笑をたたえているのだ。
彼の視線が、自分の身体の線を辿るのがわかる。長い髪、肩から腕、そして胸のふくらみとくびれた腰……。
王も、わたしの身体を求めているのだ。
視線が脚に及ぶと、内腿に熱い疼きが走る。あの印章の刻まれた場所が、彼の視線にちりちりと熱を持つ。
「少し痩せたか」
ぽつりとそんな言葉が投げられた。わたしはそれを瞳を伏せて受けた。自分で自分を抱きしめ、媚びた声を出した。
「試して…」
次に瞳を上げたとき、王の目は、どこを見るのか、わたしから逸れていた。
「いや、止そう。気が向かん」
「え」
身を翻す。その動きに連れ、片肩に羽織るケープが揺れた。わたしはつい、足が動いていた。ケープの端をつかむ。
このまま行ってほしくなくて。
放っておかれたくなくて。
気配に振り返った王の手が、まるで膝のパン屑でも払うかのように、ケープをつかんだわたしの手を払った。
払ったその手で、わたしの顎をつまんで上げる。酒でも命ずるかのような日常的な口調で、彼は告げた。
「お前をほしがっている人物がいる」
「え」
王は冷たく光る黒い瞳をわたしに据え、つないだ。王へ貢物を持ちやって来たキャラバンの者が、ハレムにいたわたしをほしがっているのだ、と。
 
「諾と、返事をした」
 
そのまま王は、わたしを突き飛ばした。前とは違い驚きに足の力が砕けていた。わたしは床に崩れ落ちた。膝を打ったが、その痛みはない。少なくとも今は感じない。
王はわたしを、他の部族の男に下げ渡すというのか。
声が震えた。喉も、心も身の内の何もかもが、王の言葉に凍えて震えるのだ。
やはり、わたし……。
「…わたしを、捨てるのですか?」
視線が上がらない。瞳は王の黒衣の衣を写すばかり。その黒は闇のように目の前に広がっている。
ちょっとした笑い声が返ってきた。
 
「お前はわたしを捨てなかったか?」
 
 
あ。
 
王は言う、わたしの腕にある銀の腕輪はくれてやる、と。
「餞別だ」
そのまま背を向ける。
衝動的にわたしは左手首の腕輪を外し、その硬い背中に、投げつけた。
もう振り返りはしない。
王の背中は扉の向こうに消えた。
 
かすかな楽の音はまだ止まない。
凍ったまま途方に暮れるわたしを、その音は通り過ぎていく。



             

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