HALEM

15
 
 
 
夢の中で、わたしは喘いでいた。
抗い難い水のような強い渦に巻かれ、苦しさに喘いでいた。その中にいながら、わたしは自分が夢を見ているのだと、確かに知っているのだ。
「夢なら、覚めて」
苦しんで上げた声は、わたしを夢から解き放った。寝覚めの悪さに呆然とする。首筋は汗ばみ、瞳はぬれていた。月明かりに浮かぶ寝具に、ひっそりとした涙の跡がある。
まだ暗い中、わたしは露台へ出た。夜空には星が点と散り、まばゆく輝いている。月は茫洋と明るく大きく、静かに夜を照らしている。
汗ばんだ肌に、夜風は心地よかった。欄干に頬を預け、わたしはしばらくそのままでいた。物音らしいものはなく、ただ鳥の声がときに耳に届くだけだ。
夢なら、いいのに。
わたしは一人つぶやいた。言いながら、決して夢ではないということを新たに悟り、心を押しつぶしていく。苦い涙が喉元からせり上がり、瞳をにじませる。
 
王は、わたしを棄てた。
 
『お前はわたしを捨てなかったか?』
 
王の声が耳に甦る。冷たい声であった。その同じ声は、かつてわたしを美しいと言った。愛に似た言葉を、幾つもささやいた。
同じ声で……。
胸の奥が、暗いものにぐしゃりと捻られる。そこにしまってあったのは、自分への強い自信だ。他、わずかな甘い記憶の欠片が、幾つかあるだろう。王から猫を下された喜びや、閨勤めの後での満ち足りたハレムの午睡……。そんなものら。
そういったものが、暗い心の力にぷちんと、またはがしゃりと、あっけなくつぶれていくのだ。
それは心を空にするに似て、自分が悲しいほどに空疎で、何の意味もない、ただの誰かの影にでもなるような気持ちがする。
静かな涙は風に踊る髪筋に絡み、頬をなぶっていく。力なく、わたしは欄干に身を乗り出させた。
このままふわりと下に落ちてしまえば、すべてが変わる、いや終わるのだ。
リーとの甘やかな恋に溺れた事実。その背景にあったもの。そして壊れてしまったあの夢の現実。
今新たに、わたしの中で何かが壊れた。脆く、あっさりと。信じたもののすべてが。
 
ぷちんと、シャボンの玉のように。
 
背後で猫の小さな声が聞こえた。何か食べ物がほしいのかもしれない。わたしの動きが目を引くだけかもしれない。
それに振り返ることすらせず、わたしは更に身を乗り出した。もうほんの少しの力の均衡で、わたしの身体は落下する。終わりたいのだ。
サラ、という女を。
わたしはつかんでいた欄干を、両の手から離した。当たり前に瞳を閉じ、夢の果てを感じていたいと思った。
 
 
衝動的に死を選んだわたしは、衝動的に死ぬことが叶わなかった。
わたしの身体は枝と葉を茂らせた梢の上に落ち、衣を裂き、あちこち肌に派手な擦り傷を幾つも作った。
そこから地面に落下した。その衝撃で左足を折った。間が悪く、その辺りにいた警備兵に突如上から落下して来たわたしは易く見つかり、人が呼ばれ、ちょっとした騒ぎになった。
「お前は誰だ」
誰何の声に、わたしは答えなかった。足が堪らなく痛んだのと、事が思うように運ばないあまりの成り行きに、苛立ちもし、惨めにもなった。どうでもよい気分で、わたしはさめざめと泣き出した。
この今、何もかもが嫌になり、自棄なままわたしは、耳も瞳も閉ざししていた。死を選んだ気持ちの有りどころも、もう覚束ない。
それでもわたしを知る者が現れるに及び、処置が取られていく。怪我の具合を診る医師が現れ、わたしの身体は元の部屋に運ばれた。
また振り出しに戻っただけ。
白々と夜が明けていく。
そして、このことも現実なのだと、足の痛みやそれによるねつ気によって、まざまざと突きつけられる。
 
 
わたしがしでかした出来事は、噂話になったらしい。それをわたしは世話係の女官らから聞き、自分の事でありながら、それは王宮での面白い醜聞になるだろうと、思った。
囚われの訳ありのハレム女が、未明身を投げた。ふわふわした興味本位の憶測の飛ぶ様子が、寝台に横たわっていても、感ぜられる。
けれども、それにわたしはおかしなほど興味もなく、また恬淡としていた。
「サラ、足の怪我程度で済んでよかったけれども…」
「何かあったのなら、ねえ、話して頂戴よ」
わたしは、彼女ら自身のこちらへ興味をのぞかせる瞳にうんざりし、「ありがとう」とだけ微笑んで、彼女らを下げた。
一人になっても、することがないのは今までと同じ。変わらない。
違うのは、思いつめた闇のような絶望感が、何の作用か、薄らいだことだ。もう再び死にたいと思うこともない。また、突然悲嘆に暮れる夜がきたらわからない。でも今はもう、死ぬことは頭になかった。
自分で自分というものが、わかってしまったのだ。死ぬことも叶わない、じき下げ渡される囚われた女だということ。
そして、わたしは受け入れたのかもしれない。
 
王に棄てられた女だということも。
 
 
人が現われた。それは久し振りに顔を見るハレムの婆やだった。ちらりと室内に目をやり、断りもせずに寝台の隅に腰を掛けた。
「ほら」
懐から出した生温いオレンジを差し出した。口に含む気はしなかったが、果皮の放つ香りが好きで、わたしはいつもオレンジを鼻の近くに持っていく癖がある。
掌でオレンジをもてあそびながら、婆やの声を待った。わたしには問いかけるほどの事柄がない。
「ハレムでも大騒ぎだよ。あんたのことは」
淡々と婆やは告げた。相変わらずの少し意地の悪い笑みを浮かべながら。
ハレムでは、とっくに王命で処刑されたと思われていたわたしが、実は生きており、なぜか王宮の露台から身を投げた。そのことにハレムは湧くように非難や噂が飛び交ったという。
「サラは赦されるのじゃないか、とかさ、言い出す女もあったよ。あんたは特別寵愛が、深かったからね」
わたしはそれに、笑みにもならない吐息で返した。それは王の声を聞かない者の言うせりふだ。昨夜の彼のあの冷たい仕草を知らない者が口にするせりふだ。
わたしは棄てられたのだ。
その紛れもない事実を既に受け入れたわたしは、こんなときに思い至るのだ。気紛れな王の寵愛に縋りたくないと、わたしは過ごしてきたはずだ。せめて泣かないと。淡々としていたいと。ハレムでは、そう過ごしてきた。それ以外、選ぶ道があると思わなかった。
その王の寵愛に、わたしはある時期から縋っていたことを知るのだ。それは耐え難い現実から目を背けるための逃避の意味もあった。けれども、初めて女として、わたしが王を求めたことが大きい。
務めではなく。
競う対象ではなく。
愛されたいと、わたしは望んだ。
その自覚は、もしかしたらリーの存在によって拓かれたのかもしれない。まばゆいリーの輝きなしには、わたしは王の猛々しい影を纏う美しさに気づくことはなかったのではないか。惹かれていることに、気づきはしなかった……。
それも、果てたこと。過去のこと。
また、元のわたしに戻ればいいだけだ。別の場所で、別な男に蹂躙されながら。気持ちを閉ざす、縋らない術を身につけていけばいい。
慣れているから。ハレムでのようにやればいい。
婆やが、何も飾らないわたしの左手首を指した。
「あんた、あれは?」
地下牢で王の腕輪を手にしたわたしの行為を、彼女は身近に見ている。あらゆることに耐える、よすがにしていたことも。
夕べ、王の背に投げつけてやったと返すと、婆やは目を丸くし、呆れたように笑った。
「あんたらしいよ。ハレムのどの女でも、そんな真似はできない」
それは失うものがないからだ。だから、わたしは王に向き合えるのだろう。ただの男として彼を見られるのだ。
「飛び降りるのは今回限りにしときな、サラ」
婆やは世間話を閉じ、素っ気ない素振りで部屋を出て行った。相変わらずで、励ましもいたわりの声もなかった。婆やらしい。
彼女の背中から、何とはなしに感じられるものがある。婆やもまた、縋らない、縋りたくない女のじゃないか、と。
その背は凛と強いようでもあり、また寂しさの埋め合わせのようでもある。おそらく、わたしの背にも、きっと似た色がある。
 
 
怪我より数日過ぎれば、熱も引き、わたしは壁を伝い、片脚で動くことを覚えた。露台に出ては風を受け、その高みから自分が落ちた箇所を眺めた。
上手く梢に引っ掛かったお陰で、足の骨一本折ることで済んだ。少し場所が悪ければ、地面に叩きつけられ、わたしはもう死んでいただろう……。
死にたいと望んだ、あの夜の突然の衝動を、わたしは笑った。王の拒絶を突きつけられ、絶望した自分を、こんな場所から飛び降りることで幕を引きたいと願った、自分の逃げを笑った。
わたしは王を棄てた女だ。
その女が自ら死を選ぶことを、王は赦さないだろう。
ふと、リーの口ぶりが思い出された。わたしがいる環境は不遇だと彼は言った。ここにいてはいけないと。あらゆることを選ぶ自由をとるべきだと。
自由。
リーの話したことで、一番覚えているのはこの語だ。まばゆくて、尊い響きを持つ、耳に新鮮な言葉だった。わたしの知る、使う、ごくごく限られた自由とは、何もかもが違った。わたしには、果実や食事の量を選ぶ程度の自由しか持たされていなかった。
「自由…」
あなたを失ったわたしには、死ぬ自由すらない。
 
人の気配で振り返った。おそらく女官の誰かだろうと、お茶を頼もうと思い、唇を出かけた言葉が止まった。
扉付近にいたのは、さらりとした黒髪を肩近くまで垂らす、少年だった。藍の品のいい衣を着ている。王族の王子の誰かと言うには、どことなく相容れない。王宮に見習いに出された、どこぞの子弟なのだろう。
「誰?」
片脚でとんとんと飛びながら、部屋へ進むと、少年は慌ててわたしを支えに近づいてきた。近くで見ると、彼がほんの十歳ほどであること、子供っぽく愛らしい顔立ちをしていることが知れる。
わたしは寝台に腰を掛け、彼を見た。少年は気恥ずかしいのか、言いたいことでも言いあぐねているのか、もじもじとわたしを見ている。何なのだろう、この子は。
瞳の具合、面差しの一つ、身体つき、年頃……。
それらの事象に、わたしがどこかで置きざりにした記憶が、ある瞬間にぱちっと感応した。
「あ」
目の前の少年は、わたしの弟だ。

五年も前に別れを強いられた、あのカノンだ。彼を産んで間もなく死んだ母に代わり、わたしは彼を育てた。カノンという華奢な響きを持つ名をつけたのも、わたしだった。
足らない知恵と年、貧しさに揉まれながら、懸命だった過去の日々が、彼を前に、あふれるように胸に湧き上がった。
思い出は、何の言葉すら浮かばせず、わたしの瞳を涙であふれさせた。
「カノン」
わたしが差し出した手を、少年は取った。引き寄せ、かき抱く、その小さな背。身体。でも大きくなった。健康そうだ。可哀そうなほど痩せていた彼とは違う。
「姉さん」
カノンの手が、わたしの背に回った。
互いを認め合うこの瞬間、わたしはかつて味わったことない喜びを感じた。大切な誰かを抱きしめる嬉しさと、抱きしめられる嬉しさだ。
 
どうして忘れてなどいられたのだろう。
 
どうして忘れようとなどしたのだろう。孤高を気取り、過去を棄てたと言い聞かせていた、ハレムの自分をわたしは呪った。また、そうしなければ生き難かったハレムの暮らしをも呪った。
抱擁の後、涙をしまわないまま、わたしは彼に問うた。なぜ、王宮にいるのか、と。そして、どうしてここがわかったのか、と。
カノンは黒く光る瞳をくりんと瞬き、はにかみを頬に載せ、わたしを見つめた。愛らしいその姿に、仕草に、見つめ返しながら、わたしの頬が緩むのだ。
「ずっと前から、僕、王のお側にいるんだ。小姓のお手伝いをさせていただいているんだよ」
 
「え」
 
幼いながら、微かな誇らしさを匂わせる彼の言葉に、わたしは返事をできなかった。驚きに胸が詰まったのだ。
呼吸すら、このとき忘れた。
 
王はこれまで、一度もそのことに触れた事はなかった。
一度たりも。



             

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