HALEM

16
 
 
 
カノンは、わたしの姿を時折見たといった。
ハレムから王の宮殿へ伺候する際や、またそこから下がる折。彼はわたしの姿を見たという。
「すぐにわかった。あれが姉さんだって、すぐにね」
まだあどけない声をしたカノンは、遠くからわたしを見つけ、眺めるのが日々の楽しみだったのだ、と告げた。
わたしは胸が詰まり、言葉も返せず、微かにうなずくことで返事に代えた。
幾ら肉親とはいえ、ハレムは男子禁制の場である。その警護の兵など特別な任務にない男は、子供であっても立ち入ることが許されない。足を踏み入れるのが叶うのは、王のみだ。
わたしがハレムに納められてから、そう月日も置かず、カノンは王宮からの使者に伴われ、こちらに入ったという。小姓の見習いとして、下っ端ながら、日常王の側にあったという。
わたしがハレムにいることを、彼に教えたのは、普段小姓の存在など、部屋の飾りぐらいにしか遇しない、王自身であったというのだ。
「会いたいか」との王よりの下問があった。それに、今よりはるかに幼い五歳のカノンは、激しく首を縦に振った。自ら訊いておきながら、王は彼の願いを無碍に退けた。その後の沙汰もない。
そして月日が流れる。
その間、カノンはわたしの姿を垣間見、気持ちを慰めていたという。姉であるわたしが、彼の前から突然消えたのは、王に見初められたからということと、ハレムでわたしが不自由なく過ごしていることも知った。
そして幼いながら、王より賜る寵愛が、とびきり篤いのだということも知り、子供らしく単純に、カノンは誇らしく嬉しく感じていたというのだ。
今日ここに現われたのは、わたしが自殺を図った騒ぎを耳にし、ここがハレムではないこともあり、堪らず、一目会いたいとやって来たのだと告げた。
「本当に死のうとしたんじゃないよね」
わたしはまた、返事の代わりにカノンを抱き寄せた。髪に頬を当て、その心地のいい小さな感触を、黙ったまま感じていた。
「ねえ、姉さん、たまたま、落ちただけだよね。だって、ハレムで一番の姉さんが、死にたくなる理由なんて、ないじゃないか」
「…ええ、そうね」
カノンの声には、ただ今回のわたしの行動の不思議さをなじる匂いしかしない。
わたしが異国の男と逃げようと謀ったことを、彼は知らないのだろうか。それゆえ地下牢に入れられ、どういう配慮か今の一室に移された経緯も、王の側にありながら、何も知らないのだろうか。
問おうとして、止めた。
子供の耳には入れないよう、周囲の者が気を配ったのかもしれない。王への重大な不敬を働いたわたしのことなど。子供の柔らかな耳にさえ、不快な驚きと衝撃しか与えないだろう。
今更知ったとしても、彼に何の利もない。
わたしは「大丈夫」だとカノンに重ねて告げた。大丈夫、と何度も何度も。
「大丈夫」
わたしはもう、死を選んだりはしない。
じき、この国を去り、知らない誰かに隷属する女になるけれども、自ら死にはしない。そのことを、甘んじて受けるのではない。
それは、王への償いなどという甘やかな感傷でもない。
リーとの出会いから、わたしは自分の選んだことによって、ここまで生きてきた。望んだもの、果たせなかった夢、それらを求めたことに恥じる思いは、今もない。
王の女でありながら、ハレムの女でありながら。
わたしがほしかったものは、男のただの愛だ。婆やと同じ。それは身に過ぎたもののようにも人に思われ、また、かつてわたしが注がれていたきらびやかな寵愛に比べれば、ひどく過少なものと思われるかもしれない。
リーからその優しい輝きを教えられ、存在を知り、王がくれるであろう猛々しいそれに焦がれた。
わたしは、自分の心の奥を知り得たことに、今妙な安堵をしているのだ。縋りたくないという思いが、何に根ざしているか、気づいたのだ。それは朝の光を見るに似た感覚で、わたしはその目新しい自分の中の自我に、驚きと、ある純粋な可憐さを感じている。
愛してほしいと。
わたしだけを、選んでほしいと。
そして、縋りたくないのではなく、縋らなければ与えられない男の限られた愛など、わたしはほしくないのだ、ということも。
ハレムの泉のように、尽きなく注ぎ、身体中を満たす潤沢な愛がほしい。
今更滑稽なことに、わたしはそれを、くれない王以外の、誰から望んでいないのだ。
だから、もう望まない。
自分の心の内奥を知りえたことで、わたしは充足した。それでいい。ハレムの女という存在の中、高みを知り、また堕落も味わった。それでいいのだ。手の中に、最後に何も残らなくとも。
望まなければ、叶えられない失望もなく、落胆もないから。
カノンが去り際、わたしは彼に何を言っておこうか、言葉を選んだ。もう会えないかもしれない。
幾つか迷い、結局ありきたりなものになった。身体に気をつけること、習っているという勉強を努めること。多分それはわたしが去ってから、彼のこれからの支えになるだろう……。
「もう会えないみたいだね」
カノンが怪訝に小首を傾げるのに、わたしは薄く笑ってごまかした。
そうかもしれない。
カノンを手放す切なさが、胸をしめつけたが、それとは別に、嬉しさも感じているのだ。無事で元気に成長しつつある彼を、こんなときに知れたこと。触れられたこと。これからも、おそらく彼は順調に、わたしとは別種の生き方で、大人になっていくのだ。
そのことにのみ、わたしは王へ感謝の心を持った。初めて、ありがたいと、感謝に瞳がぬれた。
涙ぐむわたしに、カノンは足を止め、去り難そうにもじもじとした仕草を見せた。「足なんか、すぐよくなるよ」。彼はそう言う。子供らしく、わたしが足の痛みや不自由に、不満で泣くのだと思っているのだろうか。
可愛いカノン。
何も知らない、カノン。
「我慢しなよ、ね」
そんな言葉で慰める彼が、可愛らしく、わたしは涙を浮かべながら、笑みがこぼれる。
「新しいお部屋は、王のご寝室から、近いよ。あちらの宮殿には僕もいるから、しょっちゅう会えるね。用事をもらった振りをして、姉さんのところへ会いに行くんだ」
「え」
カノンが何を言っているのか、意味がわからない。
よほど怪訝な顔をしたのか、カノンは朗らかに笑い、
「姉さんの部屋だよ」
と言う。その意味がわからない。夫人格で遇す女のための部屋が、準備されている最中なのだという。
まさか……。
確かに、わたしを王の宮殿へ移してもいいと、かつて王は、わたしの意見を訊いたことがある。
でもそれは、あの大問題を引き起こす前のわたしに対しての言葉だ。今のわたしへ向けたものではない。違う。
頭の片隅で思い出した女の存在に、ちりっと胸が焼けた。王の子を懐妊した、あの女がその栄誉を受けるのが穏当だろう。下品であり、また愚かな女であったけれど、ハレムの誰をも黙らせる強運を手にしたのは、間違いのなくあの女なのだから。
わたしではない。
首を振って返したわたしへ、カノンは繰り返す。「姉さんの部屋だよ」と。
彼が去り、わたしはほうけたように、寝台に横になった。片隅に婆やのくれたオレンジが、転がっていた。癖で、果皮を鼻に当てる。
カノンとの再会。これまでの経緯。
それから……。
わたしの知らないことばかりが、続けさまに目の前に起こり、それらに踊らされ、気持ちが騒いだまま。頭が痺れたように疲れている。
目をつむり、怠惰な午睡に逃げたいのに、眠られない。目の奥が熱い。驚きが熱を持ち、こんな形でくすぶり続けるのだ。
わたしはカノンの無知を、子供らしく可憐だと、微笑ましく思い、笑った。
けれども……。
 
何も知らないのは、わたしなのかもしれない。
 
 
 
強い雨が急激に降り注ぎ、いきなり晴れた。洗われたような様を見せる宮殿の輝きや、庭園の緑のまぶしさに、わたしは目を細めた。
最後の日が、あっけなくきた。
早朝、何の先触れもなく使いが現れ、キャラバン隊への随行を求めた。甘い期待も、過分な夢も持たないはず。棄てたはず。
なのに、やはり心が震えた。
わたしは、女官の用意した衣装を纏い、日差しを避けるための白く厚いヴェールを渡された。
こんな女なのに、わたしの世話を務めた彼女たちは、悲しそうな顔をしてくれる。涙を目ににじませてくれる。
こんな女なのに。
「ありがとう」
先導に従い部屋を出る。覚えもない回廊を通り、外へ出た。宮殿の裏手に当る広場には、早々に隊を組み、二十人ばかりの髭をたくわえた男たちが、同じく日除けの厚い衣装を纏っていた。
何の説明もない。
こちらへ、舐めるような視線を投げる。わたしは幾つものそれを、避けもしなかった。取立て不快でもなかった。
命ぜられ、少年のような小柄で細い男の手を借りて、彼の乗る駱駝の背に上がった。高さに眩みそうになる。未知の経験に怖気づくが、すぐじんわりと悟る。
他駱駝たちの背に積んだ数多の荷物。王よりの賜り物の馬が数頭ある。わたしはその一つに過ぎないことを。遠方から朝貢に訪れた彼らへ王からの下賜の品に過ぎないのだ。
先頭を行く者の掛け声で、隊が動き出す。
わたしの背後に座る男は、日暮れ前に一度休憩を取ることを教えてくれた。
「それまで、耐えろ。水がほしければやる」
彼はよく日に焼けた、硬い皮膚の手をしていた。その手でしっかりと手綱を握っている。駱駝の硬い毛の他見るものもなく、わたしはしばらく彼の手を、何となく見つめ続けた。
一度、隊がくるりと王宮へ向きを変えた。皆が手を上げ、布にこもった声を出す。王への賛美と忠誠の声だ。
露台には見送りの人々の姿が群れており、わたしはその中にカノンの姿を探した。小柄な彼の姿が見つけられない。どこにいるのだろう。出ていないのかもしれない。
そのとき、目に入った影があった。それは王の姿だ。彼は露台から少し離れ、腕を組みキャラバンの者を睥睨している。その回りを近習が取り囲み、控えている。
黒の衣に、肩からは飾りで留めた白いケープが長く風に揺れるのを見た。白と黒が目に混じり合って映り、その姿を一瞬、わたしの目に異形のような禍々しいものに見せた。
距離があり、交じることのない無遠慮さで、わたしは彼の姿を見つめ続けた。もう二度と見ることのない、その姿を。
わたしを陵辱し、蹂躙し、そして焦がれさせたその姿を。
彼に求めるものなど、この期に及んで何もない。あるとすれば、それはカノンに関するもので、彼が王の配慮によって、平穏に無事過ごしていける幸福が与えられるのであれば、わたしはそれでいい。
それだけで、いいのだ。
見つめ続けるのは、忘れたくないから。
これからの歳月、わたしはときに王の姿を思い起こし、一人また胸に眠らせるのだ。
よすがではない。身体の中に埋め込まれた、不可分の記憶だ。それは愛に似て、甦るごとに甘く香るはず。きっと時を経るごとに、強く香るだろう。
 
「あ」
 
顔を背ける間際、王の視線を感じた。おそらくそれはわたしに注いだのだろう。しばし留まり、あっさりと外される。小気味のいいほどの冷酷さ、傲岸さ。
それに、こんなとき頬が緩むのだ。揺らがない彼の内部を知り、微かにわたしのどこかがまだごく淡く抱いていた甘美な期待が、崩れていく。それは数日前のカノンの言葉に生まれ、芽吹き始めていたものだ。
それがおかしい。
やはり棄てられないでいる未練の残滓が、おかしいのだ。
ひどい男。嫌な男。
あんな酷薄な男を、それでもわたしは忘れ難く、胸に抱いているのだ。
彼が背を向けたのが見えた。姿は宮殿の中に消え、それを潮にわたしは瞳を閉じた。
早く、別な男に抱かれてしまいたいと、自棄に思った。
早く別の歓びを、身体に刻みつけたいのだ。
 
まだ肌が、鮮やかに覚えているから。
彼のその癖も、愛し方も。



             

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