HALEM
17
 
 
 
町を外れれば、すぐに熱砂が広がる。熱い風になぶられ、目の前を膜のように白く舞い上がる砂。
その砂の海を、キャラバンは、緩慢に駱駝の歩を急かすことなく進んで行く。
わたしを乗せる背後の男は、せがむとすぐに水をくれた。革の袋に入った、妙なにおいの移った温い水。わたしはそれをたびたび乞うた。
気温は高く、目の前に広がる尽きない砂漠は熱くたゆたっている。熱いだけではなく、渇いていく恐怖。身体が容赦のない光に熱に、干上がってしまいそうに感じられる、水への堪らない飢餓感があった。
こんな場所でも、行き交う者たちがいる。それぞれがやはり似たように隊を組み、商隊らしく大きな荷駄を幾つも幾つも運んでいる。
旅慣れた仕草で、互いにごく短い挨拶を交わす。男が不意に教えてくれた。男の部族では、金を稼ぐために、ああいった商隊の警護をすることもあるのだと。
「その銃が足りない」
ぽつりと付け足した。高価な銃身のある銃は、彼らには希少で、数を持っていない。今回の朝貢で、その下賜を王へ申し入れたが、果たせなかった。
「代わりに、あんただ」
男は渇いた声で、またぽつりと言った。
わたしは何の言葉も返さなかった。聞きたくもない話であったし、わたしが乞うた話でもない。
王は蔵する貴重な銃の代わりに、抱き飽きたわたしを「くれてやると」下げ渡したのだ。王宮での別れに、すべてを理解していたけれども、また一つ別な痛みが胸を刺した。
男はそれで口をぴたりと閉じた。砂漠の男らしく、余計なことは口にしない。それをわたしは好ましいと思った。熱砂を渡る過酷なキャラバンの旅は、男たちに無駄口を許すほど甘くないのだろう。
以前地下牢の雑居房でいた男たちは、それほど多弁でもないと思っていたが、砂漠の彼に比べれば、ずっと言葉数が多かったのを思い出す。彼らには、話して紛らすということが必要で、キャラバンの男は、逆に言葉に紛らすことを惜しむのだ。
その行為の意味を、わたしは、駱駝の脚が砂にめり込む歩の揺れに感じる。熱い風に感じる。ときに視界を覆う、舞う砂に感じる。張り付くような、喉の渇きに感じる。
凝らしていなければ、身を奪われそうになる。降り注ぐ熱に、風をはらんだ砂の魔に。
どれだけ黙していたのか。
身体を預け、あらゆることに耐え、揺れるに任せる旅だ。鞍に触れる内腿の痕が、動きに擦れるたびに、ほんのり熱を持って痛むのだ。旅の終わりには、また傷になっているだろう。
倦んだ気持ちで、ふと空に目をやった。頭を覆った厚い衣の上に、真っ青な雲のない空が見える。そこに中天を迎える太陽を見つけ、眩む思いで、わたしは瞳を閉じた。
見えない先を見るから、暗澹とするのだ。見えないなら見なければいい。ただ黙々と、自分の足先のみを見つめる。そうして一歩ごとに、微かな前進であるが、歩を運ぶ。
そうやって、わたしは生きてきた。少女だったわたしの手に余る赤ん坊を遺されたときも、ハレムでの日々も。
前など見ず、自分の置かれた今だけを見つめていた。
この先に何があるのか、待つのか。与えられるそのときを耐え、足もとを見つめていく他ない。
いつしか、微かな繰り返す歩の先に、何かの形で果てがくるのだ。
こんな風に。
願う形ではなくとも、忌んだあのハレムの檻から出ることが叶う、こんなときが。
 
 
鞍の革の、内腿の傷痕を擦る痛みが耐え難くなってきた。
わたしは、心持ち傷のある脚をやや浮かせた。背後の男の「擦れて傷むのか」の問いに、わたしは頷くことで答えた。
「脚を鞍の上に上げてみろ。随分変わる」
勧めに、堪らない痛みになっている方の脚を、鞍へ持ち上げた。ふと脚を覆う衣を見ると、血の色がある。
傷を検めたかったが、控えた。男の目にあの印章の痕は、どう映るのであろうか…。いや、わたしがあの痕を再び、目にしたくないのだ。王の手により無理に刻まれた冷酷な印章は、ときに癒え、またときを経て、こんなときじくじくと痛むのだ。
それを見たくない。
衣の血を目にしたのか、男がねぎらうような声をくれた。
「可哀そうだが、耐えてくれ。早目に休みの許しをもらってやる」
「ありがとう」
鞍上の窮屈な姿勢に何度かの、ため息が出る。居心地の悪さだけではない、暑さに茹だり、吐息が苦しいのだ。
水をもらおうと、声をかけたとき、耳に妙な音が入った。別な多数の獣が砂を刻むような、駱駝が立てる音ではない、この場にいびつな音だった。
訝しさに、振り返ろうとしたとき、隊の動きが止まった。駱駝が向きを変える。幾頭もの駱駝と鞍上の人々の林の向こう、漆黒の影が見えた。それは艶のいい毛並みの馬であった。
 
騎馬した人の姿に、わたしの瞳が瞬きを忘れた。
 
王の姿があった。
彼は他騎馬した供を数人伴っていた。優美な黒馬にまたがる彼は、熱砂の風に、肩に垂らした黒髪を散らしている。
わたしの瞳は、王の小さな動き、流すまなざしに、吸い付けられる。
キャラバンの長に続き、皆駱駝を降りた。わたしは、脚が強張り、転がるように砂に倒れ込んだ。
王は鞍から脚を下ろした。非常にしなやかな仕草で馬を降り、砂漠に長いブーツの脚を置いた。
彼は言う。
「女を返せ」
それに、膝を折ったキャラバンの長が、不満の声を上げた。
「王にあらせられては、…二言をなされますのか。誠にお許しを賜ったと、了見しておりますが」
「気が変わった」
それだけを理由に、彼はまた、
「女を返せ」
と告げる。
わたしはそれらやり取りを、熱い砂に半身を伏しながら、息を凝らして聞いていた。王のあり得ない翻意、その驚きと、それらによる已まない胸の高まりが、こんな状況にありながら、堪らないときめきを生み出すのだ。
憎んだはず。
恐れたはず。
その男を、わたしは今更求めている。全身で、息を潜めるように、彼の放つ言葉であり、または仕草、醸すすべてのものを、一心に受け取ろうとしているのだ。
目の前を、見たこともない砂漠の奇妙な虫が、砂を走って行く。こんな苛酷な環境にありながら生きている命に、わたしはこのとき不思議な感動を覚えた。
「繰言は止せ。女を返せばそれでいい」
王がわたしを求める言葉。しむように、耳に入り、胸の中で形のない喜びが広がる。
脚の痛みと、熱による苦しみは、感情が呼ぶ波に紛れていく。溶かしていく。
抗弁をあきらめたのか、長は渋々といった表情でわたしを振り返った。衣と髭に覆われた顔は、わたしの位置からは暗く、その色が読めない。しかし、抗えない力に憤っているに相違ない。
「貸せ」
何かを供へ要求する王の声。それに続き、長の膝元に、大きな麻袋が投げられた。まるで王が狩りの際、得た大型の獲物を入れるような袋に見えた。ふくらみは歪だ。まさか、獣には見えない。
「ただとは言わん。それで堪えてくれ」
長が検めた袋の中には、束になり輝く銃身の長い銃が横たわっていた。小さなざわめきが、キャラバンの中に渦になった。
彼らが芯から欲していたのは、銃の方だ。それが得られぬ代償がわたしだった。
側の男がわたしの背を押した。また別な男が腕を取り立ち上がらせる。長の傍らにまで行くと、今度は長の手で王の前に差し出される。
かっと照りつける日の光に、わたしはめまいを起こした。砂に慣れない足がふらつき、膝を折るように崩れた。奇しくもそれは王の靴先だった。ほんの目の前に、彼のブーツの足がある。
その足先を、かつてのわたしは舐めたことがある。それによって彼の怒りを解こうと、紛らそうとした。他愛のない誤魔化しをさらしたのだ。
そんなことを今思い出す。
腕が伸びた。白のマントの添うその腕は、わたしの腕を取り、立ち上がらせた。腰を抱き、まるで毛布のように易く肩に背負うのだ。
汗をかいた馬の背に放るように乗せられた。高みに怖気づく。わたしは馬に乗ったことがない。脚を擦る痛みを、このとき思い出したが、王がわたしの後ろに騎馬したことで、またぷちんと泡のようにそれは消えた。
鞍に投げ出すようにいたわたしの身体を、彼は引き剥がして起こし、鞍にまたがらせた。「あ」と声がもれるほどに、脚の痛みを伴った。
乱暴な仕草に、どうしてか甘い涙がにじむ。
 
ひどくてもいいのだ。
冷たくてもいいのだ。
 
王はすぐに馬首を返した。供の騎馬も後れて続いた。
背後からキャラバンの男たちの和した声が聞こえる。聖典の節を冠した、王への忠誠のまぶしさを誓う文句が並ぶ。走り出した騎馬の速度に、その声も遠くなり消えた。
馬の鬣をつかみ、曖昧な姿勢でふらつくわたしの身体を、王が手綱を持つ手で自分へ抱き寄せた。
ぴたりと空いた手が、彼の胸に当てられる。黒衣の衣を通しても、その熱も、匂いもわたしには伝わる。感ぜられる。
どうして、とは問わない。
 
どうして。
 
問わない問いが、涙に溶けてあふれ出す。頬を伝い、流れるそれを、わたしは手の甲で拭おうとした。王は女の涙を嫌う。湿った女々しさを厭うのだ。
 
「詫びない」
 
「え」
涙を拭うわたしの耳に降ってきた言葉だ。わたしはぬれる瞳を彼へ注いだ。涙に潤んだ瞳は、ぼやけ、彼の顔をうっすらとにじませた。
王の「詫びない」という言葉が持つ意味、重さ、深さ、あらゆるもの…。それをわたしは量りあぐね、瞳を彷徨わせた。
わたしは詫びてなどほしいのではない。
ただ……。
渇いた声が、いつものわたしらしい、冷めた言葉を告げる。告げながら、涙の残る頬を彼の胸へ押し当てるのだ。
「王のお心のままに」
それに小さな失笑のような、吐息に混じる笑みが聞かれた。「お前は、わたしに詫びたことなど、ないではないか」と。
 
「え」
 
「雌犬」、と聞こえた。王が女を罵るときに使う言葉だ。短く吐き棄てるように言い投げるのだ。耳に痛く言い捨てられ、泣いたハレムの女を、わたしは数多く知っている。「女狐」、「雌豚」…、と罵りは気紛れに変わる。
幾度かわたしも、何かの際、その言葉を放たれたことがある。
けれどもわたしは、それで泣いたことがない。何が悲しいのだろう。何が辛いのだろう。
ハレムとは、そうした場所ではないか。雌犬や、雌豚、目狐たちが王へひれ伏し、妍を競い巣くう、女だけの、淫靡さと同じだけ甘美な園……。
罵るその言葉の後で、額に口づけが降る。小さなつぶやく声と共に、降る。
「もう逃げるな」
その言葉に、それが連れるさまざまな喜びに、いまだ痛むあの印章の傷が疼くのだ。
触れてほしいと。
愛してほしいと。
せがむ思いは言葉に流れず、やはり涙になり、彼の衣をしっとりと染めるのだ。
わたしの色に。



             

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