HALEM

(18)
 
 
 
熱い風。舞う砂の渦。飲み込まれそうになる魔を感じさせた砂漠の旅。もう既にそれらのものに、わたしは怯えることはない。
ほんの側にある王へ腕を回し、身をぴたりと寄せ、瞳を閉じるのだ。そこに見えるのはただの闇ではなく、うっとりとわたしを酔わせる、甘い宵の空に似ている。
喉の渇きも、傷の痛みも、些細なことに思え、わたしはひたすらに、飢餓を覚えて幻の宵に浸る。何も見たくないのだ。何も感じたくもない。
衣を通して伝わる王の肌の香、その熱だけでいい。それを感じることで、わたしはひどく満たされた思いがする。
何も要らない。
リーを含む過去も、この先の未来もなにもかも、手放してもいいと思える愉悦だった。端から失うものなどなかったはず、願いもとうに絶えたはず。
なのに、わたしは焦がれながら今のときを惜しみ、味わうのだ。
このまま……。
 
 
頬をきつく打つ衝撃と、顔に水が浴びせかけられるのを感じて、わたしは目を開けた。少しばかり記憶が飛ぶのを感じる。ほんのりと、意識が遠のいていたのだろう。
光がいきなりまばゆく視界に飛び込んできた。そのまぶしさに眩む。辺りは変わり映えのしない、砂漠の光景が広がる。ただほんの微かに潮の匂いが混じるのは、海が近いのか。
「あ」
言葉を発しようとして唇の端が切れた。ひどく渇いていたのだ。王はわたしの異変に、馬の歩を止めたようだった。水の袋を付き付けた。
「…馬が保たない」
王が供へ口にした言葉だ。聞き取れた言葉はあまりに短く、わたしにはよく意味を成さない。ぬれた髪も、顔のしずくも、あっというほどの間に風に渇いてしまう。
そのとき、空を覆って見えるほどに強い風に辺りの砂が舞った。わたしは始めて目にする、空気を砂色に染めるような、砂の風だ。顔を伏せかばうより前に、一瞬で黒い幕が降りた。それは王の腕だ。彼はわたしを、懐深く自分の腕にすっぽりと包んだのだ。
 
あ。
 
何も言う間もなく、すぐに馬が走り出す。
 
 
一行が馬を向けたのは、王宮ではなかった。それは海に面して建つ白亜の宮殿で、離宮のような扱いか、王宮に比してこじんまりと小さい。
砂漠は近く、その砂色に海の紺碧と、宮殿の白い外観の対照が、ひどく目に輝かしく映えた。
広々とした露台は欄干もなく海浜へ続いている。わたしは鞍上から解放され、分厚いヴェールを脱ぎ、まばゆい光景を目に映していた。誰も控えず、ひどく静かだ。
わたしはハレムの外を知らない。こんな場があることも知らなかった。生家のあった、ごみごみとしたバザールの裏路地は知るが、こんな美しい場を知らない。
思えば、この国に君臨する王の閨に幾度も侍る身であったというのに、わたしという女は、この国を何も知らない。ハレムの女には、国を知る自由すらない。
それを、わたしはリーより知り、知らない自分を呪った。閉じ込められた自分を憎んだ。けれど今、そのときとは別な次元に立ち、わたしは、こうした目に真新しく美しいものを眺めている。
その自分を、今ある自分を憎むことはない。ここにわたしを連れた、王を呪うこともない。
何が違うのか。何が変わったのか。または何かが生まれた、消えた……。他愛なく胸の奥を探るのを止し、わたしは髪をかき上げた。
王は陰った室内に掛け、杯の酒を飲んでいる。
帰路で、王が口にしていた「馬が保たない」は、砂漠に適さない馬脚を慮ってのことだったようだ。だから、より近いこちらへ入ったのだろう。
身を翻し、奥へ移ると、王は肘掛についた手に額を寄せ、瞳を閉じていた。眠っているようだった。
手の中の杯が落ちそうで、わたしはそれを取り、中身の残ったそれを口に運んだ。ほろ苦い液体が熱く喉を焼いていく。熱は胸に達し、ちりっと思いを疼かせるのだ。
王の髪に触れる。しっとりと流れる黒髪を指ですくい、はらりと落す。肩に指を置き、腕へ這わす。頬へ指を伸ばしたとき、目覚めた王の手がそれを邪険に払いのけた。
そうしながら、裏腹に、跪こうとするわたしの腰を引き寄せて抱く。いつ振りだろう、こんな仕草を受けるのは。いつから、わたしは王の女でなくなったのだろう。
膝の上にある自分を、このときは、王の思いのまま踊る人形のように思わなかった。
口づけを受けるとき、切れた唇の端に、彼の舌が触れた。沁みる甘やかな痛みに、気持ちが震えた。既にしっとりと、心も芯も歓びに潤んでいるのが、こんな今わかる。
衣を潜り、王の滑らかな肌へ指を伝わせる。背に回し、弾くように望んだ男の肌を受け入れるのだ。
冷たい床に押し倒されても。明るい中、衣を剥がれても。すべてを奪われるように脚を開いたときも。
 
わたしは人形ではない。
 
王の手のひらが、内腿の印章の痕に触れた。しっかりとした指先が、辿るように、まだほのかに痛むその箇所を行き来する。
王がわたしへ刻んだ傷だ。その傷痕を、同じ手が愛撫に辿るのだ。ごく敏感なその傷は、微かな痛みとそれを凌ぐ官能をわたしに注いでいく。
この傷を受けるとき、耐え難い痛みを伴った。癒えるまで、ひどく痛んだ。苦しかった。辛かった。
なのに今、その因業の傷痕は、王に触れられ、あふれる歓びを呼ぶ泉に姿を変え、素肌のわたしをこんなにも焦れさせるのだ。
「サラ」
王が名を呼ぶ。
サラ、と。
絡む肌の放つ熱が、冷えた大理石の床を温ませていく。つながる堪らない痛みさえ、吐息がしどけなくぬれるほどに、熱い歓びに姿を変える。
流れる王の髪筋を、わたしは指で捉えた。激しく身を貫かれながら、そうされる今の至福に瞳を涙があふれる。それはまなじりからあふれ、王の髪を絡める指先をぬらす。
「もう逃げるな」
こんなとき、王は再びその言葉を口にする。息が上がり、返事のままならないわたしへ、命じ続けるのだ。
この次は殺す、と。
赦すことはない、と。
「生きてきたことを悔いるほどに、苦しませてやる」
真っ直ぐに、その黒い瞳がわたしを見つめる。その瞳に映る自分さえ認められるほどに、こんなにも近い。
そうであろうと心のどこかが感応する。間違いなく、王は言葉の通りにするだろう。わたしが、今度彼を裏切る過ちを犯せば、決して赦しはない。きっと怖気の振るうような刑を科せられて、殺される……。
次はない、決して。
それは、彼の言葉に、その声に、そして肌を通して、わたしへ直接に届く。執拗な会話の代わり、抱き合い、最初に果てるのと同じほどの時間を要して、わたしへ伝わるのだ。
彼の中の迷い、苛立ち、怒り、憎しみ。紛れないそれらの存在があったことと、立ちはだかるそれらを通り抜けて、今のわたしがあること。
幾度王は、わたしを殺そうとしたのだろう。
幾度、棄てようとしたのだろう。
幾度……。
「…もう棄てないで」
王の指が、わたしの瞳の涙を荒く拭う。返しはない。見つめるまなざしと、甘く重なる唇に推し量る他ない。
 
「あ」
 
こぼれる声は、探し得た答えに満ち、幸福を含んで、しっとりとぬれている。
王の手が、内腿の傷に触れた。いたずらに煽るように感じるその肌をいじるのだ。
自分をこのとき包むものに、肌が粟立つほどの昂ぶりを覚えている。それは、王の見せるごく淡い優しさによるもの、あれほどの裏切りを犯したわたしを赦す、代えの効かない愛を垣間見たからだ。
もう一度抱いてほしくて、わたしは脚を彼のそれを擦るように、沿わせた。「ねえ」と、媚びないわたしが唯一媚びるのは、こんなとき。
抱いてほしいとき。
王はそれに小さく笑った。愚かな猫でも嗤うように、「せがむな」と言う。
肩に置いたわたしの左手首を握り、その手に何かをすぽんと潜らせた。
「あ」
腕を包む衣で気づかなかった。そして情事に及び、わたしはまったくそれに気づかなかった。彼の手首には、かつてわたしが地下牢で拾い、自分の物のように身に着けていた、あの銀の腕輪があったのだ。
それを、わたしの手首にすとんと落とした。王の物で、やはり大きい。すぐに肘近くまで滑っていく。
どうしてこれを、王が……。
「どうして…」
問いを終いまで言わせずに、彼は遮った。
「ただ、お前にくれてやるんじゃない」と、王は言う。
「え」
「これは、枷だ。お前を囚えておく枷だ」
 
わたしから逃げるな。
 
それ以上に言葉を省くように、荒く愛撫が始まる。探る肌の猛々しさに、わたしはのみ込まれていく。
しんなりと重さのある銀の腕輪。王のそれが、わたしの手首に飾られる。ひんやりと冷えたそれは、すぐに肌に温まった。それを待って、わたしはその手首を王の背に這わせた。ゆっくりと、汗ばんだその背を滑らせていく。
心をただ蕩かせながら、うっとりと瞳を閉じるのだ。
「カイサル」
その名をささやきながら。



             

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