HALEM

19
 
 
 
初めて抱かれたことを、わたしはよく覚えている。その時間のそれぞれの細かな欠片を記憶しているというより、男に肌を許す恐ろしさを、わたしは忘れえずにいた。
恐怖と心細さと不安…。それらの思いがあふれ、まだ幼いわたしは、閨に上がりながら、不調法に泣き出してしまった。
そのわたしを前に、王が何をしたか。どう振舞ったか。
彼は涙を抑えられずにいるわたしへ、大きな手のひらを振りかざし、呆れるほどに頬を打ち続けた。態度が不快であるといった言葉もなく、褥から下がることも許さない。
そのまま、犯された。
初めてのその夜から、わたしは数日、閨に留め置かれた。王の道具にされ続けた。解放の時間は疲れた痛む身体を寝台に横たえて耐え、また王の気紛れが訪れれば否応もなく身体を開くのだ。
その少女のわたしには衝撃的であった出来事が、その後のわたしを決めてしまったといっていい。
人は王のわたしへの執着を、珍しいと噂した。夜が来れば決まって召され、わたしは、夜ごと身体を蹂躙される恐ろしさの代わりに、徐々にあきらめと、そして不思議な高揚感を覚えていった。
事ごとに涙へ逃げる弱さを捨てたのもこのときで、またハレムの女であると強く自覚し出したのも、この頃のことだ。
わたしは、ただの王の女ではなく、その中で特別な女なのだと。
続く寵愛が、いきなり途切れたのは、ハレムに入れられて、一年にも満たないとき。ふっつりと夜の御召しが途絶えたのだ。王は新たに入った別な女を召すことが多くなった。
その妙な空疎感と味気なさに、泣きたくないと願いつつも一人、寝台で泣くこともあった。今では失笑しか浮かばないけれども、下らない女の挑発に乗り、派手に言い争い床に組み合うほどの大喧嘩もした。
王は、ハレムに新たな女が入れば、その者を自分の好みに躾けるように仕込むかのように、調教に似た抱き方をする。そうやって己の好む型のハレム女を作る。繰り返し、繰り返し……。いつしかそう悟った。
王の好みの姿態を持った美しい女たちが、あふれるハレム。それに気づいたとき、わたしは愕然となった。そして気持ちが悪くなった。自分もまたその華やいだ畸形の檻の中に閉じ込められた、その人形の一人だということをのみ込んだからだ。
潮が引くように、月が姿を変えるように、王の寵愛はまた気紛れにわたしへ移った。ときそれは脆くぶれ、わたしを冷たい陶器のような、つかみどころのない女にしていった……。
 
過去を反芻するのは、好まない。それは、わたしがろくな過去を持たないからと、過去から、これから先の何かを導くことが、ときに危ういほど頼りにならないとどこかで思うからだ。
ふと、王の腕がわたしの腰から離れた。その手が指す方を見上げると、陰った庭園の樹木に、赤い実をつけたものがある。
日暮れ近く。離宮の庭にはいっぱいに、涼気を含んだ風が穏やかに吹いている。
「幼い頃、よく採って食べた」
「え」
王は幼い頃、この離宮で遊び、よく庭の木々に登ったのだという。そういう類のことを彼から耳にするのはひどく稀で、奇異に感じた。
「採らせてやる」
言葉を返すよりも先に、不意に王はわたしの腰を引き寄せ、高く抱き上げた。「肩に乗れ」という。不安定な姿勢に怖気づきながら、命に応じれば、
「首に脚を掛けろ」
「え」
「この脚を、右肩に置けと言っている」
そう言い、右の腿をぽんと打った。それでは王の頭を跨ぐことになる。あまりの行為に、無礼を躊躇をしていると、馬鹿にしたような声が、
「見慣れている、今更隠すな」
「え…」
わたしのためらいに焦れるのか、王の手が右脚をつかみ、自分の頭を潜らせた。肩車された格好だ。
「もう届くだろう」
緑の茂みに手を伸ばせば、熟れた果実を手に出来た。一つをもいで、王へかざした。幼い昔が懐かしいのかもしれない。そんな王は殊に珍しく、わたしはふわふわと落ち着かない。
屈むことなく、彼はわたしを滑らせるように地へ下ろした。
風に促されるように、歩を進める。王の纏う藍の衣が、風に舞うように地を這う。水の匂いがすれば、ほどなく噴水のあがる泉に出た。煌びやかにタイルを張り巡らした目に鮮やかな瀟洒なもので、王がその縁に腰を下ろし、引き寄せられ、わたしは落ちる形でその膝に掛けた。
どこもかしこも、この離宮は愛らしく壮麗に出来ている。短い滞在で、わたしはその美しさが気に入った。海を望めるこの場にあれば、気持ちが凪ぐようにも思う。
わたしは手の中の果実をもてあそび、王の手がまたこちらの腰に定まったのを機に、口に含んだ。
何の実だろう。くどい甘さが口に広がり、微かな渋味がある。美味とはいえない。それほど旨くもないこんな果実を、幼い頃の王は、なぜ採ったりなどしたのだろう。遊びだろうか。気紛れだろうか。
少しをかじり、唇に触れさせたまま置いた実を、王の指が取った。音を立て果肉を噛み切る。
「おいしい? 懐かしいのでしょう」
「わからん」
王は果実をまたわたしへ返し、空いた手でわたしの髪に触れた。湯浴みの後で、まとめ上げたわたしの髪はまだしっとりと湿度がある。王の指がためらいなく、その結い髪を解いた。肩に落ちるぬれ髪を手に巻く。
わたしは手の果実を、ほしくもないのに口に運んだ。こんな物でも下賜の品で、放ってしまうのは惜しい気がする。食べあぐねているのに気づいたのか、王はわたしの口許から果実を取り、あちらへ放った。そして腕輪の上から、手首をつかんだ。
胸に、王が顔を当てる。わたしは彼へ腕を回し、背とその髪を撫ぜた。
王宮と違い、騒がしさが感じられない。ひどく静かだ。耳を澄ませば、波の音が聞こえそうなほど。
一秒ごとに暮れ行く中、灯入れの時刻か、宮殿の窓から点点と、淡い明かりがもれるのが見えた。
「あ」
乳房に王の唇が触れるのを感じた。やんわりと噛み、または舌を滑らせる。わたしはその甘やかな仕草に、王の髪を指に絡めることでひっそりと耐えた。誰も咎める者はなく、けれどもわたしが声を上げることをためらうのだ。
紛れない濃密な二人だけの時間、せめて秘めやかに心をぬらしていたい。それは待ち焦がれたささやかな逢瀬のように。あたかも時間の限られた恋人たちのようにありたい。
あ。
その願いは、リーとの秘めた恋の日々に似ている。はやる心とときめき。隠し切れない昂ぶり……。
そのことにわたしは瞬時厭わしさを覚えた。それは王の腕にありながら、柔らかな愛撫に酔いながら、いまだ他の男を忘れかねている罪悪感からではない。後味の悪過ぎる幕切れを招いた、あの忌まわしい過去を、こんなとき瞳の奥に甦らせたくなかったのだ。
そんな自分をあまりに自分本位だとは知る。けれどもその感情は素のままのわたしなのだ。他でもなく自己に、紛れない自分を恥じる必要をわたしは認めない。
乳首を舌が辿る心地よい刺激に、わたしは唇を噛んだ。
 
こんなことばかりしている。
 
うっすらと夕景の色をした風が流れていく。
王は顔を上げ、「続きは後だ」と、わたしをとんと突き放した。膝から落ちたわたしは、崩れて無様に地に腰をつけた。後ろ手に手をつき、王を見上げた。
そのわたしへ彼が手を伸ばした。取れ、と手を差し出すのだ。
「なんて顔をしている」
「え」
わたしはどんな表情を見せたのだろう。気持ちが顔色に露わに出るのであれば、今のわたしは、きっと惨めな表情を浮かべているのだろう。鏡など見なくとも、何となく知れる。
離宮に訪れ、二日になる。
王宮へ帰るとも言わない王。不意の滞在と王を独占する甘美な時間は、リーとの事件を起こして以降のわたしを癒し、またハレムの日々に培った王への増長を思い出させもした。
けれども……。
「サラ。甘えるな」
なかなか手を取らないわたしへ、王の目に怒りはない。苛立ちもない。
不安なのだ。
向けられる王の優しさが、怖いのだ。
 
 
目が覚めたのは、微かな身じろぎを感じたから。
辺りはまだ朝のほんの始まりで、うっすらと暗い。わたしは寝返りを打ち、傍らの王へ身を寄せる。
「カイサル…」
そこに王の姿は既になく、がらりと空いたシーツが横たわっている。わたしは身を起こし、その辺りの衣で身体を覆った。昨夜王の落とした物のようだ。藍の色をよく覚えている。
薄暗がりに、ぼんやりとする視線を彷徨わせ、扉の側に王の背を見つけた。湯殿へ向かうのか、腰に衣を巻きつけた寛いだ姿だ。王は朝が早い。王宮でのその習慣を、ここでも破り難いのだろう。
再び名を呼ぼうとして、止めたのは、王が振り返ったからだ。
「サラ」
すっきりとした精悍な身体をこちらへ向ける。
わたしは跪かなかった。王がこちらの日々にそれを求めなかったし、そして閨の後のだるさで、寝覚めが悪いからだ。
「帰る」
彼は短くそう告げた。
次につないだ言葉に、わたしは声を失った。「お前は連れない」と言う。
「ここに残ればいい」
「え」
声を凍えさせたまま、わたしは王を見つめる。彼は前から後ろへ髪をかき上げ、どうでもいい猫でも見るような瞳をわたしへ注いだ。
「気に入ったのではないのか、ここが。ここにいればいい」
「カイサル…」
ようやく唇を発したものは、彼の名だ。愛しいその名を乗せた声はか細く、瞬く間に音を失う。
王には聞こえない。
気が向けば来てやる、と王は言う。「お前はハレムが嫌なのだろう」と嗤うのだ。
 
そうではない。
そんなのじゃない。
 
「わたしを、愛しているのではないの?」
数日、執拗に何度もわたしを愛したその身体を、彼はこの朝容赦なく翻すのだ。
「カイサル」
その声に、王はちらりと横顔を向けた。美しい線を描くその輪郭。朝靄の空気の中、情事の名残りを感じさせないその影はひどく冷たく遠く、玉座の彼を感じさせる。容易くわたしを肩車などする男などではなく。
紛れもなく王として、そこにいた。
 
「勘違いをするな、サラ」
 
迷いなく扉を出て行くその傲岸な背を、わたしは瞳にあふれていく涙越しに眺める。にじむその姿は、瞬きをする間に、もう消えた。
戻らない。



             

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