HALEM

20
 
 
 
夜が完全に明け、窓辺からは朝の光が差し込んでくる。徐々に明るくなっていく部屋の中で、わたしはまんじりともせず、ただ王の残した藍の衣を握りしめたままでいた。
外が騒がしい。人の気配に、馬の蹄の音が混じる。出立だ。王が帰還するのだ。
わたしは握ったままの衣で身体を包み、部屋を飛び出した。いまもまだ、怪我の右足は軋むように痛んだ。織物が敷かれた床は、足音も立てさせない。真っ直ぐの廊下を進み、行き着いたのは、大きな部屋だ。異国製らしい椅子や卓子などが並ぶ、冷たい石の床のその部屋は、ここに来て最初に王に抱かれた場所だった。
当たり前に人はなく、わたしは開け放した露台に出た。露台は突き出た形をしており、正門が望める場所にあった。正門前の広場には、既に王の愛馬が引き立てられてある。人もそろい、王の姿だけがない。その辺りを焦れて視線を彷徨わすと、突然黒衣の影が、衣をなびかせて現われた。
王だ。
彼は迷いのない仕草で鐙に足先をかけ、造作なく優雅な動きで騎乗した。背に流れる衣で、慣れた手つきでくるりと頭から首もとを覆う。風に遊ぶ髪が煩わしいのだろう、よほど急くときなど、王は騎乗でこんな風な仕草を見せることがある。
夕べも、その前の宵も、わたしが指に絡め、またはすいた髪だ。抱き合う情事の中、その髪筋は、互いの肌の汗にしっとりとぬれ香った……。
短い声が上がった。跪いた人々を前に、王は何の言葉もなく、馬首を翻した。わたしは歩を進め、露台の前方、より正門に近い場所で、白い円柱に身体を預け、去って行く王を見つめていた。
騎馬の影が小さくなる。その立てる音が微かになる。
「カイサル」
唇から、今頃彼の名がこぼれた。大声を出し、気を惹きたかった。わたしへ視線を投げてほしかった。
できなかった。
そうしなかったのは、既に王が、自分からわたしを遠く切り捨てている様を目にしたからだ。そのことへ何のためらいもないあの鞍上の彼に、黙殺されるだろう声を上げるのは、ひどく惨めであった。
気紛れに過ごした、あたかも蜜月のようなここでの時間は呆気なく果て、彼はまた自分だけの時間を始めるのだ。王として、冠を戴く唯一の者として。
そして、ほしいときハレムの女を求めるのだ。欲望を埋める、わたしではない別な女を、わたしを抱いたのと同じ身体で当たり前に組み敷く……。
目の奥にかっと熱く嫉妬がわき上がるのを感じた。知るハレム女の顔を順に思い浮かべ、それらその他大勢の彼女らへ唾棄したいほどの苛立ちを覚えた。
そのやみくもな感情を、わたしはすぐに消した。消えたのではない。抑えたのだ。それは、ハレムでの日々が生んだ気持ちのすり替え方だ。王の気紛れに踊る誰かを妬むのではなく、その嫉妬や羨望の先にこそありたい、と。その資質も、美しさも、自分にはあるのだ、と強く自覚する。
おそらく、紛れもなく、わたしは羨望の対象だ。異国の男と逃げた大罪を赦され、王自らの手でこんな居心地のいい離宮に置かれている。生き別れた弟さえも、寛大に救われて王の側にあるのだ。他の女では望めない。決して。
 
わたしはその他大勢の中の一人ではない。
 
海風になぶられながら、わたしは佇んでいた。
導き出した答えに、気持ちは落ち着くものの、苛立ちは晴れるものの、胸に欠落した何かを感じている。
それは、たとえば離さず腕にあった王の銀の飾りを手放した、あの日の悲しみに似ている。続くかに思え、しんなりと肌が蕩ける愛撫が、不意に止んだ味気なさにも似ている。
その意味など、容易く知れる。
王がいない今が切ないのだ。こんな場所に一人放っておかれる自分が、遣る瀬無いのだ。
一度ならず、わたしはすべてをあきらめた。これからの自分も、王への願いも、自分に遠い、手の届かないものであると悟り、望みを絶った。
けれど再び手にした、王の肌の温もり、その熱も、強さも、見つめるまなざしの猛々しさも。あの隔てを置いてさえなお、身も心もみずみずしくわたしを潤したのだ。
それらに包まれた短い泡沫の夢のようなひとときに、わたしは目のくらむような陶酔を覚え、王の不似合いな優しさを訝りつつも受けた。そして、知らず歓びに自ら変えていった……。
堪らない。
海風になぶられながら、胸の切なさを噛みしめている。
「カイサル」
届かない声が、心で呼ぶ。
あなたのすべてが、ほしい。
長い眠りから覚め、確かな覚醒をするように、わたしは深く自分の心を知るのだ。
手放せない、と。
 
 
離宮には、数日いた。国の祭礼の日を挟み、わたしは静かな日々を送った。
すぐに行動を起こさなかったのは、自分の心をよくよく見極めたかったからだ。迷いや躊躇いにぶれるはしないか、時間に気持ちが冷やされることはないか……。
慎重なほど冷静に、わたしはそれらを探った。
冷静でいたい訳は、もう過ちを犯せないからだ。自分の今の境遇を、得難い幸運と知るからこそ、それを失いたくないのだ。
すえた臭いのこもるどこかの牢に放られるのも、または別な男に下げ渡されるのも、もう絶対に嫌だ。
王から下賜された幸運に包まれるうち、わたしの中にも願いや希望が芽吹いてくる。たとえばそれは、カノンに関すること。
美しく満ちた姉の姿でカノンに再び会いたいから。彼がたった一人の姉の存在を、せめて恥じることなく、あってほしいのだ。
離宮は、閑散とするほど人少なである。王族の誰かがこちらへ渡る以外、手入れの他仕事らしい仕事もない。
使用人は王宮のそれより温和で、王がいきなり連れた素性のわからぬ女を、遠巻きに距離を置いて接してくれた。詮索もなく、非常に気楽だった。
わたしは戯れに、浜辺を歩き、貝を拾い、またそれを海へ投げた。ほんの日常の命以外、口を開くことも稀な孤独な日々は、わたしの心を鮮明に、澄んだものにしたのかもしれない。
気持ちが確かに定まったのを感じた。
その変わり映えのしない一日の始まりに、わたしは果実を噛みながら、庭園の手入れをしている壮年の男へ声をかけた。
王宮へ連れて行ってほしい、と頼んだ。
男はわたしからの頼みに、小さな驚きを見せた。それを見ながら、王がわたしをここへ留め置く固い命を残したのかと、ちょっと危ぶんだ。
しばしの沈黙の後で、わたしは当たり前にこう口にした。
「王のお言葉なの。王宮に戻るように、と」
王の言質を騙る罪悪感は、まったくない。ここを上手く抜け出すことにのみ、わたしの頭は動いていた。
男は王の名が出たことに、身を硬くし、素直に頷いた。自分ではなく、王宮への使い役のアジャルという男が送ってくれると、わたしを促した。
「ありがとう」
王宮へ向かう準備を、わたしは、既に慣れた広間に接した露台で待った。円柱にもたれ、青い海とそれにつながるように交わる砂漠の色を目に留めた。
見知らぬ海を渡る鳥。柔らかな湿り気のある海風。自分が手を触れる滑らかな円柱の真白さ。
王の赦しを受けたこの場所は、美しさや優美な可憐さだけではなく、わたしにひどく馴染む気がするのだ。心に沿う気がする。
「マダム」
耳に新しい呼び名で顔を背後に向ける。馬の用意ができたと男は言う。
振り返り、惜しむようにもう一度海を眺める。
また再びここにあれたら……。
願うように、そのときわたしはそう思った。
 
 
騎馬で王宮に着いたのは、昼の盛り。離宮の使いであるマジャルの名で、わたしは王宮の門をくぐることが叶った。
迷いそうな庭園の入り口で彼と別れ、わたしは歩をそのままハレムへ向けた。計画もある。それに、表の宮殿にいても、女官でもないわたしの姿はひどく人目に立ちそうだった。
緑の庭を、縫うように進み、慣れた回廊を見つけた。宴で伺候する際、よく通った道だ。敢えて顔を隠さず、伏せもせず、わたしは進んだ。行き交う人が、おかしなことにそれで訝しむこともなければ、誰何の声もない。怯えず何気なく振舞っていれば、誰も怪しみなどしない。
王の伽の後で、寝坊してしまった不躾な女であるように、わたしはのらりくらりと歩き、見咎められることなく、するするとハレムの敷地内に入り込んだ。
懐かしい匂いにする庭に足を踏み入れ、そこからは肩に垂らしたヴェールを被り、顔を隠す。数多いる女たちは、ほぼ噂好きで、詮索好きで、そして暇を持て余している。わたしの姿が露見すれば、ややこしいことになるだろう。
そこでも顔を隠すだけで、堂々と歩き、女の房ではなく使用人たまりへ向かった。それは階下の裏手にある。婆やに会うためだ。
かげったひんやりとする廊下を奥へ進む。女の声や何か甘い匂い、そんなものが耳に届いた。それらに、わたしは遠くない過去を思い出す。ここにあった自分の姿を思い出すのだ。
扉もない厨房から、いきなり人が現われ、記憶にどこかぼんやりともしていたわたしは、その誰かとぶつかり合ってしまう。
「あ」
と口を開いたのは、ハレムの小女だった。見上げた先にあるわたしの顔に、しばし目を留め、目を見開いた。彼女が何か言い出す前に、わたしはその口を手で塞いだ。
「黙って。婆やに会いたいの。どこにいるの? 教えて」
怖気づくのか、小女は答えない。再度問い。わたしが頼むことで彼女へ迷惑はかけないと、言葉を重ねた。
何度か頷きがあり、わたしは口元の手を外してやった。
「食堂に…」
「連れて行って」
わたしと別れた後で、方々に話されては堪らない。彼女のきつい上役である婆やに命じてもらうため、小女を伴った。
ほどない距離の食堂で、婆やは椅子に掛け一人煙草を飲んでいた。片脚を腿へ乗せ、男のような座り方だ。
わたしの姿に、さすがの婆やも驚きを隠さない。それがおかしくて、こんなとき、微笑が浮かぶ。
「手を貸してほしいの。助けて」
 
婆やは、わたしが事情を話し、彼女の手を借りたい具体的な事柄を告げても、胡散臭そうにわたしを見るばかりだった。
そこで彼女へも、小女へと同様、再度迷惑は決してかけない、とくどく念を押した。
「まだ伽のお達しが来ないから、出来るとも、出来ないとも言えないね」
「いつ頃来るの?」
「夕刻か、遅ければ、深夜になることもある。もちろん来ない日もある。王のお心次第さ。そんなこと、あんたならよく知っているだろう」
わたしは王に会うため、離宮を抜け出してきた。ハレムに来たのは、婆やが懐かしいからでも、こちらの空気が恋しいためでもない。今宵の伽の女に代わり、わたしが王へ伺候するのが、目的だった。その差配を、婆やに頼みたかったのだ。
会って、言葉を費やして彼へ伝えたいのではない。
王の纏う気配に触れたいのだ。側にありたい。気紛れに、離れた離宮で訪れを待つのは堪らない。
堪らないのだ。
「あんた、湯殿の掃除がまだだろう?」
低い声で婆やが小女へ命じた。彼女は、「まだ入っている人があるから…」と、尻すぼみな声で応えた。
湯殿でだらだら身体を磨くのは、ハレム女の日課の一つだ。
「追っ払っちまいな。切りがない。ふん、どれだけ磨いたって、伽の数など知れてるくせに」
辛らつな皮肉と嫌味が飛び出す。相変わらずな彼女に、頬が緩む。婆やは小女へ、顎をしゃくって再度命じた。
「余計なことを喋るんじゃないよ」
小女が部屋を出て行ったのと入れ替わりに、別な女が入ってきた。わたしの姿を見つめ、やはり絶句する。それも婆やに一睨みされ、押し黙る。
「何だい?」
王宮よりの使者がハレムの入り口で待っていると言う。伽の下命だ。そこへは婆やが足を向け、使者から直接王の意思を聞く。それから該当の女へ伝えるのだという。
初めての場面に出くわし、ちょっとぼうぜんとなる。それと同時に嫌な妬みが胸に兆す。
わかり切ったこと。当然の事実。
王が抱くのは、わたしだけではない。これまでも、この先も。
婆やが席を立ち、ここに隠れているように言った。わたしは落ち着かない気分で、空腹でもあり、彼女の残した味気のないパンを食べた。
どれほどか後で彼女が戻り、今宵王がハレムの女を求めていると告げる。
「ここの女には言ったことがないがね」
まだ物ほしそうにパンへ目を流すわたしに、婆やが新たなパンを差し出しながら、告げた事柄は、ちょっと咀嚼も意識を止めるほど、わたしには大きかった。
王が名指しし、伽の女を指名することは稀だという。その命じ方は曖昧で、「新しい女を」であったり、「久し振りの者を」などであったりするらしい。誰と、直接の指示はない。その意志をくみ、婆やが独断で女を選んでいたという。
直に名で命を下す女は限られている、婆やはそう言うのだ。
「あんただけだ」
 
「え」
 
「考えてもご覧よ、入れ替わる大勢のハレムの女を、王がどうしていちいち覚えていなくちゃならない? はん、そんな面倒なこと」 
驚きに固まるわたしを、馬鹿にするかのように婆やが笑う。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
伽の時間までわたしは、婆やの自室に隠れていた。質素な、簡素な部屋は、婆や自身の醸す色がにじんでいた。
壮絶な、彼女の過去。ある部分は、わたしに非常に似たそれを、わたしは忘れることが出来ないでいる。
耐えた日々と、乗り越えた確かと、残る何がしかの苦しみと。
その彼女の年月を思い、わたしはひっそりと泣いた。
 
時刻が迫り、婆やはどこからか調達してきた衣装をわたしへ渡した。わたしはそれを身に纏い、部屋を出る。
「ありがとう」
礼に、婆や肩をすくめるような仕草で応えた。「迷惑だけは勘弁だよ」と、いつもの辛口は忘れない。
 
王の許へ伺候するのだ。久方ぶりの栄誉は、わたしの全身を昂ぶらせ、ほどよい緊張もさせる。
王の女として。
叶うなら、ただのサラ、として。
そうであれば、届かない王の声が聞けそうな気がする。



             

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