HALEM

3
 
 
 
リーのささやいた言葉は、わたしの中で甘く広がった。彼は「君は、ここにいちゃいけない」と言った。
そして、「サラ、僕と一緒にここを出よう」とも。
ハレムを出よう、と彼は言うのだ。
その響きは、なんて輝いてまぶしいのだろう。なんて美しいのだろう。まるで、わたしのこの先の未来が、きらきらと光彩を放っているかのような、そんな響きだ。
少し、笑ったと思う。声にならずにわたしのそれは消え、葉の茂った枝に止まる鳥の羽ばたきの音に、気をとられた。視線は、彼からすっと離れ、庭園の梢をうろうろと。
「暮らしは保障する。君のこれからは、僕と共にあってほしい」
リーはそう言い、わたしの頬を両の手で挟むのだ。わたしの顔があちらに逸れないように。瞳が逃げないように。
「いけない」
まず、ここから出られる訳がない。外交でやって来た、王の賓客のリーたちはいい。ごく易く出国が叶う。船に乗り波に揺られれば、この国のことなど過去と果てる。
わたしがどう、その中に紛れ込めるというのか。この王宮からすら、出られないというのに。
ゆらゆらと首を振るのみで答えに代えたわたしは、実はもう、この場を去りたくなっていた。あまり時間をかけては、ハレムの誰かが怪しむだろうし、見つかってしまうかもしれない。ここは王宮の中央、王の宮殿だ。こちらへは許された通路があり、ハレムの女であっても、ハレムの女だからこそなのか、来ることが出来た。
今宵の伽の用のないわたしが、ここにいること自体が、おかしなことである。
そういえば、わたしを馬場でぶったあの女は、もう王の寝室にでも入ったのだろうか。もう抱かれてしまったのかもしれない、狩りの後によく、王は女を求めるから…。
あんな女の閨房での姿態など、どうでもいい。ただ不快なだけで。
次彼女に会えば、わたしは薄衣の裾を踏みつけてやるかもしれない。思い切り踏みつけ、衣が裂けて、あの女が転びなどすれば、さぞ胸がすくだろう…。
そう思い、ちょっと楽しくなる。けれども、わたしはそうしないだろう。きっと、こんな思いつきさえ、忘れてしまっているだろうから。
「サラ」
熱い吐息が触れるほどに、彼は顔を寄せた。リーは、手段はある、と言う。
「え」
何の手段なのか、何の話なのか、一瞬だけ考えてしまった。リーの話した先の内容は、不可能であり、現実的ではなかったから。わたしにはもう済んだことだった。だから笑ったのだ、無理だと。
「ねえ、君は…」
どうしてか彼はちょっと笑い、わたしをきつく抱いた。
「妖精のように移り気だね、本当に。愛らしくて堪らない。ねえ、僕の話を真剣に聞いて。君の疑問はそれからだ」
「ええ…」
リーは、わたしを連れ出すことは可能だと言った。大きな荷物の中に忍び込めばいい、というのだ。
「ワイン樽でも、僕のトランクでもいい、大きい奴がある。それを、当たり前な顔をして船に乗せる。海洋に出てしまえば、もう君は自由だ。もちろん、窮屈な場所からすぐに出してあげる」
わたしは返事ができなかった。リーの言い出した手段にまず驚いたのと、彼の、容易いとでも言いたげな口調が、思いがけなかったのだ。
まさか……。
叶うのだろうか。
「帰国したら、まず君を邸に連れて行く。姉がいるけれど、大丈夫。気持ちのいい人間だから安心していい。そして、君のその姿はとっても魅力的だけれども、僕の国はもっとずっと涼しい。ドレスを着るといいよ。大胆に肌をさらすのは、あちらではご婦人には道徳的じゃないんだ」
彼の邸、姉なる人。その人はとてもいい人間であるという。それから過ごしやすい気候。だから、今のような身体の線が露わな衣装は相応しくない……。
「サラの肌には、菫色のドレスが映えるような気がする…」
それは非常に優しい色の声だった。うっとりと、それだけで瞳が夢を見るように、わたしは彼のブルーの瞳をのぞくのだ。
ぴたりと抱き合って、密接に触れた身体。彼の肌の温度さえ、シャツ越しに感じるくらいだ。ほのかに汗で湿った手の甲が、わたしの頬をなぜた。
優しい、優しいリーの仕草。
まさか……。
叶うのだろうか……。
「あ」
やんわりと、リーがわたしの唇を甘噛みした。それで、じんと胸がときめきに痺れるように、心が感じて、吐息がぬれるのだ。
「出よう、ハレムを」
行きたいと思った。
叶うのなら。
彼と一緒なら、どこへでも。
ここではないどこかで、わたしはきっと、その優しい腕で彼に愛してもらいたかったのだ。
王とは違う手で。彼に。
 
 
ハレムのサロンでは、自室から出た王の女たちが、銘々に好き勝手に過ごしていた。
だらしなく寝台に寝そべり、水煙草をのむ者、喋り合って笑い声を立てる者もあれば、その傍らで、罵りあう者たちもある。
わたしは泉の前の露台で、それらの音を背中に、聞くともなしに聞いていた。
後ろの誰かがわたしを呼んだ気がしたが、聞こえない振りでいた。どうでもいいことに違いないのだから。
欄干にもたれ、ぼんやりと、絶えない泉の水のあふれるのを見つめていた。うっすらとブルーをした水の色に、わたしはリーを思い出す。彼の瞳を。猫に似た色のそれを思い出すのだ。
それだけで、甘く、自由な気持ちになれた。
「サラ」
そばに人の気配がした。紅の艶やかな絹衣を、ただ長く身体に巻き付けただけの普段着のハレム女の典型的な姿で立つのは、以前馬場でわたしをぶった女だった。
名前を知っていたが、わたしは呼んだことがない。用もないし、親しくする気などなかったから。
彼女は、胸元でひだの出る新しく凝った衣の巻き方をしていた。こんなものにも流行りすたりがあった。誰彼が、器用にそれらを考えて見せびらかすのだ。
彼女はわたしに、先の王の褥での務めに触れた。口調が自慢げであるのは、命ぜられる数が少ないからだろう。
幾つもの伽の夜や、または王の気紛れの寵愛を、わたしは一々覚えてなどいない。数え切れないから。それに、そんなものは淡く、ひどく儚いのに。
きっかり覚えているのは、最初と、そして猫をくれたことくらい。
暗に、隣りの女は、わたしが伽を命ぜられる数が減ったということを言いたいようだった。飽きられているのではないか、と。面白がった、同情顔で。
誰かの寵愛が薄れれば、その代わりを誰かが埋める。それが自分だ、と彼女は信じているらしい。
「よかったわね」
わたしは、にっこりと彼女に笑いかけた。「王の心を蕩かす」と言われた、ハレム一の微笑で。
わたしの様子に呆気にとられたのか、女はぽかんと唇を開けた。それに構わず、わたしは彼女の手に、自分の耳を飾っていた銀の飾りを乗せてやった。
以前、商人から求めたものだった。もう意匠に飽きてもいたし、要らないから。
リーの言う「ドレス」に、そんな派手やかにゆれる物は似合わないだろうから。
「サラ」
声にも構わず、わたしは身を翻した。部屋に戻り、昼寝でもしようと思ったのだ。
部屋には寝台を整えている小女がいた。彼女を手で払い、もういいと帰した。
「甘いお茶を頂戴」
身を寝台に横たえ、胸元で巻いた衣を解いた。はらりと片方の乳房がこぼれた。
床に衣装を落とし、裸でシーツに身体を包み、ころりと寝転がった。午後の陰りに、冷えたシーツが身体に当る肌触りが、わたしは好きだった。
お茶を持って現われたのは、さっきの小女ではなく、召使や小女たちのまとめのような身でありながら、ハレムの女にすら顎でものを言う婆やだった。大昔、ハレムで前王の寵愛を受ける一人だったという話だ。
誰も真偽は知らない。訊ねても、にやにやとはぐらかされるだけだった。
婆やは盆に乗せた茶を、わたしに渡しても出て行かない。
「サラ、今宵はあんただよ。夕餉までに…」
とそこで言葉を切り、軽く顎をあちらへしゃくった。そこは王の宮殿の方角だ。
「参るように」
道理で婆やが現われた訳だ。これを伝えるためだったのだ。
否応もない。わたしは頷いて返し、熱くて甘いお茶を飲んだ。
まさか飲み終わるのを待ってでもいるのか、婆やは動かず、立ったまま部屋にいた。
「まだ仕度には早いわ。少し休むから。出て行って」
「サラ」
飲み残したお茶を、わたしは盆に返した。立ち上がったため、身体を包んだシーツが外れ、裸体が露わになる。わたしは慌てもしなかった。ないことでもないし、女の肌など目が腐るほどに見慣れた婆やを相手に恥じても、何にもならない。ハレムに入れられたての、生娘でもあるまいし。
「何?」
なぜか婆やは、意味ありげにわたしを見返す。皺の拠ってたるんだ肌には不思議とつるんとしみがない。髪は結って衣で包んであり、一筋も見えない。よく見る当たり前の濃い紫の衣装は、洒落っ気なく腰元で束ねられていた。
表情のないその顔が、いつもより厳しいのはどうしてだろう。
 
「あんた、逃げる気だろう」
 
ぽつんとした婆やの声に、わたしは、シーツを身体に巻きつけ直す手を止めた。
自然、彼女の顔を見た。
「わかるんだよ、あんたの様子を見ていれば」
驚きに声が出なかった。代わりに、馬鹿みたいにわたしは、口許をもぞもぞと動かした。
「よその国から来た、あの若い男だろう、男前の」
「え」
そんなことまで知られていることに、愕然となった。どうして知ったのだろう。あんなにこっそりとした逢引だったのに……。
わたしは身を硬くして、表情を読まれたくなかった。ひどくおたおたと、狼狽しているだろうから。婆やから顔を背けた。
婆やは、「ハレムのことなら、何でもわかる」と、奇妙な威厳のある魔法使いみたいなことを言った。
そうかもしれない。
そうであるのかもしれない。ここに長く居過ぎている彼女になら、女たちの発する微かな気配で、何にもかも知られてしまうのかもしれない。
「止めな」
婆やは無理だと言う。
それを、わたしはハレムの女が逃げ出すなどすれば、婆やの罪になるため、止めているのだと取った。だったら、彼女はこの秘密を決して他言しないはずだ。
わたしはやや安心し、無言で首を振った。
リーは大丈夫だと請合ってくれた。「僕を信じてほしい」と言った。約束してくれたのだ。
それに、ハレムには、美しい女があふれるほどにいるではないか。わたし一人が消えても、王には何の痛みにもならない。代わりは幾らでもいる、次々と、新たに…。
婆やのつないだ言葉は、わたしにはまったく意外なものだった。彼女の言う「無理」は、ハレムを出る「無理」ではなかった。
ハレムを出た後のわたしたち女の、「無理」なのだ。
「あの男について行った先で、あんたがどう生きられる? ハレムで、王に侍るだけが能のあんたに。何が出来る?」
それでもいいと、リーがわたしを欲してくれたのだ。愛らしいと、美しいと、愛していると。それ以外に何が必要だろう。
婆やは、顔を背け、微動だにしないわたしへ舌打ちをした。ぺたぺたとサンダルの足音がしたから、部屋を出たのかと思った。
わたしはそのまま、寝台に身を横たえた。少し眠って気分転換をしたかった。胸がもやもやとする。嫌な気分だった。
そこへ、ふっと再び婆やの足音が身近に甦ったと思ったら、続いて、いきなり冷たい水が、頭から全身に浴びせられた。
わたしは、逸らしていた顔を彼女へ向けた。婆やの手には小さな盥があった。部屋の水瓶から水をすくってきたのだ。
それを、わたしに、思うさま、浴びせかけた。
「目を覚ましな、サラ。血迷うんじゃないよ」
リーとは、肌の色が違う、目の色が違う、纏った文化も社会も違う……。
簡単に、この国の女が受け入れられる訳がない、と彼女は言う。わたしが思うほど、外は甘くはないのだ、と。
「ここを出て、どう生きていけるんだい? ハレムの女が」
どうしてか、枯れた表情の中、婆やの瞳が涙を流していた。
なぜ、彼女が心を痛める必要があるのだろう。泣きたいのは、ずぶぬれのわたしなのに。



             

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