HALEM

21
 
 
 
暮れた宵の始まりを、わたしは耳に届くどこからかの楽の音に感じた。柔らかな風、それにもほんのり甘いものを感じる。
王の宮殿へ伽に向かう際通るこの回廊は、左右に壁がない。ただ樹木がびっしりと生え、その林がほんの先も見えなくしていた。この道を使う際、わたしはいつも思ったものだ。なぜ壁で固めてしまわないのか、と。ハレムの女が逃げ出そうと思えば、幹を抜け、容易くここを脱しられそうな気がしたのだ。
けれど、いつしかおぼろげに悟り、また今ではその考えがひどく馬鹿げたものであると、わたしは知っている。それは、わたしが一度ハレムから逃げた女であることから、当たり前に理解しているのだ。
仮に女が幹を抜け、この回廊からどこかへ逃げたとしても、外には出られない。この道は、そもそも袋小路なのだ。どこへ逃げても必ず咎める人の目と、壁、または鉄の門がそびえる。
この道はまた、ハレムという存在そのものをよく表している。出口のない、答えのない、そして女としての行き着く期限だけがある。
嫌な道だ。
忌んだその回廊を、わたしは今宵自ら進んでいる。王に会うために。そこにもやはり、答えなどないような気がする。
確かなことは、出口の見えないこの道へ、ハレムを出たわたしが敢えて戻り、自分の意志で歩んでいること。その愚かさに、滑稽さに、自虐な微笑が浮かぶ。
「あ」
背後から衣擦れの音がする。軽やかな女の足音が聞こえる。それに振り返りながら、まだわたしは頬に笑みを残していた。
 
答えなどいいのだ。
 
ほしいのは、王がわたしを見つめるまなざしの射るような強さ、そして強引に欲情を果たすあの乱暴な腕の力だけ。
そして、ハレムの数多の女の中、わたしの名のみ、名指すというのが真実であるのなら、呼んでほしいのだ。
サラ、と。
あなたの女として。
 
振り返れば、そこには別なハレム女の装った姿があった。先を行くわたしの顔を認めた女には、あからさまな敵意とそして隠せない興味が見える。
婆やだ。彼女が保身のため、わたしの他、王の命に従った伽の女を寄越したのだ。
もし王の怒りに触れ、不意に現われたわたしが罰せられても、この女を寄越すことで、婆やには命に忠実であった、とのちに逃げを打つことが出来る。「サラが勝手にやったことだ」と。
したたかで小ずるい彼女らしい。怒りはない。ただ、蓮っ葉でやり手のあの婆やに、ハレムを逃げ出すほどの恋に溺れた艶めいた過去があったことがおかしいのだ。
どんな殊勝な顔で、男と恋を語らったのか……。
おかしい、笑みに唇から歯がこぼれた。
「戻って。今夜はわたしに譲って」
女は胡乱な顔でわたしをじろりと眺め、小さく暴言を幾つか吐いた。わたしはそれを流し、笑みを浮かべたままの顔で、お願い、と頼んだ。
「最後だから」
どういうつもりでそう口にしたのか、自分にもわからない。何が最後なのか、この女に会うのが最後なのか、この道を通ることが最後なのか、王の伽が最後であるのか……。
意図せず口にした言葉は、彼女にどう響いたのか。身体つきの割りに力のある手で、わたしの頬を思い切り張った。その力に身体が揺れ、木立へ傾いだ。木にもたれ耐えた。
いっときの頬の熱い痛みが去れば、わたしは彼女へ手を差し出した。意味がわからず唖然とする彼女へ、再度促した。まさか握手をする気など、さらさらない。
「頂戴、その耳飾り。素敵ね」
「誰が…」
「じゃあ、貸して。後で婆やへ返しておくから」
目の前の姿を作った女を前にし、何の飾り気のない自分の装いが、少々侘しくも感じたのだ。久方ぶりの伽であるのに。
「悪くしないわ。わたしから婆やへ頼んでおくから」
ハレムでは隠然たる力を持つ婆やの存在に、女も怯むものがあるのか、不承不承、耳飾りを手のひらに乗せて寄越した。
礼を言い、彼女の前でそのまま耳に飾った。さやさや揺れる感覚が華やいだ気分を呼ぶ。
「お先に」
彼女の派手な舌打ちも気にせず、わたしは身を翻し、歩を進める。
背中に、遠くなる女の踵を返す履物の擦れる音が聞こえた。新しい耳飾りのくれた華やいだ気分は、ぷちんと泡のように割れて消えた。
去って行く、背後の女の足音が、ちくりと胸に悲しい。
嫌な道。
 
 
王の姿はまだない。
女の待つ寝室に彼が姿を見せるのは、その気分次第だ。早いときもあれば、遅いときもある。
甘い匂いの香が焚かれている。わたしは寝台に掛け、傍らの卓子に盛られた果物を適当に食べて待った。
耳に遠く届いた楽の音はいつしか止み、代わりに心地のよい風が、カーテンを揺らし窓辺から入り込んでくる。
緊張も緩み、眠気が差すほど待った挙句に、隣室から王の現われた気配がした。簡単な仕切りのみで、扉のない続きの間は、着替えと湯殿に通じる広く取られた控えの間になっている。そこにはここにない大きな鏡が置かれていた。
仕切りの影から、光に王の姿がちらりと鏡に映る。それを認め、わたしは立ち上がり、食べかけの果物も卓子に戻した。
肩を露わにした王が、寝室に入ってきた。入るなり、帯びた剣を側の椅子に放る。がちゃりと鞘が鳴り、そこで王はようやく女の顔へ目をやるのだ。
垂らした髪が、上衣を纏わない王の肩を覆っている。彼はほんの少しわたしへ注いだ目を、細めた。
驚いているのだろう。当たり前だ。王は今宵、わたしを呼んでなどいない。彼が求めたのは、別な女だ。わたしではない。
泰然と命に背くわたしを、彼はどう見るのか……。
「カイサル」
王は、わたしへ少しも近寄らず、寝台から遠くある。片方の腕を腰に置いている。卓上の杯を取り、酒を自ら注いだ。満ちた杯を唇にあてがいながら、わたしを冷めた目で見つめた。
「何をしに来た?」
「会いに…」
口ごもるわたしへ、更に問いが降る。その声は突き放すように冷たい。その質も色合いも、よく知っているはずなのに、気持ちが塞いだ。離宮で過ごした短い休暇のようなあの日々、あなたの声はもっと近くにあった。
わたしのすぐそばに。
だから、わたしは……。
「呼んでいない」
「でも…」
杯を干した王は、ほんの少しわたしへ近づいた。長く垂れ床へ流れる下衣は、歩に膝が割れ、そこから滑らかな脚がのぞく。
王は問いを重ねる。「どうやってここへ来た?」と訊く。どうでもいいようなことを、なぜ訊くのだろう。わたしは牢にあった訳ではない。意志があれば、あの離宮を、好きに出られる。
簡単に経緯を告げると、王の眉がぴくりと険しく動いた。斜にわたしを睨みつけるその顔は、怒りを表していた。
「わたしの名を騙ったのか?」
「え」
「王の名を使い、偽ったのかと訊いている」
その通りだ。わたしは離宮を出る際、使用人らに王の命であるかのように振る舞った。そうすれば、事が易いからだ。
それに悪気も、この期に及んでの罪悪感もない。ただ、王の怒りに触れたことが恐ろしかった。またこの人を怒らせてしまったことへのみ、わたしは悔いていた。
「カイサル…」
こちらへ顔を背けて立つ彼をうかがう。光を受ける頬から、影になる鼻梁へ、その線はひどく恐ろしげに見えた。よく知る王の嫌な面をそこに見た。それは冷たく傲岸で冷酷ですらあり、女の心を震えさせる、辺りの凍るような暗い気配だ。
「申し訳…」
ようやく口にした詫びの言葉を、彼の立てた音が乱暴に遮った。先ほどの杯を床へ叩き付けたのだ。瑠璃の硝子はそれで粉々に散る。破片がどういう作用か王へ飛び、その頬を微かに切った。
「あ」
そのまま王はわたしの頬を、振り上げた手のひらで強く打った。目の前に星の散るような衝撃だった。痛みより打たれた勢いに呆然となる。その力に、背後の寝台へ倒れ込んだ。
頬に手をやり、熱いそこを押さえながら、わたしは寝台から降りた。跪くわたしへ王は、加減をした、と言う。
「懲りないお前に説教も無駄だが、言っておく。わたしの名を騙ることは許さない。次は顎が砕けるぞ、加減はない」
王はうなだれたわたしの顔を、自分の爪先で顎を持ち上げ上向かせた。目の前に王が立つ。
「下がれ」
わずらわしげな声が最後。わたしはその声の冷徹な音に、声もなく、ただ瞳から涙ばかりがこぼれるのを、防ぎようもなかった。
王の仕打ちは、わたしの心を惨めに揺さぶり、突き放した。わたしは力なく緩慢な動作で立ち、扉へ向かうため、王の側を通る。そのとき、王が、小さく「待て」と告げた。
そして、意外なことを、微かな嗤いをにじませて口にする。「腕を置いていけ。それくらいの罪は犯した」と、彼は言った。
瞬時意味が取れず、わたしは王の顔を見上げた。彼はわたしの左腕に軽く振れ、
「これを置いていけ」
冗談ではない証左にか、彼は椅子から鞘を抜いた剣を手にするのだ。その刃の受ける光の煌きに、わたしはやっと王の言葉の意味をつかんだ。
まさか。
王はわたしの腕を……。
まさか……。



             

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