HALEM
22
 
 
 
おののき震え、わたしの瞳は凍てついたように動かず、王の顔から逸れなかった。王の瞳はわたしの様子をちらりとなぜ、奇妙なことを言う。
「知らせでは、傷が上手く癒えず、リーは右腕を落すことになったようだ」
「え」
王の言葉に、目の奥には、まざまざと生々しくあの日の光景が甦る。あれは王がわたしを連れ戻しに来た船の上での出来事だった。怒りをたたえた王の剣が、容赦なくリーの右腕を貫き、甲板に縫い止めたのを、わたしは見た。
その鮮やかな過去の情景は、今なおわたしを眩ませ、そのまま壁に縋るように身を預けさせた。
リーの声までもが、耳に届くように覚えている、それはまるで褪せもしない。恐怖に歪んだ、彼の悲鳴を……。
瞳から涙はほとばしるようにあふれた。辛いのとも、悲しいのとも、違う。涙の訳は、リーへの痛ましさだ。わたしのような女に係わり人生を狂わせた、彼への堪らない同情にも似た、憐憫の思いだ。
とめどない涙に急かされ、嗚咽をもらすわたしを斜にまなざしを注ぐ王の表情は、美しく冴え、冷酷で温みをまるで持たない闇のものに見せた。
「あの男と同じく腕を落すのであれば、本望であろう」
低い異形の声が問う。彼はぶらりと提げた剣をいたずらに遊ばせ、涙を干せないでいるわたしの衣を、次々に斬り裂いていくのだ。
「胴と脚が残れば、ハレムの女は用が成せるではないか」
 
この男は、本物だ。
 
肌が粟立った。

瞳をあふれていく涙の、その意味が変わる。リーへの潰えぬ痛ましさ、憐れみから流したものが、涙の色はまったくの恐怖に染まったそれへ、変わっていく。
このとき、牢にあったときの自分を思い出した。王の怒りを買い、それに怯え震えていた自分を、露わに思い出す。地下牢の暗がりの中、その恐ろしさ、その向かう先、その彩りが、わたしは堪らなく怖かった……。
何の術もない。
剣の切っ先が、わたしの胸元に達した。硬く光る剣は、冷たくわたしの乳房を舐め始めた。
声が出ない。恐怖に絡め取られた声の元が、音を凍らせてしまうからだ。
「そんな目で見るな」
王の声は変わらず冷たく、渇いた嗤いを含んで渇いている。
彼の前に動けずにいる自分、恐怖に固まり、身を震わせるのみの自分。その姿は、おそらく王の目に、他愛のない人形に映るのだろう。意のままに動く、操れる、処分の出来る……。
 
……堪らない。
 
抗いようのない現実は、わたしを王の手に踊る人形にさせる。その事実のみが、わたしの胸の中で、ほんのささやかなともし火のごとくに灯った。
現実でありながら、嫌なのだ。
人形であることが、堪らないのだ。
ここへ歩を運んだのも自分の気持ち、そして王を求めているのも、わたしの固有の心だ。強いられたものでも、与えられたものでもない。
ハレムの誰とも違う。
そうでありながら、その踊らされる自分に、ほんのりどこかで酔う心もある確か。この期に及んで、痺れるように、女の内を開かせる、何か。
唯一絶対である王の命は、どれほど苛烈であっても、ハレムの女の心の芯をしんなりと溶かし、虐げられる歓びを暗く芽吹かせ、また萎えた心を甘くぬらすもの。
だからわたしはあの闇の地下牢で、苦しみに耐えながら、まやかしの王の愛に縋っていられた……。
 
これは、ハレムの魔だ。
 
わたしは、恐怖の涙にぬれた瞳を、王のそれに合わせた。繰り返す瞬きに涙は途切れ、自然それは乾いていく。うっすらとした跡を残して。
胸に触れたままの剣先をやんわりと払い、わたしは王の前に自分の右腕をかざした。
望まれれば、
人形の腕を置いていくだけ。
左を、と一瞬だけ迷ったが、リーが右腕なのであれば、それに倣うのも、悪くない。
「王のお心のままに」
せめて、この期に、艶然と笑みたいと思った。王の好む「ハレム一の微笑」を浮かべていたいと。
 
王は剣を肘のほんの先に当てた。そのまま動かさない。
微かな身じろぎに、肌が薄く切れた。痛みはない。ぷっくりとそこから朱色の血が浮かび上がった。
次の瞬間、剣はわたしの腕から離れた。王がそれを力任せにあちらへ放ったのだ。窓辺に飾られた見事な壷がそれで割れ、耳を破るような大きな音が起こった。その音を聞きとがめた近侍の者の声が続きの間を越えた扉から小さく聞こえた。
異変の兆候をうかがうその声に、王は「下がれ」と大声で返した。
わたしはかざした腕のやり場をなくし、だるくもなっていたことから左手で胸に抱いた。腕を斬るような気配が、もう王から消えているのも察していた。怒りは、剣を投げつけることで霧散させたのだろう。
恐ろしさが、そこで不意に弛緩した。
少しだけ切った右腕の傷を舌で舐めるわたしへ、背中を向けた王が渇いた声で問うた。
「あの男が恋しいのか?」
 
え。
 
舌打ちの後、王の言葉が続く。それは耳に慣れた罵りのそれではなく、苛立ったきつい声ではあったが、紛れもない問い掛けの形をしていた。
「腕を失くしてでも、あの男に殉じていたいのか?」
「そんな…」
「まだ忘れ得ぬのか?」
わたしは王の紡ぐ問いに、言葉も返さず、耐えていた。駆け出しその背に縋りたい堪らない衝動を、こらえていたのだ。
王は、わたしの過去を、恋を妬んでいる。リーとのあのまばゆい恋情を、王は妬いているのだ。
「さすがのお前も、もう懲りたのではないのか」
硬い背に浮かぶ色は、いまだ冷たい。声音も鋭く厳しい。言葉尻の激しさに、緩んだ恐怖心をくすぐられそうになる。
けれども、
けれども、責めるに似た問いの声が放つ、その裏腹な甘さを、わたしはもう嗅いでしまっている。
うっかりと空いた、珍かな王の隙だ。
そのあえかな隙が、わたしをある答へと導いた。
こんなとき、つながるように、しんみりと王の行動の意味を悟るのだ。甘やかな休暇を過ごした離宮での日々を、王はいきなり破り捨てて去った。それを味気なくつまらなく、冷たい王の心の内だとわたしは辛く思った。捨てて置かれるその寂しさに耐えかね、こうして王宮へ再び戻っても来た。
 
王は、愛するわたしから逃げたのだ。
 
甘美な愛に溺れていく怠惰さを嫌ったのか、一人の女の愛に縛られる窮屈さを忌んだのか、愛の持つ奇妙な恐ろしさを感じたのかもしれない……。そのすべてかもしれない、一つかもしれない。それらに近いいずれかかもしれない。
王は、愛を認め、その対象であるわたしから逃げたのだ。
なぜなら、彼を名で呼ぶわたしを、これまで咎めもしない。好きにさせている。王の名を口にする、他の誰があるというのか。その名で偽ったことを強く咎めたが、名を呼ぶことへは触れていないではないか。
ふっくらとした歓喜のふくらみ。そして、目覚めのようにそのことに気づいた自分への消えない驚き……。
それらの向こうに、凛とした背を向けたままの男へ、生の愛おしさを見出している。
「カイサル…」
わたしはようやく、歩を踏み出した。ちくんと足裏を刺す硝子の破片を感じたが、確かめもせず、彼の背を後ろから抱きしめた。
「カイサル」
わたしは、王の滑らかに締まった背に頬を当てた。つい先ほど彼にぶたれた頬は、触れてじんと痛んだ。
黙したままの彼へ、肌に唇を寄せささやいた。
王が望むのであれば、腕などでなく身も心も、命も捧げる、と。
「あなたの女ですもの。あなたに囚われた、あなただけの、サラ」
背から回した指先は、王の胸をなぜる。その指先を彼の手が捉えた。固く握り、指の腹に彼の爪が痛むほど食い込んだ。
「何がほしい? くれてやる」
彼の耳に慣れた冷えた声に、わたしは涙が込み上げるのを抑えられない。冷たい声音で、こんな言葉を今突きつけながら、彼の腕は、わたしを激しさと絶えない強さで熱く抱くのだ。求めるのだ。それをつぶさに知っている、身体が覚えている。
嬉しいのに、満ちているのに、悲しいかのように涙が瞳をぬらしていく。
自分でも知らない涙の色に、瞬時わたしは戸惑った。そして女の湿っぽい涙を厭う王を憚り、彼の背に涙を押し付けて紛らそうとした。
「何も…、要らない」
涙に彩られた声、その声に気づくのか、王が身を返した。外れた指で、わたしはすぐに得体の知れない涙を拭った。
王の指がすぐさまわたしの顎をつかみ、上向かせる。細めたその瞳に、こちらをうかがう気配以外の色は見られない。
「強欲なハレムの雌犬にしては、欲がないではないか。今は聞いてやる、言え」
止めたはずの涙が王のからかいをにじませる声に、またあふれる。もう止めようがない、隠しようがない。
露わな涙にぬれる瞳のまま、咎めずわたしを見つめる。怖じず、代わりにその瞳に甘えるように、わたしの唇が開く。
「いつまでも、わたしをサラと呼んで」
 
他の女を抱いてもいいのだ。
冷たくても、ひどくてもいい。
その胸に、永くわたしだけを留めておいてほしい。
 
軽い嘲笑の後で、王の諾の声が返った。
「易いことだ」



             

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