HALEM

24
 
 
 
「好きに過ごせばいい。リーの与えられなかった自由とやらを、わたしがお前に与えてやる」
 
その言葉を潮に、王はわたしを離し、背を向けた。一瞬虚をつかれ、その間にわたしと王との距離は広まった。彼の背が控えの間に消えたところで、「あ」と我に返り、わたしはその辺りの落ちた衣を拾い、急ぎ自分の身体に巻きつけた。
ほどなくして、室内に人が入り出す。それは王の朝の衣を整える女官であったり、身辺に控える小姓であったりした。彼の王としての時間がいきなり始まり、思いがけない闖入者らのせいで、せっかくの二人きりの時間は、果ててしまう。
妙な目をこちらに向けながら、それぞれ淡々と仕事を進める彼らの傍らで、わたしはどうしても去りがたく、寝室に突っ立ったままでいる。
このままでお終いになってしまうのが、堪らなく嫌だった。
王はわたしに、自由を与えてやると言った。おそらく彼に譲歩できる、ぎりぎりの寛大を見せもした。それは紛れない、わたしへの愛の一端ではあろう。
 
「お前を、ただのハレムの女にしておきたくないのだ。離宮でわたしを待つ暮らしを与える」。
 
そう、王は言った。
けれど、わたしとの間に置く、不自然で迂遠な距離がわたしを落ち着かなくさせるのだ。
どうして側に置いてはくれないのだろう、ハレムでもいい。王の側にこそわたしはありたい。ハレムの女であろうとそうでなかろうと、その差異に、今意味などない。
自分の手にしたものに、まだしっとりと心は潤んでいるのに、もう満ちているのに……。
言葉や優しさ。王の示した愛のしるしは、わたしの手足にやんわり枷を付けるのみに近く、そしてくれるという「自由」は、ただ漠然と大きいばかりで、その内実が量れない。
そのことに、わたしは焦れていた。彼の存在を欠いた、孤独で虚ろなだけの自由など、ほしくはないのだ。
どれほどの後か、湯殿から出た王の姿が、控えの間の大鏡にちらりと映った。人があるが、構わない。わたしは掛けていた寝台から腰を上げ、王の側へ向かった。
王は既に衣を纏い、手首に差し出された腕の飾りを通しているところだった。
「剣を」
部屋の奥を顎で示した彼が、その仕草に、ちょっと離れ後ろに立つわたしの姿を認めた。黒い瞳は、意に沿わない胡乱気なものでも目に入れるような視線を流した。
「まだいたのか」
それだけで、彼はあっさり顔を戻した。小姓の青年が見つけ出した剣を手のひらに受け取り、非常にしなやかな手つきでベルトの腰に挿した。夕べ派手に壷を割り、わたしの衣を悪戯に裂いた剣を。
あまりに素っ気なく扉を出て行こうとする彼へ、堪らず、わたしは踏み出し、その肩の衣を手につかんだ。
「何だ」
苛立たしげな声が返ったが、かつてあったように、彼はわたしの手を厭わしげに払わなかった。それに気をよくし、口を開いたが、何を伝えたいのか、上手く言葉に上らないのだ。結局、弟のカノンのことなどをこんなとき場違いに持ち出し、たどたどしくその礼を述べた。
王はそれを終いまで聞かずに遮り、「その衣装はよくない。別な物を用意してやれ」と、控える小姓に声を掛けた。
「薄紫のものを」
王にはこういうことが間々あった。好みの女を、好みの形に飾らせたがる癖がある。
その奇妙な優しさに乗じて、わたしは言葉を続けた。王宮にいたいこと、このまま離宮に戻りたくはないこと……。
「わたしをハレムに…」
「くどいぞ、サラ」
厳しい声で王は再び遮り、今度はこちらへ振り返った。その動きに、わたしの衣をつかむ手がするりと落ちた。頬を張るなど、折檻を受けるのではないかと、一瞬身構えた。王が女の意志を問うことなど、ごく稀だ。
けれども彼は手を振り上げず、ちらりと寝室の奥を指差し、
「のぼせるな。あの露台の風に当たり、頭を冷ませ」
柔らかに近いほどの声音で告げた。それだけを残し、王は振り返らず、扉を出て行った。
人々も下がり、人気のない寝室を、わたしは落ち着かず、囚われた獣のようにうろうろとした。やはりまだ、下がりたくないのだ。また足裏を軽く硝子片で切り、舌打ちが出る。爪先立ち、硝子片を避け、わたしは露台へ出た。ここまでは硝子が飛び散ってはいないから。
露台からは王宮の広大な庭園が望める。緑を付け茂る樹木、何かの実をつけているもの、花を咲かせているもの、様々だ。またそれらの木々に遊ぶ小鳥の姿も目に映る。愛らしい朝の声をあげ、飛び交っている。
当たり前にまばゆく、美しく、そして新たな一日の始まりのある風景。
そんなものらを目に映しながら、わたしの頭は夕べの出来事をつらつら辿っているのだ。王に愛されていると、確かに知った、あのめくるめくような陶酔の時間と、それらの中の忘れ難いある場面、王の残した胸の弾むような仕草を……。
追想にように、思い描いている。
朝の空気はしっとりといまだぬれ、その風も優しいほどに冷たく心地がいい。わたしは欄干に身を預け、真新しい朝の風に髪と頬をなぶらせていた。
甘やかで陶然とした宵はとうに明け、明るい日が辺りを照らしている。
次はいつ、王に抱かれるのだろう。
いつ、わたしを愛してくれるのだろう。
手応えのない問いだ。答えも、その意味も、王にしかわからない。
その味気のなさに、唇を噛む。重い吐息が唇からもれた。待つばかりの時間は慣れたはず、期待に縋らない術を、わたしは身につけていたはず。
でも……。
約束のない、うっかりと空いたおかしなほどの自由に、わたしはこんなにも焦れているのだ。
ふと、目を落とした先に、白いあずま屋が目に入った。華奢な形をした椅子と卓子もあり、今そこには猫が寝そべっているのが、小指の先ほどに小さく見える。この位置から下の庭園を眺めることなど、ないことではないが珍しい。しばらく猫の様子を、何気なく目で追う。ころりと猫が、寝返りを打つかのように身をよじらせた。
 
え。
 
猫の姿ではなく、その寝そべる卓子、椅子の具合、またあずま屋の設え、それらにぴたりと過去の記憶が連なってつながった。
眼下にあるのは、リーとよく待ち合わせた場所なのだ。
あの梢と可愛らしい屋根が作る影に隠れ、わたしたちは秘めやかに話し、指を絡め、または口づけた……。瞳を閉じれば、すぐにその光景が甦るほど鮮やかに、わたしは覚えている。そのときの風の甘さまでが、今もぷんと鼻の奥に匂いそうなほどに。
こんなにも露わに、この位置から見えることに、少なくない驚きを持った。下のあずま屋からは、木々も屋根も視界をほどよく遮り、中のわたしもリーも、他愛ない密室にいると感ぜられたはず……。二人の時間に夢中でいられた……。
 
「のぼせるな。あの露台の風に当たり、頭を冷ませ」。
 
不意に先ほどの王の声を思い出した。珍らかなくらいに、その声音は柔らかく穏やかであった。あの場に不似合いなほど……。
 
まさか。
 
わたしは改めて、眼下のあずま屋を凝視した。猫がのんきに大きな欠伸をしているのが見えた。その回りを掃除夫が清めている。
「まさか……」
わたしの発する言葉の終わりを待たず、また王の柔らかな声が、耳に繰り返し甦るのだ。「のぼせるな。あの露台の風に当たり、頭を冷ませ」と。
なぜ、あのとき敢えてあんなことを口にしたのだろう。彼らしくなく、あまりにもやはり場違いだ。そして、どうして「この露台」なのだろう。
なぜ……?
瞬きをも忘れ、梢の下へ瞳を注ぐわたしは、問いの答えを既に捉えている。ただ、事実として受け入れたくないと、それと認めることを心が抗うのだ。
 
王は、この露台から、わたしとリーを見ていた。
 
それは、両頬を思い切り張られるほどの驚愕だった。驚きに脚が震え、それと共に手指は欄干を滑り、力なくわたしは、露台の床にぺたりと横様に座り込んでしまった。
いつからなのだろう。
何度目にしたのだろう。
そして、今、その事実をわたしへ知らせる彼の意図は何なのだろう。
きつく目を閉じ、浅い呼吸を繰り返す。変に胸が震える。
探ることを避けたい王の真意を、わたしは愚かにも手探りに見つけてしまったような気がする。
 
王は、まだわたしを赦してはいないのだ。



             

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