HALEM


4
 
 
 
うたかたの午睡に気持ちがいいはずの時間は過ぎた。
夕暮れが迫り、窓の日除けのレースが風にふわふわと舞うように揺れている。わたしはそのレースの動きを漫然と目で追い、寝台に身を横たえたままでいた。
婆やが盥の水をぶちまけたお陰でぬれた物とは、取り替えられてあった。乾いた、肌に滑りのいいその場所で、わたしはただ、ぼんやりと婆やが毒づいていった言葉の数々を、繰り返し反芻していた。
『目を覚ましな、サラ。血迷うんじゃないよ』と低くどなり、婆やは『ここを出て、どう生きていけるんだい? ハレムの女が』と、くどく念押しのように言った。
皺の寄った、枯れたあの顔に見せた涙は、わたしへの恫喝なのだろう。自分が取り仕切るハレムで、勝手は許さないという、脅しに思えた。
なかなかに頭を去らないのは、それらがわたしの膨らんだ希望に傷をつけたように思われ、不快だったからだ。
リーに会いたいと思った。また彼の声で、はっきりとわたしに、もう一度告げてほしかった。ここを出るのは容易いと。それから、彼の国へ渡った後の、想像すら及ばないあちらの暮らしのことを……。
ブルーのまなざしと共に、言葉でほしいと願った。
そんなことをつらつらと、答えも求めずに思い続け、しんなりと寝台に横たわったままでいた。望むものの何もないハレムではあるけれど、わたしはこの柔らかな寝台だけは好きだった。
幼いままハレムに入れられ、月日が過ぎた。気づけば、棒きれのように痩せてばかりいたわたしは、すっかり女の身体になっている。その時間の中で、多くのものをわたしは、寝台の上で越えてきたように思うのだ。
何かあれば、いつもわたしはこの上に身を投げ出し、素肌で包まる。今ではもう感じなくなった恐ろしさも、悲しさも、そうしていれば癒されるような気がしたから。外の者にはわからない、ここ独特の閉塞感も、忘れていられた。
 
そして、寝台は王に犯される場所だ。
 
堪らなく嫌な気分が胸に満ち、わたしは小女を呼ぶと、どうしても具合が悪いから、と伽を辞退する旨を王の宮殿に使わせた。ほどなくして、婆やがやはり現れ、ぶっきら棒に仕度を急いた。
「王のお褥を辞退するなんぞ、随分偉くなったもんだね。サラ様は、さすがだよ」
痛烈な嫌味にも、わたしは返事もせず、あちらを見てばかりいた。
嫌なのだ。王の好むよう着飾りたて、王の宮殿につながる伽の回廊を、こそこそと歩んで行くことが、この日、とても惨めに思えたのだ。
それが仕事だと、わきまえてもいる。そのために、わたしたちはハレムに飼われているのだと、重々承知してもいる。
でも、嫌だった。本当にねつ気でも上がったかのように頭が重くなった。
声も出さずにいると、婆やは最前水をぶっ掛けられたことで、わたしが彼女へ気分を損ねているのかとも思ったのか、声を幾分か和らげた。
「辞退するのはいいけどね、急な月のものだとでも、あたしが何とでも取り繕える。けどね、そうしたら、別の女にきっとご指名がくるよ、それでもいいのかい? この間、久方ぶりに伽に上がった、あのレッジーナなんざにお声がかかれば、またこれ見よがしに鼻息を荒くするんじゃないかい?」
それでも手で払うばかりで、いると、婆やはわたしへ身を寄せ、一段声を落とした。吐息から煙草の匂いがした。
「心配しなくとも、あの件はあたし一人の胸に収めていてやるよ、安心おし。あんたは早くおかしな夢から覚めることだね」
などと、捨て台詞のように恩着せがましく告げると、大袈裟なため息を一つ残し、部屋を出て行った。
扉を開け放した窓からは、露台に出られた。各々の女の部屋は露台でつながっており、宵の涼しい中、そこで涼をとるのか、別な女たちの話し声が小さく届く。
窓のレースが、風に絶え間なく踊る。
暑さが去り、一日で一番心地のいいはずの、柔らかな宵の始まりだ。ハレムの女たちは、好き勝手に夕餉をとり、下らないことを喋り合う。または無駄に身を構ったり、その日何度目かの湯殿で飽きるまで寛ぐ……。
甲高いほどの女の笑い声が上がり、それが風に乗り、わたしの耳まで届いた。何が楽しいのだろう。
特異な境遇でここに集められた女たちも、慣れるまでは泣いたはずだし、恐ろしがったはずだ。わたしもそうだった。次第にそれが豊かな生活に薄れ、怠惰に流されていく。ここでの時間は驚くほど緩やかで、あっけなく急でもある。
どうしてだか、泣きたくなった。
泣きながら、ふと思った。ハレムの百人を下らない女たちの中で、わたしのように自室で塞ぎ込んでいる者が、どれほどあるのだろうか、と。
いつからか慣れか諦めかで、未来や過去を曖昧にし、考えなくなったはずが、甦ることがあるのか、それで悲しくなることがあるのか、と……。
こんなことを思うのは、やはり昼の婆やの呪わしい言葉が響いているのかもしれない。嫌な婆や。放っておいてくれたらいいのに。
 
「サラ」
 
声がした。わたしは男のその声に、頬の涙を指で拭った。身を寝台から下ろすより早く、男はわたしの腕をつかんだ。そのまま引き寄せる。
「あ」
ハレムに自由に出入りが叶うなど、王自身でしかない。気紛れだろうか、こんなところにまで足を運んでくるなど、あることではない。

王は素肌の胸に、黒いケープをを肩から長く流していた。同じく黒のドレープの寄った下衣の腰には、ベルトが巻きつけられ、そこには金銀に彩られた剣の鞘が下がるのが見えた。

サンダルの足先を、片方、王は寝台に乗せた。
「具合が悪いと聞いた。……嘘か?」
「いえ…」
わたしは顔をうつむけ、じっとそのままでいた。叱られると思った。自分勝手に伽を辞退した、罰を受けるのだと思った。
「なら、どうなのだ?」
問いつつ、顔を上向かせる。わたしの頬に残る涙を見て、王は目を細めた。彼の前で泣くのはいつ振りだろう。
女の涙を見るのを、王は嫌う。そう教え込まれ、わたしは泣けなくなったのだ。痛くても、辛くても。それが尾を引き、自分ではない女が伽に上がっても、泣きたくないと思うようになった。たとえ一人のときにでも、泣きたくない。
それは矜持でも、見栄でも何でもない。縋りたくなかったのだ、気紛れな王の寵愛に、縋ってしがみ付いていたくなかったのだ。
「なぜ泣いた?」
わたしは瞳を逸らせた。ハレムの中で特別な部類に入る女には、許される王への甘えがある。返事を焦らす、瞳を避ける。ささやかな意志の表れ。小さな駆け引きめいたもの。
わたしはそれが多分上手いのだろう。中にはそれで王の苛立ちを買い、伽の最中、宮殿から下げられた女もあったという。わたしはいまだ一度も、そんな失態はない。
微かな笑みが、王の唇からもれた。
ほら。
「機嫌を損ねているのか? 他の女を抱いたから。そうなのか?」
「知らない…」
「そうでなくては、ハレムの意味がない」
「レッジーナはいかがでした? わたしよりお好み?」
王は少しだけ甘く名を呼び、わたしを抱き上げた。
「だから、迎えに来た」
焦らすな、とささやく。
王のまとう衣にわたしはぴたりと頬を寄せた。
彼は部屋の出入り扉へ向かうのを、わたしは敢えて、やんわりと、
「あちらから」
と、指で露台を指した。
王は返事もなく、身体をそちらへ向けた。開け放した窓から露台へ出ると、そこには女たちの寛いだ姿が多く見られた。王の姿に気づくや、すぐに跪く。その腕にわたしの姿があることを、認めただろう。
「サラよ」
と声がした。
興味と嫉妬の入り混じった視線。それが頬に、射るように浴びせられる。涙はそれで乾いた。
露台から階段を降り、泉の前の広場へ。そこにも宵を楽しむ女の姿が多かったが、やはり王の姿に跪く。花が強い雨に萎れるように。腕のわたしの存在を認めながら、嫉妬にきらきらと燃えながら、彼女たちは跪く。

王のケープが、甘い夜風にふわりと流れる。
「サラよ」
「まあ、王御自らハレムへ…」
「まさか」
「ええ、サラよ」
また声が幾つか聞こえた。羨望の声だ。
それは心地よく耳に届き、わたしのどこかをほのかに潤ませた。すぐに消えるごく儚い優越感と充足感だ。
本当に、淡い。
広場を抜けると、もうそれは泡のように、わたしの胸でぷちんと弾けて消えた。
「サラ、これで、機嫌が直ったか?」
王は腕の中のわたしに問うた。ハレムの女たちに王の寵愛を見せ付けた、わたしの浅はかな虚栄心を、おかしがっているような、そんな声だ。
それにわたしは声で返さなかった。肩から落ちた王のしっとりとした髪筋を指に絡め、少し噛んだ。
 
王の寝室は、いつも甘い香が焚かれていた。

情事の後、汗にぬれた王の背を、傍らに侍り、わたしは盥の水を浸した布で拭う。鋼のように背は引き締まり、艶やかにぴんと張っている。
ぬるまった布をまた盥に浸し、冷やす。
王はさせるがままに、寝そべり、杯の酒を飲んでいる。
黒髪をゆるく手で束ね、首筋を拭った。彼の手が杯を少し掲げた。杯が空いたのだろう。それで酒を注ぐため、わたしは酒の瓶へ手を伸ばした。その手首を王がつかんだ。
「あ」
ぎゅっと力がかかり、骨が軋むような痛みが走った。
「リーが近く国へ帰る」
「え」
痛みが表情に出そうになるのを堪えた。堪えながら、「どうしてわたしに?」と問うた。
王はわたしをあっさりと組み敷いた。両手首を寝台に縫い付けるように押さえ、膝で脚を割った。
ランプに灯された灯りが、王の顔を浮かばせる。日の下では秀麗なそれは、こんな二人きりの閨の時間、鼻梁の辺りに影ができ、非常に精悍で、獰猛な顔つきになるのだ。
襲う獣のようで、怖くなって、その分ほんのりと、いつも身体は求められて逆に昂ぶる。
「お前を美しいと褒めていた。自国にもあんな女はいないと」
「…さあ」
わたしは、触れ合う脚を擦り合わせ、徐々に自分から開いていく。
「ねえ」
わたしは自分から口づけをせがんだ。
止めてほしかった。リーの話を聞きたくなかったのだ。こんな場所で、こんなとき。
「サラ」
唇が重なり、少し深まれば、すぐに貫かれた。
「サラ」
苦しくもあり、女らしい歓びもある。それらに自分を泳がせながら、わたしは王の背に腕を回した。しっとりと汗ばんでぬれた背に指を這わせる。
 
「わたしの子を産め」
 
王の声がした。
わたしの開いた唇からは、意味を成す言葉を発しない。吐息と、何か身体が堪え難く上げる、ただの音だ。
首を振り、髪を乱し、悦楽を泳ぎながら、本当は自分に溺れていた。
迷っていた。



             

HALEMご案内ページへ


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪