HALEM

5
 
 
 
その宵に、わたしは新しい衣装を身に着けた。身体の線に沿う紫の衣は、腕が透け、そして腰の辺りから切れ目が入り、動かし方によっては脚が露わになる。
髪を長く垂らし、手首に銀のリングを幾つも重ねた。これらは軽く手首を返すときなど、何気ない仕草に、微かな金属の音を立て、それで手指がひどく華奢に可憐に見えるのだ。
以前、リーがこの飾った手首を握り、わたしを引き寄せたことがある。
「何もかも、嘘のようにきれいだ、サラ」
そう、ささやいてくれた。気温だけのせいではない、抱きしめる彼の額の汗。熱のある瞳、ブルーの瞳はうっすらと潤んでさえいた。それらは、間違いなく彼の抑えたわたしへの欲望の証だろうと、そう思った。
そんなことに、心が躍った。
早く、彼にわたしをすべてあげたいと思った。肌も髪も、唇も、触れられるすべてを。
 
宵闇が濃くなった頃合から宴は始まった。ハレムからは王の気に入りの女たちが、列を作って伺候した。
宮殿の泉のある大広間には、たくさんの人間がいた。臣下の多くが詰め、その群れの間を、酒や食事を運ぶ給仕が走り回っている。輝いて光る大理石の床の厚く敷いたラグの寝椅子に、銘々人々は寛いでいた。
楽の音が響き、盛んに焚かれた照明がきらきらとあたりを照らしている。つんと鼻腔を刺激する甘くきつい香りが、風に乗りやってきた。
中央の座に王の姿があり、当たり前に、わたしはそのすぐ傍らに侍った。癖のように、後ろについた王の手に、自分の指を重ねる。
そばの女たちが、挑むような粘ついた視線を寄越したが、気にも留めなかった。
この席がほしいのなら、ハレムへ王自ら迎えに来てもらえばいいのだ。それほどの重い寵愛を見せてくれたのなら、すぐにわたしは誰にだって席を譲る。
けれども、無理だろう。酷薄な王は、幾人もの女に甘えを許すほど優しくはない。
王の特別な寵愛を感じ始めた頃から、自然に身に着いたわたしのこの神経の太さ。それを王は疎ましがる様子もなく、また咎めることもなかった。
王の傍らのこの席からは、彼の横顔越しに、ちょうどリーの姿が見られた。同じような洋服姿の朋輩と何かささやき合っていたが、ふと、わたしを見た。
 
視線がしばし絡まった。
 
奏でられる楽や人々の声、女たちの咀嚼する物音。聞くともなしに耳に流していると、おかしな光景が始まった。余興か、女官たちがリーら異国の客人をしきりに踊るよう誘っていた。そもそもこの宴は、明後日帰国する彼らの歓送のためのものだった。
誘いに乗り、一人二人腰を上げたが、リーはかわゆいほど困ったような顔をしてそのままでいた。それでも立ち上がると、女官の手を断り、王の前に進み出たのだ。
片膝をついて跪き、こう彼は言った。
「陛下、こちらのレディに手ほどきをしていただきたいのですが、お許し願えましょうか?」
それはわたしのことだった。つきんと刺すような高鳴りで胸が痛んだ。
王はちらりとわたしを見、顎でリーをしゃくった。
「相手をしてやれ」
わたしはリーの手のひらに自分のそれを預け、立ち上がり、踊り子たちが最前まで踊っていた中央へ向かった。
楽の音が緩やかになり、声のきれいな歌い手の声がそれに混じった。目の前にリーがいる。わたしの腕をやんわりと取る彼がいる。
音に合わせ、わたしは身体をしんなりと揺らした。
「こうして」
「君のように上手くはいかないよ」
「できるわ、ほら」
わたしは彼の腰を両手で抱いた。
思いがけず身体が密着し、それにリーは苦笑して、やっぱり困ったようにしている。その彼に、わたしの唇に知らず微笑が浮かぶ。
「サラ…」
「あなたのお友達は上手よ、見て」
少し先に、リーの朋輩が若い女官と身体を寄せ合い、楽しげに踊るのが見えるのだ。その仕草に、既に男女の情事を持った間柄なのだろう、と何となく感じた。
「もう僕は懲り懲りだよ、勘弁してほしいな」
曲の終わらない間に、リーが首を振りつつわたしの腕を解いた。空いた手で、彼はジャケットのポケットをちょっと探っていた。ほどなくして、何かを取り出し、すっとそれをわたしにかざした。
「宴の前に見つけたんだ。君に…、きっと会えると思って」
それは白い小さな花を幾つかつけた枝だった。手のひらほどの枝を、リーはわたしの左の耳にすっと挿した。
「ありがとう」
「明日日暮れに、また泉の前で、待ってる。出国のことを話そう」
「ええ」
こんなやり取りは、賑わいにさっと掻き消えてしまう。誰にも聞かれない。
リーと別れ、また席に戻った。その頃には背後でまた、楽の音と踊り子たちの艶やかな踊りが始まっていた。
王の命で、ハレムの女たちが数人、踊り子に和して踊り出す。その扇情的ですらある悩ましい仕草に、男たちの目はきっと縛られてしまうのだ。
わたしは踊りに加わらず、果実をかじっていた。噛み切った甘い果肉を口の中で転がし、その甘さに、リーのくれたキャンディーというお菓子を思い出す。
また意図もせず、彼と瞳が交差した。長くは留まらず、刹那解けてしまう視線の絡まり。そんなことをわたしはちょっと官能的に感じ、彼のこちらを見る瞳の熱にうっとりとしていたのだ。
楽の音が高まり、歌い手の声が張りを上げた。女たちが胸を反らし、または髪を揺らし踊っている。
「サラ」
と、不意に王がこちらも見ずに読んだ。冷たい声。何をささやいても、きんと冷たく耳に届く声をしていた。
「お前はなぜ踊らない?」
踊らない女は他にもある。わたしだけが責められるものではないはずだ。
「喉が渇いてしまいましたもの」
「自分は、特別だ、とでも?」
王の声は冷たいが、怒りはない。わたしの気持ちを揺さぶって、楽しんでいるだけなのだ、いつもそう。
「そうではないのですか?」
それに応えは返らなかった。王は代わりにわたしの腕を強く引いた。彼の膝に身が乗り出し、まるで倒れ込んでしまう。王は小さく、「乗れ」とささやいた。
戸惑う間もなく、強引に腰を抱かれ、わたしはだらりと脚を投げ出した格好で、王の膝に乗せられた。衣から肌がくっきりとのぞいていた。
気紛れに、王は優しさにほんのり似た、傲慢な寵愛を見せることがある。人々の前で女の腰を抱く、引き寄せる。抱き上げる……。
それを受けるとき、わたしはどこか女らしい部分で、微かに嬉しかったはずだ。誇らしかったはず。けれども、今は居心地の悪さを感じるだけで、喜びがない。生まれない。
リーがほんのそばにいるからだ。
顎を持ち上げ、そのまま王はわたしに口づけた。
長く、長くそれは続いた。
頭の後ろ、その辺りが変に熱くなる。リーの視線を感じるからだ。リーはきっと瞳を見開いて、わたしと王のこの様を見つめているだろう。きれいな、猫のようなブルーの瞳で。
何を思うのだろう。
何を感じるのだろう。
知りたくて、知らない方が、わたしが辛くない事柄たち。いやらしいこと、淫らであることや、抗えない身ながらも、受け入れてしまうわたし……。
慣れてしまったのだもの。覚えてしまったのだ。ハレムの年月に、染み込んでいった王のすべてを。
「よく似合う」
「え」
そういえば、今宵の衣装は王からの贈り物だった。大きな手のひらと長い指が、髪や肌に降りた。くしゃっと左の耳がその手の中に入った。
衣装の礼を口にしかける、短いわたしのその言葉を遮り、王は低く命じた。「後で来い」と。
「抱いてやる」
わたしはしどけなく頷く。それしかない、それ以外の答えを知らない。だって、ハレムの女であるから。そのために、生かされている女だから。
「どけ」
いきなり王は、邪魔物でも払うようにわたしを膝から払い落とした。わたしは床に転がるように落ちた。膝と踝を大理石の固い床に打ち、しばらく痺れるように痛んだ。
女たちは、目障りなわたしの王より受けた無様に、声を憚らず笑う。よほど愉快なのだろう。
傷みの残る脚で、わたしは立ち上がった。もう下がらねばならない。伽の仕度があるから。湯殿に入り、髪をすく。衣装を替え、化粧をし、香水を塗りつけるのだ。
わたしの足もとに、リーの挿してくれた花の小枝が落ちていた。王が乱暴に耳をかきやったとき、落ちたのだ。屈んでそれを拾うと、耳に挿すことは止め、胸の谷間に挿し入れた。
リーの瞳を、今は見たくなかった。
こんなわたしを、彼に見られたくなかった。
 
「明日日暮れに、また泉の前で、待ってる。出国のことを話そう」
 
その言葉だけが、ささやかな明かりを胸に注いでくれた。



             

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