HALEM

6
 
 
 
時間はひどく緩やかであり、それでいて瞬く間に過ぎていく。あたかも、砂時計の砂粒を眺めるかのように、じりじりと過ぎ、そしてあっけなく期待したときはやってくるのだ。
 
宴の宵より王の伽に上がって、身体が空いたのは翌日の昼頃だった。まばゆいほどに辺りは既に明るく、わたしは寝室に一人でいた。とうに王の姿はない。
まだ朝であった頃に、彼が身を起こしたことに、わたしは気がついた。こんな朝は大嫌いだ。疲れと眠さで物憂く、とても気だるい。どこか増長した怠惰な気分で、わたしはそのまま眠ってしまった振りでいた。
機嫌が悪ければ、王は女のそんな仕草を許さない。一言もなく、頬をはたき、髪をつかみ、乱暴に寝台から引きずり下ろすだろう。跪くことを求める。
そうはならないという自信が、わたしにはあった。また、そう振る舞われても構わないという、あきらめたような思いもあった。
果たして王は、もうわたしへ振り返ることはなかった。わたしは安心して瞳を閉じ直し、眠りに入ったのだ。
たっぷりと眠り、起き出せば、早々に宮殿を辞さなくてはならない。王の宮殿は、伽の用がなければハレムの女が長くいられるところではないから。寝室といえども。
薄絹で身を覆うようにして隠し、わたしは扉から出た。庭園へ開け放した通路には、鳥の声と、明るい緑の日差しが届いていた。
肌が汚れている気がする。
早く清めて洗い流してしまいたい気持ちと、どうしてかこのまま先ほどの寝室に戻り、再び寝台に身を横たえたい思いが、胸の中で混じるのだ。
わたしはそのまま歩を止め、来た道を振り返った。
どうしてだろう。
裸足の足先が翻し、気づけば自ら閉じてきた寝室の扉をもう一度開けていた。
何がしたい訳でもない。王がいる訳でもない。去り難い何かが、わたしのまとうヴェールの裾を、まるでちょんと、ちょうど引くかに思えたのだ。
開いた扉の向こうには、白いお仕着せの衣装の女官らがいて、部屋を整えていた。彼女らは戻ってきたわたしを、妙な異物が現われた風な、ちょっと蔑む目で見た。
無言のまま告げている。「ハレムの女が、今頃何の用だ」と。
寝台のシーツは新たに取り替えられていて、わたしは真っ直ぐにそちらへ歩を向けた。柔らかなそこに腰を下ろすと、こちらを見ては、ひそひそと互いに目交ぜと言葉を交わし合う女官たちに命じた。
「湯の用意をして。湯浴みをしたいから」
ぼやぼやとしている女たちに、わたしはもう一度告げた。
「早くして、わたしは湯浴みをしたいのよ」
一人がもじもじと動き出し、もう一人がそれに倣った。残った一人が、わたしへ尖った視線を向けながら、花瓶を抱えている。
「喉が渇いたわ、甘い飲み物を持ってきて。お酒の入っているものは嫌」
「…は、はい」
彼女と入れ替わりに、湯の用意に女二人が部屋に戻ってきた。露台に出られる開け放した扉の前で、わたしは衣を落とした。背中に視線を感じたが、知ったことではない。見たければ見ればいい。
身体を流し、湯がぬるまったと、二度替えさせた。女たちは「はい」という返事の他、何も言わなかった。
済めば、ぬれた身体に拭う衣をまとい付け、暑くなり出した風を浴びていた。衣が張り付いた肌は、すぐにさらりと乾き、ぬれた髪がしっとりと、それでも風になぶられ踊りつつある。
ぶらぶらと歩きながら、露台で果実を挟んだパンを食べた。そこからは、木々の茂る庭園が近く、その向こうには白い宮殿の金の飾りが望めた。
緑の風。鳥のさえずり。日暮れ前に、リーと約束した落ち合う場所が、こんなところから見えるのだ。
彼と会えるほんの先の未来。そして、ちょっとの危険は伴うかもしれないが、賭けてみる価値の十分ある、ハレムからの逃亡。
どうなるのだろう、その先は。
リーとの未来、わたしの知らない、国。こことはまったく違う。自由で、ぐっと過ごし易い気候の国だ。
以前、企てに気づいた婆やがわたしを責めた。「血迷うんじゃない」と、「ハレムの女が、ここを出てどうやっていくのか」と。更に、肌の色も髪の色も違うと言った。認められる訳がないと、なぜか泣きながら罵った。
既にリーの差し出す手を取ってしまったわたしは、彼の告げるまるで夢のような輝く将来と自由に、心を躍らせ、ときめいている。
でも……。
「あ」
不意に、自分がなぜ今もこんな場所に留まっているのか、今頃になって気づいた。
わたしは、怖いのだ。リーを信じてはいる。彼の愛情を疑いなどしない。二人の未来はきっと叶うのだとは思う。
けれども、やはりわたしには怖いのだ。彼とのこれからではなく、ハレムの外の世界が、どこかでやっぱり怖いのだ。
パンを咀嚼し終え、手と唇の屑を払った。
寝台に戻り、既に人気のない部屋で、わたしは横になった。大きな大きな寝台。それを取り囲む天蓋からのヴェール。
ここで何度王に抱かれただろう。甘い思い出などなく、恐ろしさに慣れれば観念と、ちょっと傲慢な気分を生み出す場所だ。そして、ここに組み敷かれているときだけ、下賎な出のハレムの女といえど、ひととき国で一番の選ばれた特別な存在になるのだ。
その意識がハレムの大きな麻薬であり、女たちの胸をどこかで蕩かしてしまっている。
尽きることのない奉仕と、束縛。閉塞感。そして老いることへの恐怖。婆やのようなごく特殊な者以外、老いればハレムにはいられない。幾ばくかの金を頂戴し、出て行かねばならない。
わたしたちは、何も知らないのに。容赦なく、用済みの女は切り捨てられる。果てのない自由が待っている。
けれども、そのとき迎える自由と、今、リーがわたしに与えてくれる自由とは、まったく重みが違うのではないか。全然違う。色も輝きも、すべてが前者では褪せてしまっているだろう。
だから、わたしは眩むほどほしいのだ。そしてその願いとは裏腹に、怯えてもいる。ハレムの外の世界に。
王のいない世界に。
そんなことが悲しくもないのに、わたしの瞳からは熱い涙が落ちていく。
 
眠気などないくせに、瞳を閉じていれば、いつしか寝入ってしまっていた。髪をかき上げながら身を起こすと、人の気配に驚きで、「ひっ」と悲鳴に似た声が出た。
寝台の傍らにいたのは王だった。薄い上衣と同色の、クリーム色のケープを肩から流していた。腰に剣はない。束ねた黒髪が、こちらへ身を乗り出した際に滑るように胸に落ちた。
「何をしている」
声はとても厳つく冷たい。
そんな声でありながら、わたしを引き寄せるのだ。王にはそんなことが、ままある。短く罵りながら唇を重ね、また乱暴に突き飛ばした女の腰を抱く。
わたしは答えなかった。答えなど口に出せる訳がない。ここを出たリーとのこれからに、今更どこかで怖気づいているのだと、言える訳がない。
沈黙は、わたしの寝台への未練と甘えに映ったのだろうか。王はちょっとだけ笑い、
「よく泣くな」
わたしが眠っていたのは、ほんの少しの間であったらしい。瞳の端にいまだ涙が残っている。
それを王は親指で拭った。
口づけながら、あっさりとその手が衣を潜り、乳房をつかんだ。痛むほど揉みしだき、そのまま衣を剥いだ。どんと、突き倒される。
雄の目をした王の瞳の熱い色に、思わず拒否の声が出た。
「嫌」
今から抱かれていたら、リーとの約束を違えてしまうかもしれない。大事な逢引なのだ。明日彼らは帰国の途に就く。だから、今は抱かれたくない。
けれど、こんな拒否権などハレムの女にない。この期に及んで嫌だと身体を閉じる権利など、ない。
ぶたれると思った。どうしてこんなところにずるずると残っていたのだろう。早くハレムに戻っていればよかった……。わたしはひどく愚かだ。
わたしの意外な抵抗に、王の冷めた声が返ってきた。
「ハレムが嫌か?」
その問いに、やはりわたしは答えられない。
それは、嫌。逃げ出したいほど嫌だった。
「気に入らないのであれば、こちらに移してやる」
「え」
「考えておけ」
王は身を起こし、ヴェールの向こうに去って行った。部屋の扉が開き、閉じた気配が伝わる。
わたしは寝返りを打ち、乳房に押し付けるように膝を抱えた。そうやって、王の言葉の重さを噛みしめていた。
驚きに、耐えていた。



             

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