HALEM

7
 
 
 
約束の朝はきた。
 
何の感慨もなく目覚めの湯を浴び、髪をすく。衣装をまとい、果物を食みながら、泉の辺りを歩いた。
そのとき、一人の女が進み出てきてわたしの袖を引いた。
「ねえ、サラ、お願いよ」
その女はこう乞うてきた。わたしが王より伽を命じられ、もし何かの障りで辞退をすることがあれば、自分を推薦してほしいと。
わたしはその言葉に、どんな顔をしたのだろう。
「全然、お声が掛からないから…、婆やに訊いたらそういう方法もあるって言うから…。いけないことではないでしょう?」
小作りで寂しげなその女の顔を見つめ、軽く頷いてやった。ハレムにいれば、何かに、ちょっとしたことにでも縋りたくなる瞬間は、必ずどこかであるのだ。幾度でも。
「でも、そういうやり方は、王はお好みじゃないと思うけど」
わたしが伽を辞退し、その代わりに別の女をもし推薦などすれば、王は敢えて別の女を選ぶような気がした。きっと、そんな気がする。
「サラのねだりごとなら、王も耳を傾けて下さるか…」
「止めて」
思いの他声がきつくなった。唖然とした気まずげな女をそのままに残して、わたしは背を向けた。王の顔が一瞬まぶたの裏に浮かび、堪らない気持ちになった。あの以前寄越した「ハレムが嫌か?」と問う声さえも甦るのだ。
 
なぜ、問いなどしたのだろう。
なぜ、王宮に移してやるなどと告げたのか。
意のままに命ずればいいだけなのに、なぜ……。
 
頃合を見計らい、ハレムの泉の前を離れた。
自室の寝台には、猫が寝転んでおり、わたしがそばに寄れば、そのブルーの瞳をこちらへ向けた。ちらりと背をなぜてやり、わたしは部屋を出た。
ハレムを出るに、切ないものがあるとすれば、あの猫だ。けれども、わたしが消えた後には、誰彼が可愛がってくれるだろう。ハレムには退屈と寂しさが満ちている。気持ちを慰める小さな生き物に、自然誰しも愛情がわくものだ。
普段のリーとの逢引のように、わたしは王の宮殿へ向かった。回廊を抜け辿り着いた庭園の外れのあずま屋には、既に人の姿があった。リーではない。彼の従者のような男だった。
この男の導きで、わたしはリーのもとへ向かう。彼は朋輩らと共に、ちょうど今頃、王へ別れを告げているのだ。その隙に、わたしを彼の荷物に紛れ込ませようというのが、リーの考えだった。
梱包の終わった荷物が客殿の出入り口に、山と積まれていた。大きなもの、小さなもの、様々にある。この中に紛れ込むことは、いとも容易く思えた。
まるで女官のような素振りで通り抜け、わたしは奥まった部屋に連れて行かれた。がらんとした、装飾の乏しい部屋だ。召使など使用人にあてがわれた部屋のようだった。真ん中に非常に大きな革の衣装箱が置かれていた。仕切りの棚などは取り外されており、多分わたしは、あの中に入ってここを出ることになるのだろう。
「こちらで少しお待ち下さい」
わたしは男と共に、しばらくぽつねんと待った。
どれほど待っただろう。わたしは腕を組み、部屋の小さな窓からのぞく外の光景に目を向けていた。他に見るようなものがなかったからだ。
人声が大きくなった気がした。王の御前から下がってきた気配だ。
ほどなく、床を打つ靴音がし、扉が開いた。入ってきたのは正装のリーで、彼はわたしの姿を認めるや、ブルーの瞳をちょっと大きくし、まっすぐにこちらへ向かってきた。鋲を打った彼の靴底が、やはりかんかんと甲高い音を立てた。
リーの腕が背に回り、抱きしめられる。わたしは自分の腕を彼の首に回した。まなざしが交わるより先に、唇が触れ合った。ちょっと離れたところから、軽い咳払いが聞こえた。従者の男だ。
「わたしは外で…」
声と共に静かに扉の閉じる音がして、わたしたちはくすりと小さな笑みを交わした。おかしかった。そして、わくわくと胸が躍るようにこの今が楽しかった。
恐ろしさがないといえば嘘になる。
怖くないといえば、それは偽りだ。心の奥の柔らかな箇所は、震えるほどに怯えている。
だから、しっかりと手をつなぐように、彼の愛撫の熱がほしいのだ。
口づけが深まり、互いにひととき溺れそうになる。わたしはリーの肌を知らない。彼がどんな力でわたしを抱くのか、どんな仕草を見せるのか、何も知らない。ただ思うのは、彼が素肌のわたしをあのきれいなブルーの瞳で見つめる、おそらくその熱いまなざしに、まるでわたしは蕩けそうになるだろうと……。
「リー」
わたしは彼のシャツを昂ぶった気持ちで剥いだ。露わになった胸に手のひらを置き滑らせた。うっすらと茂った金色の胸毛に、頬を寄せ、唇を押し当てた。
「サラ」
思いがけず、彼の手がわたしの衣に伸びた。ひだを探り、ある部分で引く。まるで熟れた果実のようにわたしの胸がそこからこぼれた。
唇を重ねながら、手のひらの乳房を包む優しい感触に、わたしの唇からぬれた声がもれた。
熱い舌が首筋を這い、乳房に触れる。ごくやんわりと乳首に歯が触れ、痺れるような心地よさが身体を貫いた。
「あ」
声にならない声をもらしながら、わたしはリーの髪をくしゃくしゃとつかんでは握り、それに甘く耐えた。
そのとき、扉を叩く音がした。二度続き、しばしの間の後で、リーはわたしを離した。乳房から目をそらすようにし、不恰好に衣を直してくれる。
「急がないと」
どちらからともなく、腕が伸び抱きしめ合った。無言のまま、気持ちを押し殺した時間はやや続く。
もしや、リーも怖いのかもしれない。恐れているのかもしれない。
王や、わたしを連れた先の事柄や、二人の愛に。
何か怯えがあるのではないか。
束の間の触れ合いに、彼が決して語らない心の深い部分をわたしは微かに垣間見た気がしたのだ。
ふと、口にしていた。
「怖いのなら、止すわ」
「怖い?」
わたしはそれに触れず、首をゆらゆらと振った。この期に及んで、リーのわずかな迷いを見たようで、心が騒いだ。
いつかのように、彼はわたしの左右に揺れる顔を両の手のひらで挟み、自分へ瞳を合わせるように据えさせた。
彼のブルーの瞳が、瞬きさえもなく、わたしへ注いだ。話す声は若干低く、そしてやや語気は鋭い。
「僕は外交官だ。外交先の国の王のハレムから女性を奪う。職務上、許されることじゃない。でも…」
「でも」で途切れさせ、言葉をつながず、わたしの額に唇を当てた。柔らかく、そしてほのかにひやりとした。
額から唇を離す間際に、彼は告げた。その言葉で喉が震えるのが見えた。
 
「とても君を失えない」
 
リーはわたしを衣装箱の方へ導き、この中に入るように言った。
「呼吸は苦しくないようになってる。船が港を出たら、すぐに出してあげるよ、サラ」
わたしは頷きながら、身を折るようにして箱の中に入った。背や肩に硬い中布の部分が当る。窮屈であるが、耐えられないほどでもない。中は軽い芳香剤の香りがしみついて残っている。
「サラ、少しの辛抱だよ」
リーは、箱の中に身を横にし、膝を抱えたわたしの頬をなぜ、ゆっくりと扉を閉じた。
辺りが暗闇に沈んだ。
 
 
そこからは奇妙な経験だった。声も出せず、身動きも取れない。
わたしを入れた箱が、不意に男の掛け声と共に持ち上げられる気配がした。先ほどの従者の声で、誰かに命じている。
「気をつけろ、貴重品が入っている」
「貴重品」という響きに、窮屈に身を屈めながら、笑みが浮かんだ。リーの手により、欠くことのできない彼の大切な宝物であるわたしは、こうして船に乗せられるのだ。密かに。
その甘やかな思いは、先ほどの短い触れ合いの余韻に、ほっそりと秘めやかにつながり、わたしは唇を噛んでリーの肌を切ながった。
船の旅はどれほど続くのだろう。航海の間、リーはわたしに触れてくれるだろうか。そうであってほしいと望み、朋輩の目もありそれは叶わないと、すぐに味気なく悟る。
早く、抱いてほしい。
早く、あの時間の続きを、肌の上で互いに辿りたい。
思いは、既に知らないいずこかの清潔なシーツの上で、肌を絡める自分たちに及んだ。わたしは彼を歓ばせるだろう、あらん限りの手管で。二度とわたしの肌を手放せないくらいの悦楽をあげるのだ。王の閨を独占したほどの、ハレム一のわたしの身体で……。
隠微な思いに、とりとめもなくふけった。
外に出たようだった。話し声が盛んだ。リーの声はしない。どこにいるのだろう。
荷台に載せられるのがわかる。ごとん、とわたしを入れた箱が床に着いた。じき荷台ごと動き出した。車に載せられ、港に向かうのだ。がたがたと、揺れが荷台から箱のわたしへ伝わる。痛みはないが、身体が揺れ、背を折った姿勢が苦しくなってきた。
外の熱気が、箱の中にも入り込んでくる。暑い。喉が渇いた。
いつ港に着くのだろう。いつここから出られるのだろう。
またわたしは、リーとのことを思った。彼のこと以外、今のこの気持ちを落ち着けるものはないから。長い抱擁と口づけ、それから互いへの愛撫。ぎりぎりまで焦らし、高まり合ってつながる……。
言葉に出来ないほどの淫らなことを頭に描き、わたしは気を紛らわせていたのだ。窮屈な今の苦しさと暑さ。そして、それらをすっぽりと包んでいる恐ろしさに。
 
わたしが消えたことに、王はいつ気がつくのだろう。
 
 
港に着いたのは、箱に入れられ、王宮を出てからどれほどだろう。箱越しに、人声や様子で自分が既に船の上にあることが知れた。
首筋にしっとりと汗が浮かび、髪の筋がまとわりついていた。少し息が苦しくなるほどに辛くなっていた。
気が遠くなりそうになって、ようやく扉の開く気配がした。誰かの手によって、錠が開けられゆっくりと箱の扉が開いた。一斉に目に飛び込む明る過ぎる光景に、わたしは目を細めた。
「サラ」
目の前にいたのはリーだった。彼は正装を既に脱ぎ、普段のものに替えていた。箱の前に膝を着いている。
わたしは彼の腕に縋り、よろよろと箱から出た。ぷんと潮の匂いがついた。明るさに目が慣れ、辺りを見回すと、確かに洋上だ。わたしがいるのは大きな船の甲板で、鉄製の手すりの向こうに、目にしむような青い海が広がっていた。
リーは積み込みが終わり次第、すぐに出航だと言った。
「少し休むといい。窮屈な思いをして、疲れただろう」
階下の船室に行こう、とわたしの肩を抱いた。わたしはうなずき、彼にもたれながら、従った。
狭い間隔の空いた階段を降りかけたとき、背後のざわめきに、リーが振り返った。
リーの、わたしの肩を抱いた腕が強張るのがわかった。
「君はここに」
リーはわたしをそのままに、甲板へ戻っていく。わたしは階段室の陰から、彼の白いジャケットの背を目で追った。
いつの間にか、いらいらと唇を噛んでいた。
リーの白い肩越しに、黒衣の影がちらりと視界に入った刹那、わたしは声にならない悲鳴をあげていた。
 
王の姿があった。
 
まさか、と目を一旦つむり凝らす、その狭間に紛れもない王の鋭い声が冷酷に響いたのだ。
「サラ」と。
「サラ」
怒りをにじませて、焦れたかのように、それは大きくもう一度続き、わたしは恐ろしさに身を凍らせた。
乗組員が一人、銃を構えるのが見えた。「国際法では船上は自国も同じと…」と、その誰かの声がそこで途切れた。

いけない、王へ銃など向けては。いけない。

王のそばに控えた、これも黒衣の男が己れの剣を振り上げた。一瞬まばゆく閃光が走り、何の躊躇もなく、光を受けたその剣が振り下ろされた。
「あ」
銃を向けた乗組員が斬られたのだ。空気を割くような、嫌な悲鳴が上がる。
耳が痛い、堪らない男の断末魔の声に、わたしは鮮やかに終わりを感じた。駄目だ。もう、甘い希望も自由も、尽きてしまったのだ。
 
夢は、終わったのだ。
 
わたしは階段室の陰から、自分から甲板へ一歩、歩を進めた。




             

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