HALEM

8
 
 
 
陰から歩を踏み出せば、きらりといきなりまばゆい光がわたしを包んだ。
王のそばには、剣を帯びた屈強な男が十人ほどもいた。黒衣の王自身は、いまだ剣を抜いてはいない。
傍らに甲板に崩れた男の身体を、ちらりとわたしの瞳が捉えた。絶命しているようで、ぴくりともしない。先ほど斬られた男だ。あふれた血で、シャツはべったりと赤く染め上がっていた。
先ほどまでは、「船の上では自国も同じ」と、国際的な権利を謳ったはずが、誰ももう抗わない。当のその男があっけなく、紙のように切り捨てられてしまっているのだ。
王の姿に、引き連れた男どもの剣呑な様子に、紳士連はのまれてしまったように、それぞれが、恐ろしいこの状況に身を硬くしていた。
風に、王の黒く長いマントが揺れた。それはふわりと風に踊り、こんなとき場違いに静かで優雅に見えた。その裾は踊り続け、前に立ったリーに及ぶまでになった。
わたしは少し間隔を空け、リーの背後に立った。王の顔を、とてもまともに見ることなどできない。わらわらと怯え、くずくずと震えているに過ぎない。
「リー」
王は今の場に相応しくないほどの穏やかな声音で、リーを呼んだ。まるでこれまでのように、私的な狩りにでも伴うかのように。
「わたしは、お前の言うことに、かなりを許してきた。国での自由、視察や出入国の許可、今後の貴国との国交についても、のめるものを飲み、善処してきたつもりだ。…かなりな」
「陛下のご寛大には、我々皆、感謝しております。大きな成果をいただけたと、今後の二国間の友好に…」
リーは、声はやや震え、落ち着きが若干ないものの、毅然とした態度を崩してはいない。彼の白いジャケットの背の横から、嫌でも王の黒衣が目に入った。その色が、このときばかりは恐ろしく、わたしはリーの腕に縋りたい気持ちを、何とか堪えていた。
「わたしは、かつて数年貴国で学んだ」
王はリーの話を遮り、かちゃりと腰の剣を揺らし、少し歩を前に進めた。
「皇太子、いや、今は戴冠されたか…。彼のお人と共に猟をしたこともある。懐かしいものだ…」
そこから王は、往時の行き掛かり上、今回リーらの訪問を認めたことへ話を流し、その結果好ましくも感じ、状況に応じ、頓挫していた二国間の密な交流を、また許してもいいと考えていたと、結ぶ。
ほんの数歩、位置まで王はリーに近づいた。甲板に、マントの裾が美しく波打ちたゆたう。
そこで王の声は低く、
「なぜ、人の女を盗る?」
と訊いた。
「…女性は、誰かの付属物になるべく神より創造されたのではなく、幸福を等しく享受する為に生まれたのです。たがにはめ、集められ、無駄に互いを競わせる……。性の為のみに存在しているかのような現状は、許されるものでは…」
「ハレムとはそうしたものだ」
「しかし、陛下、恐れながら、ハレムの存在こそ、まさに時代を逆行していることにお気づき下さい。君主として、非常に恥ずべきことです」
王はそこで唇を歪ませ、冷笑した。ほんのわずか、瞳がリーの背後のわたしをなぜて過ぎた。
「貴国に嫌なところは多くあるが、我慢のならないのはそれだ。己の尺度、宗教観、社会観からしかものを見ない。いや、見ないのではなく、許したがらない…」
一瞬、黒い小さな闇が目の前に現われたのかと感じた。いきなり王のマントがケープと共に舞い上がり、下衣を割って脚が、横様にリーの顔を力強く蹴り上げるのが見えた。
リーはうめき声を上げ、後方に音を立て倒れ込んだ。
痛みに顔をしかめながら、ひどく咳き込んでいる。口許から血と小さな白い欠片が吐き出された。歯が折れたのだ、王の一撃で。
ぞくりと、背が嫌な寒さで震えた。リーの血と、こぼれた歯を見たからだ。ほんの近くに斬死体も目に入る。その生々しさに、今更の震えが背を覆った。
「トロイの例を引くまでもなかろう、外交国の王のハレムで女を盗んだ。これに尽きるではないか。どこに正当性がある。高邁な己の自説に、著しく矛盾しないのか? 笑止な」
王は既に涼しい様子で腰に手を置き、身を横たえ痛みに耐えるリーを睥睨していた。その横顔は冴え冴えと輝き、凛々しく美しくあった。
「サラ…」
リーの声が届く。何とか起き上がろうと腕を床に着き、半身を起こそうとしていた。
わたしは、駆け寄るべきであった。
側に跪き、彼の傷を看てあげるべきであった。愛しているのに、恋した人なのに。
けれど、足が動かないのだ。
リーのブルーの瞳は、瞬きを堪え、こちらを見ている。
睦み合い、すべてをあげたいと、味わい尽くしたいと望んだ男だったはず。共に生きたいと、ありたいと……。
けれども、動けずにいる。ぶっきら棒に立ったまま、距離を置いて彼を眺めているだけだ。
恐ろしさの他、別種な力がわたしをきつく縛り、動けない、動きたくなくさせるのだ。
それは王の放つ猛々しい魅力であり、美貌であった。この殺伐とした凍った幕間に、わたしは王を美しいと感じていたのだ。瞳が悟り、身体で知り、心が欲していた。
 
抱かれたいと。抱きたいと。
 
「サラ」
もう一度声がした。動かないわたしの代わりに、王がリーの傍らに立った。そこで王は剣を抜いたのだ。柄の部分でリーの頬を激しく打ち、のけ反った彼の身をまたいだ。
「わたしの女だ」
王の声がまた、低く響いた。
リーは殺される、そう思った。
その刹那の後で、リーの上げる悲鳴が耳を貫いた。思わず目を背けるほど痛々しく、耳に痛い。
リーが……。
瞳を戻せば、剣はリーの胸ではなく、その右腕を甲板に縫いとめられていた。王はリーの腹部にサンダルの足先を乗せ、ちょっと抉るようにし、容赦なく腕を貫く剣を抜き去った。
「消えろ」
そのときのリーのうめき声に、またわたしは顔を背けた。堪らない痛々しさと、後ろめたさが合わさり、目を向けられないでいたのだ。「愛している」と、瞳も心もぬれるほど、唇を合わせた人であったのに……。
「貴国のロン(相手国の王の愛称)によしなに伝えてくれ。「壮健あれ」、とな」
もう、王はリーを振り返らなかった。
血で剣先をぬらした剣をぶらりと下げたまま、わたしの前に立つや、柄を握ったその拳で、頬を思い切りぶった。衝撃に、ゆらりとわたしの身体は倒れた。
口に中が切れ、血の味が広がった。
成すべくもなくそのまま伏すわたしに、もう一度だけ聞こえたのだ、リーの声が。「サラ」とそれはわたしの名を呼んだ。
「サラ…」
瞳を彷徨わせ、ようやくわたしはリーの姿を正視した。頬を血でぬらし、唇を切ったリー。腕に大きな切り傷まで負わせてしまった……。
きれいな、猫のように澄んだ彼のブルーの瞳は、力を失わずに、わたしを捉えている。
互いに王に暴力を受け、抗えず傷つき、同じく身を伏している。
 
二人で描いた自由も夢も、とうに果ててしまったのだ。
 
絡まり合う視線。幾度か、彼との思い出にこんな場面があった。ひっそりと秘めやかに、わたしはそれらに心を躍らせ潤ませて、ときめいた……。
確かに、そうだった。
 
その言葉を口にするとき、いまだわたしを見つめ続ける、リーの瞳を避けた。澄んだあのまなざしが、わたしの放つ言葉に驚愕に歪むのを、または見開くのを、わたしはきっと、受け止められないだろうから。
 
「あの男が、わたしを騙したのです。船を見せてやるからと…、つい物珍しさに、こんなところにまで…」
言葉尻まで言わさずに、王の腕が伸びた。力強く腕はわたしの腰を抱え、乱暴に肩に乗せる。まるで絨毯のような巻き物に似た格好で、抱え上げられた。
そのとき、王の微かな笑い声がした。とっさにわたしのついた嘘の、そのあからさまな保身の幼さへの嘲笑のような、冷たい笑みだった。
「気の毒に…、サラは、こんな女だ」
その言葉は、リーへ向けられたものだったろう。けれども、同じ重さと鋭さをもって、わたしの胸をも貫くのだ。
 
わたしは、こんな女だ。



             

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