松坂牛の怪

ペンション〜グリーン〜オーナーのミステリー

 

 

 

ラウンジの時計が鳴り止んだ。
それぞれの視線がそれぞれの顔の上を撫ぜていく。誰が次に話すのか、推し量るように。
「わたしが、次に話しましょう」
オーナーがちょっと抑えた声を出した。もったいぶったようにも聞こえ、かえって話したくてうずうずしていたようにもとれる。
「では」、と話し出そうとしたのを、深沢さんが遮った。「すみません」と言ってトイレに立つ。入れ替わりに他の人も続いた。
部屋に上着を取りに行った香坂さんは、それをひざ掛け代わりにした。
篤子ちゃんも腕を抱いて、
「ビールを飲んで、ちょっと寒くなった」
と言った。
「じゃあ、もう飲まなきゃいいじゃない」
亮がそう言うとふくれた。部屋から自分のジャケットを取って来て、彼女に渡した。「煙草臭い」と、文句を言う。
そんな彼女の顔に、亮は煙草の煙をふうっと吐いた。しかめた顔がおかしくて笑うと、彼女はついっと顔を逸らした。
「亮さんには、カニクリームコロッケ、もう作ってあげない」
篤子ちゃんのカニクリームコロッケは、亮の大好物だ。
「悪かったよ」と、口を尖らせて亮が謝る。
若女将はこういうところが、子供っぽいんだよな。
「猫がじゃれ合ってるみたいよ」
香坂さんの笑いを含んだ声が聞こえた。
亮はなぜか、ちょっと照れくさくなって、彼女の瞳を避けた。
オーナーのぱんぱんと手を打つ音が割り込んだ。
「さあ、そろそろ始めましょうよ」
 
 
オーナーが打った手を擦り合わせる。
「ちょっと毛色の違った謎になるかもしれないですよ」
そう言ってから間を空け、その間に皆の様子をうかがっていく。
いやに得意げで、話すのが嬉しくてならないといった素振りだ。誰しも煽られて、少し身を乗り出す形になった。
「わたしは学生時代から、バードウォッチングが趣味なんですよ。暇ができると、今でもちょくちょく出かけます」
その割には、ペンションの中にそれらしい写真がないのが不思議だと亮は思った。亮の兄の喬は釣りの趣味を持っているが、釣った魚の魚拓を、嫌というほど家の中に張りたがる。(兄嫁がいい顔をしないので、控え目にしているらしいが)趣味とはそういう人に押し付ける、誇示する側面を持っているものだと、亮は考えていた。
ちょっとできた間にそれを問うと、オーナーは、
「お客さんにこちらの趣味を押し付けるのもねえ。それに、女性のお客さんの中には、鳥を気持ちが悪いという人もいるんですよ」
「ふうん」
話が続く。オーナーが口髭をひねりながら、上目遣いに、思い出すように、話を整理するように、ゆっくりと話していく。
今年の秋口に信州に日帰りの予定で、彼は学生時代の仲間三人とバードウォッチングに出かけた。
夜中にこちらを出て、車の中で仮眠をとった後、朝方から森に入る。
「秋口だとまだ、渡り鳥が残っているんですよ。彼らの羽の色も夏とは違ってこう、秋に染まるっていうんですかね、季節を感じますよ。エゾビタキやノビタキ。もうちょっと時期が遅くなると、ツグミ、クマタカにも出会えますね」
これから謎を語るというより、登山用品店の店員のようだ。「山のトレッキングは素晴らしいですよ」とでも、続きそうだ。
オーナーたちは午前中いっぱい、森を歩き、鳥の観察を楽しみ、写真を撮ったりしたという。
「昼食の後、しばらくして急に天気が崩れてきました。この時期の天気は気紛れなもんですが、こちらは日帰りで大した装備もない。せいぜい雨合羽程度ですよ。まあ、それを被って、木の下で雨宿りをしました。滝のような土砂降りで、カメラが駄目にならないか、それだけが気がかりでした」
オーナーはビールで喉を潤し、続ける。
しかし、かなり待っても雨が上がる気配がなく、雨脚は強まるばかりだった。
そのうち一人が具合が悪いと言い出した。寝不足の上体が冷えて、熱が出たようだという。
「弱りましたよ。車に戻るにも、何キロとあるし、そんな中歩かせるのも気の毒なほどぐったりとしているんです」
一人が具合の悪くなった仲間について、後の二人は車を停めた駐車場まで歩いて戻ることにしたらしい。
森の外れには別荘地用に分譲された土地もあり、砂利の小道が通っている。しばらく歩くと、別荘地の方からRV車がこちらに向かって来るのが見えた。
「もしかしたら乗せてもらえないかと、手を振ってみたんです。でも通り過ぎてしまって、二人でがっくりしたところに、さっきのRV車が引き返してきたんですよ」
中年の男性が車から身を乗り出し、自分は近くの別荘地の人間で、よかったら送るという。
「我々も長雨で体がすっかり冷えて、わたしなんか腹の方もぐるぐるといってましたからね、ありがたく乗せてもらうことにしました」
「親切な人ですね」
篤子ちゃんが相槌を打つ。
深沢さんはそれに頭を振り、「間違っても、そんなのに女の子が乗っちゃいけない。これはむさい中年男に限った話だよ」と釘を刺した。
表現はきついが正論なので、誰も異論を挟まない。
ごほんとオーナーが空咳をして、話を続けた。
「その木島さんというんですが、あれこれ話して、具合の悪くなった仲間がいると言うと、ひどく心配してくれて、うちで休んでいかないかと勧めてくれたんですよ。ワイフと二人で気楽なものだから、遠慮はいらないと。これはありがたかったですよ」
 
 
木島さんは残った二人を拾うため車を戻した。彼らもこちらと同意見で、ありがたく木島さんの厚意に甘えることにしたという。車で数分も走るとログハウスが見えてきた。区画分譲された土地はほぼ空いていたが、木島さんが車を停めた左隣りには似たようなログハウスが建っていた。所有者はシーズンごとに訪れるらしい。
「羨ましい身の上ですね」
しみじみといった調子で藤堂さんが言った。
「藤堂さん、医者なのに儲かってないの?」
亮の直接的な問いかけに、篤子ちゃんが膝を叩いた。失礼だと言いたいようだ。
これに藤堂さんは笑った。気を悪くしたようでもない。
「医者といっても、ピンキリですからね」
と片目をつむってみせる。
亮はふうんとうなずいたが、平日にゴルフに遠出できる身分も、決して悪いものではないと思った。
木島さんの別荘で、オーナーたちは歓待を受けたらしい。熱を出した仲間は客間で仮眠を取らせてもらえたし、他の三人も代わる代わるにシャワーを借りることもできた。
「ぜひ夕飯も食べていってくれと、木島氏は言う訳ですよ」
冷蔵庫が不調で保存が効かないから、遠慮せずに食べていってくれと言われたらしい。さすがに図々しいと辞退したが、木島氏は車に肉を取りに行ってしまった。
夫人も勧めるので、ご馳走になることになった。
「これが、あなた、松坂牛ですよ。さもしいことを言うようですが、松坂牛なんて、それまで口にしたことがありませんでしたからねえ。ビールはぬるかったけれど、それを補って余りある美味でしたよ」
オーナーは腕を組んで、首を頻りに振る。肉の味でも思い出しているのか。
皆がその仕草に笑った。
深沢さんが口に煙草をくわえたまま、
「おやおや、その大盤振る舞いが謎なんですか?」と問う。
オーナーの得した経験談はそれなりに面白いが、そろそろ焦れてきたようだ。
亮も肉の話に腹が鳴るような気がして、おにぎりをぱくついた。
「いやいや、まさか。ここからですよ」と、オーナー。
「本当に何か起きるの?」
香坂さんが訊いた。頬にかかる髪を、指で耳に掛ける。
オーナーが再びぐるりと皆の顔を順に見やった。
気を持たせるよな、この人。
亮は口からはみ出したしゃけを、ぺろりと舌で舐めた。
オーナーが話を続ける。
ご馳走に預かった後、木島さんが車の所まで送ってくれた。オーナーらがどれだけ礼を言っても、「大したことじゃない」、「こちらも楽しかった」とごく気さくに返したという。
あちらはそうでも、こちらの気が済まず、後日改めて手土産を持って礼に上がったという。
「そしたら、信じられないんですが、木島さんが別人になっていたんです。まったく違う人に。もちろん、我々のことなんか知る訳もない。狐につままれたようでした。奇っ怪でしょう? これがわたしの謎ですよ」
しかも、これには正確な解答編がないというのだ。つまりオーナーも、真実を知らないらしい。
 
 
矢継ぎ早に質問が飛んだ。
まず深沢さんが、確認ですが、と前置きをして、
「後日出てきたのは、木島氏の親だとか、家族だとかそういう落ちじゃ、ないですよね?」
「違いますよ。その点も尋ねました。そうだったら、手土産を渡して、礼を言付ければ済む話でしょう。謎じゃないですよ」
亮も口を出した。
「じゃあ、その別荘に間違いはないの? 他の別荘を同じ場所だと、勘違いしていたとかは?」
これにもオーナーは首を振る。一本道で間違うのも難しい。何より、表札に〔木島〕とあったというのだ。
「それは、変ねえ。本物は後の木島氏なのかしら?」
香坂さんが首を捻った。これにオーナーは、免許証を見せてもらって確認したと答えた。
篤子ちゃんも、
「何か、その人から訊けなかったんですか?」
「聞きましたよ、もちろん」
オーナーはにんまりと笑う。藤堂さんも興味深げに目を光らせる。
オーナーが本物の木島氏に訊いたところ、彼が別荘に訪れたのは三日前で、オーナーらが偽の木島氏に招じられて訪れた際には、まだ東京の自宅にいたという。もちろん自分の別荘を他人に貸したこともない。
偽の木島氏をX氏、本物を木島氏としましょう、と、藤堂さんが提案した。元より(木島氏)を詐称しているのだから、それがわかりやすいと、誰もがうなずいた。
「ただ、ですね、木島氏が言うには、別荘の中を誰かが使った形跡があるそうなんですよ。物の位置が変わっていたり、キッチンに油汚れが残っていたり。これは木島夫人の弁らしいですがね」
「あ、それ、わかる。誰かの手が入ると、キッチンって微妙に違うもの」
篤子ちゃんが納得している。
「じゃあ、こういうことになりますよね。オーナーさんらは困ったところを、偶然他人の別荘を自分が所有するように振舞うX氏の車に拾ってもらって、彼が所有すると偽った別荘で、シャワーを借り、更に松坂牛までご馳走になって、親切に帰りも車まで送ってもらった」
深沢さんの要約に、亮は、
「運が良かっただけじゃないの。僕も今度は便乗しようかな」
などと言ったが、おかしいとは思っていた。そんなラッキーが続く偶然、あるのだろうか? 何か、きっと意味があるのだろう。
しかし、それを合理的に説明できない。
 
 
「確か、隣りにも似たようなログハウスの別荘があると?」
藤堂さんが両手をこすりながら問う。亮はとっくにそんな点を失念していたが、彼はきちんと頭に入っていたようだ。
「ええ。隣人とは交際があるようでしたよ。予定が合えば、同じ時期にやって来てはバーベキューをしたり、釣りに行ったりと。しかしそっちの持ち主はまだ訪れていませんでした。今回も日程を合わせたのにまだ来ないと、木島氏の方は寂しがっていましたね。案外別荘暮らしも、日が伸びると退屈になるのかもしれませんね」
こんな話を木島氏から聞けたのは、オーナーらの話に気味悪がった彼が警察に通報しようと、あれこれ聞き出したついでのことだとか。
「あ、もしかしてその隣りの持ち主が、いたずらでやったとか?」
「わたしも篤子ちゃんと似たようなことを考えて、訊いてみたんですよ。実は仲が悪かったとか、よくあるでしょう? 上辺だけの付き合い。でも、違ったんです。X氏の風貌は、隣人とはまったく違うと言われました」
「これは? 知り合いに頼んだとか? 隣りの別荘をちょっと汚してきてくれ、て」
言いながら馬鹿げていると思うのか、香坂さんは笑っている。
「おかしいよ。松坂牛は自腹なのに。それなら、安い生卵でもぶつけとけばいいじゃない」
木島氏はキッチンは汚されたが、松坂牛を盗られたとは言っていないのだから、持ち込んだことになる。
亮は煙草をくわえて立ち上がった。
コチコチいう時計の音。それに混じる雪の音がしなくなった。窓辺に立つと、しんしんと柔らかい雪が降り出していた。
車の上も白く元の色が知れない。積もるのじゃないかと、ちょっと顔をしかめた。
不意に後ろから、手を打つ音がした。
藤堂さんが、「これはどうでしょう」と言った。
 
 
その声に、一番身を乗り出したのはオーナーだった。自分が謎の提供者であるのに。「どういうことなんですか?」と答えを急いた。
亮も知りたい。席に戻ると、ぬるくなったビールを口に運ぶ。
「亮君の言葉がヒントなんですがね」
「どういうこと、藤堂さん?」
ふふふ、と笑う藤堂さんが、
「君が言った、『おかしいよ。松坂牛は自腹なのに』これですよ。他人の別荘に入り込んでちゃっかり利用する者は、稀にいるようですよ。耳にしたことがある。でも、そこでいくら保存が効かないといって、他人を連れ込んで肉を振舞うというのは、突飛過ぎます。自分たちで食べられるだけ食べて、残りは処分するのが普通ではないですか?」
藤堂さんはここで言葉を置いた。グラスの液体を飲み、皆の様子を交互に眺めていく。
「X氏は、敢えてオーナーさんたちを別荘に連れてきたのじゃないでしょうか」
誰も何も言わなかった。異論がなかったというより、俄かには藤堂さんの言う意味が理解できなかったようだ。
とにかく、息を詰めるように次の言葉を待った。
 
 
「このX氏の目的が、松坂牛を食べさせることだったんじゃないかと考えたんですよ。だから、オーナーさんたちを連れて来た」
「ああ」と、何人かの声がもれた。確かに、それが目的なら納得できる。
しかし、松坂牛を他人に振舞う理由とは、何だろう?
藤堂さんは弱ったように顔を綻ばせた。やや首を振る。
「しかし、その理由が浮かびません。着想は面白いと思うのですが……。何か、いい案はありませんか?」
それについて話し合った。
しかし誰もが首を傾げるばかりで、それらしい案は出なかった。
妙な点は多々あるものの、単にラッキーだっただけでないのか、という線で落ち着いた。いくら頭を捻っても、それ以上説明のつけようがなかった。
X氏が気紛れを起こしたとしか、言いようがないのだ。
一人二人、欠伸をし始めた。
「お開きとしましょうか?」
藤堂さんの提案に、皆うなずいた。
亮は立ち上がり、うんと、伸びをした。
胸に何か引っかかったような、つっかえたような気分が残った。
ラウンジの時計がぼーん、ぼーん、ぼーんと鳴った。




   

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