エピローグ

探偵の再登場

 

 

 

まぶしい朝日が窓から差し込んできた。
既に身支度を整えた篤子ちゃんが、カーテンを大きく開けた。途端に、ちかちかする光が亮の顔を直撃する。
布団を頭まで被り、寝返りを打って光から逃げた。
「亮さん、そろそろ起きて。朝ご飯食べないの?」
「……うん……」
食べたいけれど、まぶたが開けられない。
高校を卒業して以来、亮は早起きが苦手になっている。
篤子ちゃんが亮の布団をえいっと、剥いだ。
「何だよ、もう」
「早くしないと、帰りが遅くなっちゃうでしょう」
亮は渋々起き上がって目をこすった。
時計は七時になったところ。亮にとっては、まだ一日をスタートさせるのに適した時間ではない。
頭がすっきりとしないまま、歯ブラシを口に突っ込む。
「雪、そんなに積もってないみたい」
歯ブラシを動かしながら、篤子ちゃんの側に行って、亮も外の様子をうかがう。確かに雪で地面は見えないが、積雪は大したことはなさそうだ。十五センチほどか。ポーチの辺りをオーナーが除雪しているのが見えた。
その姿を見ていると、ちらりと夕べの謎が頭をかすめた。
解けない松坂牛の謎。
篤子ちゃんが眠ってしまった後も、亮は自分なりにあれこれ考えていたのだ。
しかし、何のとっかかりも掴めなかった。ちっとも。
 
 
朝食を済ますと、まず慌ただしく深沢さんがペンションを出た。高速を飛ばせば、今から十時の会議に間に合うはずだ、と残った者に手を挙げた。
そして香坂さん。彼女はまだ寝足りないように目を瞬いて、
「実は、主人と喧嘩して、プチ家出をした帰りだったの」
と小さく笑った。これから自宅に戻るという。
ふうん、結婚してたのか。
ごくささやかな落胆を感じて、亮は自分で驚いた。
「亮君も、運転気を付けてね」
「そっちもね」
身を翻した彼女が起こした、ふわりとした風に、優しい甘い香りがした。
一方、ゆっくりとラウンジでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいるのは藤堂さんだ。時間があるらしい。
亮と篤子ちゃんが先に出ることを告げると、
「楽しかったですよ。どうぞ、雪道気をつけてお帰りなさい」
そして、メモを亮の手に握らせた。メールアドレスだ。
「例の『松坂牛』が解けたら、ご一報下さいよ」
と片目をつむった。
オーナーとは握手をした。
「また道路が塞がれたら、ぜひこちらへ。春もいいですよ、野鳥は。バードウォッチングに、ぜひいらして下さいよ」
篤子ちゃんは案外乗り気だ。うなずいてそのシーズンを訊いたりしている。みーくんを引っ張って来ようと考えているのかもしれない。
ペンションを出ると、昨夜とはうって変わり、きらきらした光が雪に反射して輝いている。
車に乗り込む際、雪化粧をしたペンションを振り返る。
名残惜しいような、後ろ髪を引かれるような、そんな気分。亮はそれをすっきりとしない謎のせいにする。
「楽しかったわね、夕べ。怪談を披露し合うのはたまにやるけど、ああいうのは初めて」
篤子ちゃんは無邪気な感想をもらした。
そうだね、とうなずきかけて、「そうかな」と素っ気なく返した。
乗り込んで、ばたんとドアを閉めた。
亮は煙草を口にくわえ、アクセルを踏んだ。ハンドルを切り車道へ出て行く。
大きな欠伸が出た。それに篤子ちゃんがつられた。
 
 
小早川の家に着くと、亮はいつものようにコタツに潜り込んで居眠りを始めた。昼食に食べたオムライスの味がイマイチで、帰ってから篤子ちゃんに作ってもらえばよかったと、ちょっぴりふて腐れていた。
その間に、絹子小母さんが休憩に帰って来たり、また出かけたり、篤子ちゃんが出かけたりと、彼のまわりで、よく親しんだざわめきが何度か起きた。
ポケットに突っ込んだままの携帯が鳴った。兄の喬だった。
『帰ったのか?』
「うん、さっき」
亮は嘘をついた。
『じゃあ、早く帰って来い。訊きたいこともあるから』
「何? 訊きたいことって」
『いろいろあるんだ。いいから帰って来い。わかったな?』
亮が何か言いかけると、ぶつっと音がして電話が切れた。
ちぇっと舌打ちが出る。帰らないとたちまち兄はここに来て、亮の腕を引っ張って連れて行くに違いない。密猟者に捕まったチンパンジーみたいに。
 
 
亮が再び小早川の家にやって来たのは、十時に近かった。この家では夕飯時である。
案の定、ダイニングでは小母さんとみーくん、篤子ちゃんが食卓を囲んでいる。
「食べるでしょう?」
篤子ちゃんの問いに、亮はうんとうなずいた。今夜のメニューは鰤の照り焼きに、ほうれん草の胡麻和え、かに玉に味噌汁。
篤子ちゃんが整えてくれた席に座って、亮は箸を取った。
みーくんや小母さんが、あれこれ道中のことや、ペンションの様子などを尋ねた。
亮はそれにいちいち答えた。これが普通の問いかけだよな。
兄の喬などは、いきなり呼びつけ、頭ごなしに亮が篤子ちゃんに良からぬことをしなかったか確認した。うるさいほどにしつこく。同室だったことを亮がうっかり口を滑らせたため、ベッドの距離まで正確に答えろと詰め寄るのだ。
何か間違いがあったのなら、親友のみーくんに顔向けができないなどと、怒鳴った。
馬鹿馬鹿しい。大体、みーくんが僕に頼んだことなのに。それに若女将は、好みじゃないって。
ふと思いついて、亮は例の『松坂牛の謎』をみーくんに話してみる気になった。
香坂さんや深沢さん、藤堂さんの疑問も、覚えているだけ正確に伝えようと努めた。
「ふうん」と相槌を入れながら、みーくんは最後まで聞いてくれた。
聞き終えて、「面白いな、それ」と言った。藤堂さんの(松坂牛を食べさせるのが目的だった)というアイディアに興味を引かれたらしい。
「先生、わかる?」
篤子ちゃんは、みーくんのことを先生と呼ぶ。彼の教え子だった訳でもないのに。
「そうだね、ちょっと考えてみようか」
藤堂さんのアイディアから、ある仮説を立ててみようと言う。
こんな風に彼が切り出すと、亮は自分が彼に大学受験で、勉強をみてもらっていた頃を思い出す。亮が勉強に倦んでも、みーくんは今のような言葉で問題に向かわせ、手を貸しながらでも問題に当たらせる。一緒に解くのだから正解するのが当たり前なのに、そのことで生徒に達成感のようなものを与える。そうやってやる気を引き出し、再び勉強に気持ちを戻すように仕向けるのだ。
決して焦れない彼に、亮はぶつぶつ愚痴りながら、甘えていたように思う。
みーくんがご飯を飲み込んだ。「まず」と言う。
「オーナーさん達に親切だったX氏は、どこから松坂牛を持って来たんだろう?」
 
 
みーくんの視線が、篤子ちゃんに向いた。彼女は言葉に詰まり、
「それは…街で、買って来て……」
「そう考えるのが自然だけど、それだと、夕べの結論から進展がない。これに、X氏が名前を詐称した件も含めた、肉を振舞う合理的な理由を探してみよう」
「じゃあ、買ってきたものじゃないのだとしたら、何なのよ。もらったとか、落ちていたとか、……まさか盗んできた?」
「母さんが言ったように、盗んできた物だとすると面白くなる。それでいこうか。なら、それはどこから? 木島氏の別荘にはなかったはずだね」
食卓が静かになる。
みーくんはそこで、ヒントのように言葉をぽろりともらした。別荘は冷蔵庫が効かなかった、と。
鰤の切り身を箸で割り、ご飯の上に乗せて、もう一つぽろりと言う。オーナーたちを別荘に招いた後、X氏は車に肉を取りに行っている、と。
口にご飯ごと運び、何度か噛んだ。飲み込んで、もう一つぽろりと。車に肉を乗せていたということは、どこかに運ぶ途中だったのか、どこかからか持ってきたところなのか、そのいずれかだ、と。
そして付け加えた。オーナーは別荘地の方からRV車がやって来て、それに手を挙げたのだ、と。
「なら、木島氏の別荘以外のどこかで、肉を冷やせる冷蔵庫が動いていたことになる」
みーくんの問いに答えたのは、小母さんだ。
「まさか、隣りから盗んだって言うの?」
「そう。そう仮定すると、俄然様相が変わってくる」
僕だって、ちらりとそんな考えが浮かびはしたんだ。ずるずると味噌汁を飲みながら、亮はそんなこと思った。
隣りの別荘から肉を持ってくるって発想はなかったけど。
「でも、おかしいわ。どうしてそんな物がお隣りにあったの? だって、その頃お隣りさんは、来ていなかったんでしょう?」
篤子ちゃんが異を唱えた。それにみーくんは口の中のものを飲み込んで、
「本当に、そうかな。木島氏は隣人の顔を見ていないから、連絡がないから、まだ来ていないと判断しているのじゃないかな」
「ま、そうよね」
小母さんがうなずいた。意思の疎通が早いのは、親子だからだろうか。頭の中身も似ているのかもしれない。
不思議なもので、みーくんがこう仮定すると、これまでの亮の理解がぐらりと揺れていく。自分が聞いて理解したものは、まったくのでたらめであったように思えてくる。
篤子ちゃんを見ると、彼女も目を見開いたままだ。箸が完全に止まっている。亮は彼女の皿の鰤を、何も言わずにぱくりと自分の口に入れた。
 
 
「篤子ちゃんの疑問、『どうしてそんな物が隣りにあるのか?』。これは来客用だったとすれば、すっきりしないかな。隣人は、来客のために高価な松坂牛を用意していた。そして、その客がX氏だった」
「あんたの言い方じゃ、客のX氏が招かれた家の、自分のために用意してあった肉をわざわざ盗んだってことになるわよ」
食事の終わった小母さんが、煙草に火をつけた。
「何のためにそんなことをするのよ」
みーくんは小母さんの言葉にうなずいた。「そう、それ」と。そして、ややこしいから木島氏の隣人をA氏とするよ、と言った。
「来客用の松坂牛を盗む理由は何だろう?」
言ってから、亮を見る。
亮はかに玉のあんごと口にかき込みながら、考えた。口のまわりについたあんをぺろりと舐めとる。
頭の中で毛糸がこんがらがったような感じ。おぼろげなイメージはあるものの、言葉にできるほど明確にならない。
小母さんがそっぽを向きながら煙草の煙を吐いた。
「客として訪れていたX氏が、招いたA氏に気づかれずに、冷蔵庫の松坂牛を盗むのも、かなり無理があるわよ」
「そうだろうね。でも、A氏が決して気づかない状況なら、簡単だ」
みーくんを除いた小母さん、亮、篤子ちゃんが顔を見合わせた。一人みーくんは、残ったご飯を口に含んで片っぽの頬を膨らませた。
答えを促すように続ける。
「その状況を作ったのがX氏なら、そのために自分に用意された肉を持ち去る必要が出てくるんだ」
一瞬、しんとした。亮は口の中のものを咀嚼する音も、一時止まった。
「X氏によって、A氏は殺されていたのだとしたら、自分のために用意された肉を隠す理由ができる」
 
 
篤子ちゃんが腕を抱いた。小母さんも気味が悪いと顔をしかめた。亮だって、予想外の話の流れに驚いて、口の中の胡麻和えを飲み込むのを忘れた。
ごくりとそれを嚥下して、
「なるほど。松坂牛が別荘に残っていると、親しい客の存在を知られてしまう。だから、持ち去ったんだ」
篤子ちゃんも唇に指を当て、真剣な表情で亮の言葉を補った。
「そういえば、オーナーさんはビールがぬるかったと言っていたの。それもA氏のところから持ってきたのね」
みーくんは彼女に、うんうんとうなずいた。
亮は口の中で、舌打ちする。みーくんは若女将に点が甘いからな。
「そう。X氏にとって、松坂牛は処分すべきもので、ちっとも惜しくないんだ。だから、他人のオーナーさんたちに振舞った」
亮がみーくんの口調を真似て、
「そして、その肉を振舞うのは、A氏の別荘ではいけない。そこにはA氏が転がっているからだね」
と言った。みーくんは亮の髪をぐしゃりとかき回し、苦笑しながら亮の言葉を言い換えた。
「A氏の遺体が残っている可能性があるね」
篤子ちゃんは転がった様子を思い浮かべるのか、目をつむった。つむりながらも、
「だから、木島さんになりすましたのね」
確かにこの考え方で、X氏の行動の謎が説明できる。高価な肉を振舞う理由も、木島氏を詐称した理由も。
一様に、うなずいた。ここまでは、いいと。
しばらくして小母さんが、天井に煙草の煙を吐いて、
「でも、万が一あんたの言う通りだったとしても、どうして逃げもしないで、オーナーさんらを拾ったのよ? 普通逃げるわよ」
これにもみーくんは動じない。
「逃げようとしたんだろう。でも、逃げる途中でオーナーさんたちに会った。殺害現場の近くで疾走するRV車、そのナンバー、乗っていた人物。彼らはそれを覚えたかもしれない。引き返して、様子を探りたくなるんじゃないかな。うまく立ち回れば、善意の人としてだけ記憶してくれるかもしれない」
小母さんは更に疑問を投げる。
「でも、何も、別荘に連れて来るかしら? 車のある場所まで送るだけで、十分感謝されるわよ」
「オーナーさんらの連れには病人がいたから、それを気遣う仏心が出たともいえるし、演出だったともとれるよ。殺人を犯した人間にはそぐわない行動だからね」
みーくんが返すと、ふうんと言い、黙り込んだ。納得がいったようだ。
でも、オーナーたちは善意と受け取り過ぎた。だから、後日礼に再び訪れることになる。
「やり過ぎたんだ。母さんが言うように、さっさと逃げればよかったんだね。どしゃ降りの中、人の視界は、そう明確なもんじゃないのに」
今度は篤子ちゃんが、気にかかっていたんだけど、と口を開いた。
「どうして、木島さんの別荘に入ることができたの? 鍵がかかってるでしょう」
みーくんはこれに、ちょっと顎をつまんだ。なぜか、ちょっと言い辛そうだ。
「X氏が別荘の管理をするような人間なら、マスターキーのようなものを持っていてもおかしくないんじゃないかな。それに、木島氏の別荘が留守であることも知っていたようだし」
確かに、留守でなければ、オーナーさんたちを連れてくるのは危険だ。木島氏と鉢合わせをする可能性だってあるのだ。
ここまで説明して、みーくんは食事を終えた合図に、煙草を口にくわえた。「最初言ったけれど、これは仮説だよ。ただ、筋が通るというだけの。他に何かもっといい正解があるのかもしれない」
「嫌な子ね、あんた。犯人まで大体絞っておいて、今更仮説って何よ」
小母さんはみーくんを睨んだ。答えまでうまく導いて、最後にその答えが確定的なものではないと突き放されれば、面白くない。
導かれて出した答えであっても、自分で解いたように思えてくるから不思議だ。だから簡単に捨てたくない。
「みーくん、玄関の電球、切れかかってたから替えといて」
小母さんはぴしゃりと命じて、「ごちそうさま」とダイニングを出て行った。小母さんに雑用を言いつけられることに、みーくんは慣れている。
椅子に膝を立てた。煙草を指に挟んで、ふわりと煙を吐いた。
「だから最初から、仮説を立てようって、言ったのに」
正しく、煙に巻くように彼は笑った。
 
 
後日、亮は『松坂牛の謎』の解答を、藤堂さんにメールで送った。返信には、びっしりと亮への賞賛の言葉が述べられていた。自分にはたどり着けなかった答えだ、と。
亮は敢えて、みーくんという第三者がこの謎を解いたことは、伏せておいた。
だって、藤堂さん、みーくんを知らないし。
その藤堂さんから、二通目のメールが届いた。
彼は亮の推理を元に地方紙を当たり、事件について調べたという。メールにはその内容が綴られていた。
オーナーの話にあった信州の別荘地とログハウスが存在し、そしてそこからは、腐敗しかけた男性の刺殺された遺体が発見されたという。
『全国紙なら12月10日の●知新聞に載っていた』とも、知らせてくれてある。
まさか。
亮には心のどこかで、あれは推理ゲームだったという気持ちがあった。実際、深沢さんや自分の出した謎は他愛もないものだった。
オーナーがもっともらしく出題し、結果的にみーくんがそれを解いた。
他に何かもっといい正解があるのかもしれない。
そのはずだった。
彼だって「仮説」だと、笑っていたじゃないか。
亮は大学の図書館で、実際その新聞を目にすることができた。
三面記事の小さな扱いだった。
亮は目をぱちぱち瞬かせて、何度もその記事を読んだ。

 

 

 

 





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