ふわり、色鉛筆
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散らかった狭いロッカールームで昼食を済ませた後には、いつも胸の辺りに消化不良のような(急いでお腹に詰め込んだせいもある)重い感じが残った。
小さなラムネを口に運ぶ。あの部屋に残った三人が、今頃、先に休憩を終えた自分の陰口を盛大に楽しんでいるのだろうと、甘い粒を舌に転がしながら、思う。
パートの短い時間くらい、お互い仲良くすればいいのに。
自分の前は、別な女性がターゲットになっていた。その女性は自然耳に入った明け透けな陰口に涙ぐみ、耐え切れず、先月辞めていったのだ。優しげな人だったから、と思う。
彼女が消え、次は自分だ。
「お昼、お先でした」
社員の若い男性と交代する形で、定位置のレジに入る。社員の彼は抜けがけに、休憩室の方をちらりと見、
「まだいるの?」
と訊いてきた。休憩室を陣取る、ベテランパートの存在が気になるようだ。あの独特の雰囲気の中で昼食を摂るのが、嫌で堪らないと、言葉にはないが、これまでも態度に出ていた。
「いるわよ」
レジ中のチェックを始めながら答えた。うへえ、ともらし「あの人たちの休憩、もう五分ほど過ぎてるのに」とぼやく。
「高科さん、言ってよ」
「嫌。パート管理は社員の仕事でしょ」
「さりげなく、出しなにさ。ほら、パート仲間じゃない」
「…そばのマックにでも行って来れば?」
「昨日も行ったよ。今日は弁当持ちだからな」
「ママの愛情弁当? いいわねえ」
「うるさいな」
休憩オーバーの注意を言うのも躊躇うらしい。それからたっぷり十分待って、悠々と休憩室から、三人のパートが出てきた。社員の彼へ、詫びの言葉も何もないのはいつものことだ。
既に買い物客の対応を始めていた私は、そんな彼女らに気づいたが、どうでもよく思った。
ただ、さっきの彼の言葉が耳に残っている。
 
『仲間じゃない』
 
「ポイントカードをお返しいたします。ありがとうございました」
機械的に笑顔を作り、客へお辞儀をしながら、わたしは胸でつぶやいていた。
仲間なんかじゃない、と。
 
自宅から、自転車で十分ほどのスーパーでパートを始めて、一年ほどになる。時給は高くないが、特別な技能も必要なく、時間が合うのが魅力だった。
仕事の上りに店で買い物も済むし、便利がいい。従業員は割引が利くのも嬉しい。この日も、出来合いの総菜を二パックほど買い、レジに並ぶ。
「またコロッケ?」
こわもてのパートの一人が、バーコードを通し、嫌味をぶつけた。
「時間が経った揚げ物を、そんなしょっちゅう子供に与えていいの?」
「安いから。ほら、半額」
「うちの子は、もう上が高校生だけど、離乳食の頃からきちんとしたものって、そりゃ気を使ってきたから、添加物は受け付けないの。やっぱり違うわよ、中身が」
その中身の違う息子さんが、ここの母親にお小遣いをねだりに来たその足で、そばのマックで買い食いしているの、よく見るけどなあ。
「ふうん」で流して返し、店を出た。
午後四時をいくらか過ぎても、五月の空はまだ昼の気配だ。商店街を抜け、書店の前でふと思い出した。よく買うコミック雑誌の発売があったはず。
自転車の速度を緩めかけて、止める。四百五十円の雑誌代で、子供の好きなドーナツが買える。続きの気になる連載があったが、次号の『前回までのあらすじ』で我慢できないことはない…。
ま、いっか。
ドーナツを買い、家に着くと、子供が幼稚園の制服姿のままリビングで寝転んで、アニメを観ていた。夫がソファにこれも寝転んでいる。
取り込むだけはしてくれている、乾いた洗濯物の小山が、床に崩れていた。
「総司、お着替えは?」
ドーナツで釣り、子供を着替えさせる。散らかったテーブル周りを片付けながら、大あくびの夫に、今日の首尾をたずねた。
「どう? 目ぼしい会社あった?」
「うん、ネットで見つけて、二三エントリー出しといた」
「ふうん」
そのセリフは、もう何度も聞いた。再就職の結果が思わしくないことも。「ねえ」と、ソファの端に腰掛け、
「そろそろハローワークとかに…」
言いかけたわたしの声をさっさと遮り、
「またかよ、止めてくれよ。俺はそういうんじゃない。知ってるだろ?」
「でも、もう一年近くになるし…」
もうじき失業保険も切れる。そう続けようとして、着替えを終えた総司が戻ってきて、言葉を切った。
夫は総司を抱き上げ、膝に乗せ、テーブルのドーナツを食べ出した。唇の端にチョコをつけ、にこにことしながら、のんきに言う。
「そう焦らせるなよ。前の会社が忙しいところだったから、長い骨休めくらいに思ってよ。若菜には心配かけるけどさ」
「心配はしてないけど…」
先行きが不安なだけだ。
これから大きく育っていく子供の教育資金、この家のローン…。じき、また手を付けずにはいられなくなるだろう、虎の子の預金のこと。わたしが稼ぐ、わずかなパート代ではとても賄い切れない。
子供の手前、そして、何より機嫌よく笑う夫の笑顔にほだされ、やはりわたしは言葉を飲み込んでしまうのだ。事実、勤めていた会社でリストラにあうまで、夫はよく働いてくれていた。
何のこだわりか、足を使った求職活動をしたがらない。それに苛立ち、ちょっとした問いかけが、大喧嘩になってしまったことがある。総司の怯えた表情とあの殺伐とした空気のやりきれなさには、懲りていた。
わたしががみがみとせっついても、彼のやる気を削ぐばかりだろうし。理由があるとはいえ、フルで働いてこられなかった自分への負い目もある。
和やかな雰囲気を壊すのも躊躇われ、
「いい結果、来るといいね」
と、話を終えた。
ドーナツをぱくつく総司の頭をなぜ、洗濯物をたたみ始める。
 
お風呂から出た後で、まだリビングで遊ぶ総司の姿があった。時計はもう十時半を指していた。
「寝かせてって、パパに言ったのに…」
まだ半分ほど濡れた髪を耳にかきやりながら、子供のそばに腰を下ろした。ローテーブルには、新聞や折り込みチラシがばらばらと載っている。
総司はチラシの白い裏に絵を描いていた。車と人らしきもの。それに、なぜか和風の城がある。シャチホコっぽいものが見えるから、名古屋城かもしれない。
「パパは?」
「パソコン」
「ふうん」
もう寝るように促すと、「ママも描いて」と色鉛筆を渡してくる。早く描いて見せ、満足させた方が寝かしつけ易い。「何がいい?」と訊けば、
「安田さんのパパ」
「安田さん?」
隣りの家のご亭主だ。苦笑しながら、デフォルメを加えて手早く描いてやる。
「すごいね、ママ上手いね」
「さあ、もう寝ないと。明日、幼稚園に遅れちゃよ」
「ぶうぶう」
わたしの声などスルーして、箱のような車を描いては喜んでいる。きりがない。
「もう今日はおしまい。また明日ね」
テーブルの新聞やチラシを集めたとき、それは何気なく目に入った。新聞の下段によくある書籍の宣伝で、そこに知る名前が踊っている。
『真壁 千晶(まかべ ちあき) コミック最新刊!! 〜』。
「へえ」と思った。「新しいの、出るんだ」と。千晶は旧友だ。年賀状だけのつき合いになって、もう何年になるだろう。十年は経つ。
新刊の発売には、新聞の宣伝にばんと名が出るのだ。かなりの売れっ子と言っていい。
「頑張ってるんだ、あの子」
彼女の名を遠くから目にすることは、間々ある。何せ相手は人気漫画家だ。今日私が買い渋ったコミック雑誌にも、彼女の連載がある。
羨望や嫉妬心はない。忙しくしているんだろう、元気かな、と古い友の近況をちょっと思いやるばかり。他、「アシスタントに幾ら払ってくれるんだろう?」などと、下種なことを勘ぐってみる。
もし使ってもらっても、子供がいる主婦では、締め切り前の修羅場では役に立たないだろうけど…。
 
千晶とは、大学時代に知り合った。
その頃から向上心の強い女の子で、「絶対漫画家になる」と宣言していた。実際、なかなかに画力もあり、また上手くなる努力も怠らなかった。
ぼちぼちと趣味で漫画を描いていたわたしは、そんな彼女に半ば引きずられるように、同人活動になじんでいったのだ。
互いにオリジナルの漫画を描き、それを、コピー本やオフセットで合同誌として出した。サークル名は『ガーベラ』。千晶の好きな花の名前だった。
自分たちで企画し、漫画を描き、本を作り、即売会イベントに出て売る。今思えば、赤面モノの経験もあった。けれども、それはとてもとても楽しかったように思う。
しかも、二人で作った本は、信じられないほどよく売れた。イベントに出しても、冗談ではなく、開場ほどなく即完売することも珍しくなかったのだ。
売り上げ金は、きちんと折半し、きゃあきゃあ言って打ち上げにご飯を食べ、画材を買い、洋服を買った。また、うきうきと次のイベントのための費用にとっておく…。
『ガーベラ』を解散したのは、卒業のためもあるが、相棒の千晶のプロデビューが決まったためだった。
そのおこぼれでか、なんとわたしにも商業の仕事が来た。二三短編を描き、載せてもらったのを最後に、そこでわたしは、漫画を描くことを止めてしまった。
その理由は、いつもコンビだった千晶が欠け、気が削がれてしまったこともある。お祭り騒ぎだった同人活動の日々が終わり、拭えない寂しさに、ふっととりつかれてしまったとも言えた。そして、何か、漫画以外の事がしたくなった。
「要するに、飽きたのよね」
十三年もの過去を振り返れば、こうもあっさりあの時の迷いの答えが出てしまう。
それから千晶はプロの作家として精進し、名を上げた。『絶対漫画家になる』といった当時の夢を、果たして見事叶えたのだ。
片やわたしは、卒業後ほどなく結婚。夫となった人の転勤先について回りあちこちうろうろし、念願だった子供を産み、三年前にやっと東京近郊のこの街に落ち着いた。家を買ったのもこの時だ。
夫の転職が無事決まれば、家族三人健康なら、それでいい。何がほしい、何が足りないなど、多分ない。見つけられない。
 
けど……。
 
ふと垣間見る過去の、きらきらとしたまばゆさと輝き。思い出の美しさ、そのふっくらと充実した豊かさに、ちょっと息をのんでしまう。
嫌なことだって、いろいろあったはずなのに。
 
「何でだろう」
 
時間が経ち、油っぽく固くなったドーナッツをかじりながら、子供の書いた絵を眺めた。上手くはないし、数だってある。けれど、捨てるに忍びない。
明日、食器棚にでも貼ろうと、捨てるチラシとは別に置いた。





     


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