ふわり、色鉛筆
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洗濯機に入れる洗剤が、一回量にやや足りないことに気づく。ついでに、買い置きがもうないことも思い出した。
ま、いっか。
代わりに洗濯時間をちょっと多めにして、スイッチを入れる。威勢のいいのは、規則正しく回り始めるこの洗濯機の音ばかりだ。と、ため息の混じる吐息を繰り返し、午前の決まった掃除を手早く済ませた。
それが済めば、パートが始まる。
夫の昼食を用意し、自分の分も小さなお弁当箱に詰め、バックに入れた。時計は九時ちょっと過ぎたところ。夫はまだ寝室から出てこない。
彼の分の昼食が載るテーブルのお盆をちらっと眺め、腹立ちといらだちが、胸にもやもやとたまるのを感じた。
夕べ、総司が寝てから、彼と口論になった。原因は、夫のパソコンゲームだ。ネットゲームと言うのが正しい。
別に遊ぶのは構わない。ただそれが、気晴らしの度を過ぎていると感じてしまうのだ。
失業中、時間が自由になるのをいいことに、夜更けから朝方までそんなことに没頭している夫の姿が、理解できない。
昼間のわたしがいない間は、求職活動と幼稚園から帰ってきた総司の相手でふさがってしまうといい、
「金のかからない遊びなんだから、唯一の楽しみに、がみがみ言うなよ。息がつまる」
と、開き直る。宵っ張りの朝寝坊では、生活も乱れるし、いざ次の就職が決まったとき、不規則な毎日が習慣になっていれば、きっと障りもあるはず。それに、総司への影響も心配だ。
パパが、仕事もせず一日家にいるのは、事情だから仕方がないといえ、昼過ぎまで寝ているだらしのない状況では目も当てられない。
さっきこれ見よがしに、寝室で掃除機をがんがんかけてやった際も、起き出す気配がなかった。
「出かけてくるから。お昼、ハンバーグ、チンして食べてね」。いつもなら、この程度のことは声かけして出るのだが、今朝はそんな気にもなれない。
玄関で靴を履いていると、どたどたと裸足の足音がした。振り返らなくても、夫だとわかる。
立ち上がったとき、突然後ろから、はがいじめのように抱きしめられた。
「ごめん」
わたしは返事をしなかった。「いいのよ」なんて返す訳にもいかない。生活を改めてくれなければ、ちっともよくないのだ。
怒っているとでも思うのか、彼はもう一度「ごめん」と言った。
「昼から、ハローワーク行ってくるよ。新しい就職情報誌も買ってくる」
そこでわたしは、苦しい態勢で振り返った。「本当?」と問う。夫が自分からこんなことを言い出したのは、初めてだ。
「嘘なんかつくかよ」
目の前に、はにかんだようなちょっと「どや顔」の夫がいる。寝癖にもさもさした髪の下の表情は、まじめに見えた。そこに一年前までの、忙しい中技術職でいきいきとしていた、凛々しさのあった彼を思い出す。
そして、あの頃の彼に、何の不満もなかった自分を。
寝不足にやや充血した眼を見返し、
「ありがとう」
それだけで受け、「総司をよろしくね」と家を出た。
わたしや総司のいない昼の間も、彼がゲームをしているのでは…、という疑いは、このとき押しつぶして消した。
 
 
車を手放すことに決めたのは、夫がハローワークに通い出して、しばらくしてからのこと。車購入は、減税と補助金がセットになり各メーカーが盛んにキャンペーンを行っていた二年前だから、走行距離もそうなく、下取りの見積もりでは、思いがけず高値が付いた。
「もっと早く、さっさと売っておけばよかった」
そう軽くぼやくわたしに対し、夫は、何度も試乗し迷って買ったハイブリッド車に未練が残るのか、つまらなさそうにしていた。
あきらめるしかないと、それでもふっきり、乗り納めにドライブに行こうと提案してきた。
くさくさした毎日が続く中、たまのお出かけもいいか、とすぐに賛成した。総司も喜んではしゃいだ。
思えば、これがいけなかった。
ハローワークには通うようになった夫だが、例のネットゲームは続けていた。「夜明かしするほどやらないで」ときつく約束したため、深夜二時〜三時には打ち切っているらしい。
思うような成果がなくても、とにかく、あれほど渋っていた足を使った求職活動をしてくれるようになったことが嬉しく、わたしもそれ以上のことは求めずにいたのだ。
パートが休みの平日の午後だった。
家から三時間ほどの距離の遊園地に出かけたその帰り、国道でいきなり隣りを走る車に車体をぶつけられた。運転者はわたし。夫は助手席で舟をこいでいた。
気づいたときには、がつんといった衝撃があり、それに寝ていた夫も飛び起きた。
相手方のうっかりミスとはいえ、互いに走行中のこと。任意保険の負担比率は、こちらが完全にゼロパーセントにはならない。
事故の処理が済み、相手方が8.5のわたしが1.5の割合に落ち着いた。どうせ車も間もなく手放すのだし、加入の保険から支払ってもらえばいいと、楽な気持ちでいたところ、夫が自腹で払いたいと言い出した。「次、保険に入るとき、制約があるかもしれないのが嫌だ」という。
この先、車を購入する予定など、まったくない。
「こんなときのために保険じゃない、使わないと損でしょ」
「十六万くらい、何とかなるだろ?」
今我が家に十六万が、いかに大金であるか理解のない彼に、返す言葉がちょっと浮かばなかった。そのためにローンの残る車を手放すというのに…。
「だいたい、お前がぶつけたんじゃないか。文句ばっかり言うけどさ…」
さすがに言葉尻は弱かったものの、身勝手な言葉に、一瞬頭に血がのぼった。自分は寝ていたくせに。
「そんなお金どこに…」
反論したところで、夫はテレビを見ていた総司をそばに引き寄せた。「子供の前で金の話は止そう」と目顔が言う。そこだけは正論に、ふつふつと胸が不満に高まるを無理に押し込め、キッチンに逃げた。
これ以上の口論を、子供を盾に避けたようだった。底の見える夫の仕草に、食事の支度をしながらも、怒りがなかなか静まってくれない。
総司が寝た後で、きっちり話し合わないと。
いらいらと唇を噛んでやり過ごした。
 
 
夫を納得させ、何とか保険で修理費を捻出したが、事故車となったマイカーの下取り額は、当然がんと落ちた。その差額が、ほぼ修理費と変わらないところが、何だか皮肉でにくたらしい。
当てにしていた収入でもあったので、そのやり繰りに、またため息が出るのだ。
「二〜三枚なくなってても、わかんないんじゃないかな」
レジの札の束を手に、そんな軽口が出る。まさか盗る訳もない。人のお金は、現実的な感じがしないもの。
わたしのぼやきに、昼食帰りの社員の小林君が、ぎょっとしたような顔をして見る。
「本気にしないでよ」
「パートの盗難は、こっちの責任になるんだから、勘弁してよ」
「盗らないって」
昼のスーパーの店内は、ひと気がまばらだ。レジのチェックを終えたところで、小林君がレジカウンターに立った。プリンを一個置き、財布を探っている。
「高科さんなら、三十六に見えないし、きれいだし。こんなとこより、お金になる仕事、あるんじゃないの?」
七十八円のレシートを手渡しながら、「は?」と彼を見返した。
小林君は、にやにやとにこにこの中間のような表情をしている。若くて、造作がちょっといいから、嫌らしくないのが救いだろう。
そういえば、他のパートが、「あの子、○●町(風俗店が並ぶ)に入るところで見た」と噂していたのを、何度か聞いたっけ…。
わたしに風俗で働いた方がいいと?
「へへ」
悪びれない様子で、プリンを持って出て行った。
 
 
冷蔵庫から出したプリンのパッケージから、『半額』表示のシールを引きはがす。
三個連なったプリンの一個を、お風呂上りの総司に手渡し、もう一個を自分が食べようか、明日のおやつ用にとっておこうか、しばし悩んだ。
ま、いっか。食べちゃえ。
夜中にでも夫が食べるだろう、一つを残して、冷蔵庫の扉を閉める。
ドアには、以前総司の描いた絵が、マグネットで留めてある。シャチホコの載った、名古屋城のような城の絵だ。城のそばの木のようなものが、人であることに、今頃気づいた。ちゃんと手を持ち、その先には指もある…。縮尺がおかしいから、わからなかったのだ。
「へえ」
リビングから、吠えるような総司の声がして、それに機械的に応える。
何となく目が吸いつき、総司の絵をしばし眺めた。わたしもそうだった、と思い出す。幼い頃から好きだったお絵かきでは、何にでも大きく人を描きこんだものだ。
そして、それは自分を描いたものだったように思う。白い紙の真ん中で、建物より他人より、何よりも大きく目立つのは自分だった…。
なら、総司のこの絵の、でたらめに大きな人物は、あの子そのものなのかも。
そこには、子供の持つ憧れや願い、好き、といったきらきらした自我が、ちりばめられているかに見える。
不意に、胸の奥が、それとわかるほどに、とくんと大きく脈打った。二の腕から手首にかけてを、やんわりとしたうずきが走り、騒ぐ。
「マーマー」
奇声を上げてわたしを呼ぶ総司の声に、その場を離れた。一緒にプリンを食べようと、わたしを待っていてくれたらしい。
「ありがとう」
プリンの後で歯を磨かせ、寝かしつければ、一区切り。一日の終わり近くに、やっと自分の時間ができる。いつもは、少しだけのんびりとつかる湯船も、今夜はざっとで切り上げた。妙に気が急いて、時間が惜しい気がするのだ。
胸に、総司の絵を見たとき浮かんだ、ふわふわしたざわめきが、今も去らない。のぼせている訳でもないのに、頬が熱っぽい。
夫がネットゲームに興じているのにも、このときは冷静に眺められた。
「夜更かしは止してよ」
と声をかけたが、その返事も気にならない。
ダイニングの椅子を引き、掛けた。チラシの裏をテーブルに置き、その辺のボールペンを握る。何を描こうか、考えるより先に手が動いた。いつしか、うっすら広告の移る白い紙が、人物の姿でいっぱいになっている。
久しぶりに描くラフ画は、そう線に崩れがないのが自分でも驚きだった。ペンを入れたら、また変わるかも…。絵柄だって、やっぱり古いだろうし…。
自然そんなことを思う自分に、苦笑する。
「ペン入れだって…」
深く考えもせず、余った白い紙を、思うさまラフで埋めていく。そうしながら、ある問いが、胸をつんとついてせり上がった。
 
いつから、自分を真ん中に描けなくなったんだろう…?
 
それは、教わらずとも覚えた、羞恥やあきらめを含む成長だろう。気づいたときにはもう、私の描く絵には、自分らしき人物は登場しなくなっていた。
そして、描かれる側であるより、いつしか描く方をわたしは好んでいた…。
「若菜、まだ寝ないのか?」
リビングの夫から、間延びした声がかかった。はっと時計を見る。まだ十一時ちょっとだ。十二時を回らなければ、明日に障ることもない。
「うん、もうちょっと。総司の幼稚園の…」
言い訳が終わらない間に、「パートあるんだろ? 早く寝ろよ」と、夫の返しが来る。ゲームに、意識をとられているようだ。こちらに注意を払わないのが、むしろありがたい。
総司のおもちゃ箱から色鉛筆の箱を借りた。インクもペンもない。ペン入れは無理だとしても、どうしても着色くらいは試してみたかった。
描いていたのは、黒髪のどこかの国の王の姿だ。その彼にしどけなく寄り添う寵姫らしき女の姿…。背景の泉や暮れゆく空などを塗り絵のように楽しむ。色が入るたび、小さな世界がいきいきと浮かぶ。
誰が見るのでもない。求められている訳でもない。
思いつくイメージを切り取って描くことこそに、意味があるのだろう。
何らかの思いを、外に出すこと。日々、何かをやり過ごすためのため息に、ちょっと似ている。
でも、ため息とは違って、
ほら、心が弾む。
 
こんなにも楽しい。





          


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