ふわり、色鉛筆
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美馬君に誰であるのか訊かれ、隠すことでもなく、そのままを話した。元の夫であること、その彼が、若い女性と子供の三人連れで、まるで家族のように見えたこと…。
「総司がね、「パパ」って言ってたよ。小さい声で」
「そうですか…」
美馬君の相槌は、少し肩すかしだった。しかし、この彼に何を期待していたのか、とちょっとおかしくなる。見下す訳ではないが、彼の二十一歳という年齢では、こんな話題に口にする、適当な言葉が浮かぶはずもない。
家に帰り着くまでに、わたしは自分の思いを探ってみた。驚いて、元夫たちに目が吸いついた。それから、総司の声だ。それを聞いて、わたしはふっと気持ちが重くなったのを覚えている。
以前父が、沖田さんもいた実家の顔合わせで、総司は長く元夫のことを忘れないと言った。それが「親子の情」だと。普段の生活で紛れていたものが、あの存在を突きつけられた。総司の心の閉じた蓋が開いたように思え、父が消えた理不尽な事実に向き合うあの子が、わたしは不憫だったのか。
それもある。
だが、それだけではない。彼への愛情はないはずで、女連れであったのが原因でもない。そうじゃないのだ。
嫌だったのは、あの女性の横の女の子の姿だ。総司とさほど違わない幼児へ、元夫は笑顔を向けていた。それにわたしは気が滅入った。
腹が立ったのだ。
大怪我を負ったあの事件で、沖田さんなどはわたしがけろりと復活したように、ときにからかうが、痛みもショックもひどく、堪らない恐怖だった。忘れる訳がないし、過去に流してすっきりしているのでもない。思い出したくもないだけだ。
それほどに、気持ちの傷は大きい。どうにもできないこういう心の引きつりは、専門家が見れば、トラウマだと言ってくれるのかもしれない。
彼を見て、自分に残る怒りに、あの嫌な感覚が甦りもした。しかし、尾を引きそうなそれを断ち切ったのは、総司の声だった。「パパ」と彼を呼んだあの声だ。
そこで、わたしは別の思いをかき立てられた。どうして育てた総司を棄てておいて、別な女の子に笑顔を見せられるのか。新たな暮らしに、次の生活に、あっさりシフトチェンジしてしまっているあの彼に腹が立った。
 
どうして、総司ではいけないのか。
 
憎かった。
そんなもやもやが、いろはちゃんや美馬君が一緒の和やかなあの場で似つかわしい訳がない。作り笑いをし、総司の目を無理に逸らさせたのだ。あんな汚いものを見るな、と心で罵っていたのだ。
「…何人いてもいいんじゃないですか?」
美馬君の言葉に、彼を見た。それが、わたしが話したことへの遅れての返事だと気づいた。彼を見る。美馬君は窓へ肘を置き、暗い車窓を見ていた。ガラスに彼の顔が映る。
「僕は、実の父親とあまり縁がないんです。その代わりに、僕らへのつなぎ役の人がいました。僕を「ぼん」と呼んで、優しかったです。その人のことを父親だと思っていたこともあります。それに、気の強い叔母が父の役目を果たしてくれた面もあるし…」
現在のバイト先にも、兄というよりは、こういう風な大人になりたいと思わせてくれる年上の人もあるという。
「そういうのも、父親みたいな影響だと思うんです」
「へえ…」
うんと年上のわたしの方が、間抜けな相槌しか出てこない。彼は自分の経験や境遇は、レアケースだと言った。「人にも言えないし」と笑う。
総司と重なる訳ではないが、彼は縁の薄い実の父親を、子供心にどう思っていたのか気になった。
「実のお父さんをどう思っていたの? あんまり会えなかったんでしょ?」
「ごくたまに。正月とかそんなときに会いました。数年続けて会えなかったんで、母に訊いたら「旅行」だって言うんです。もっとずっと後で、懲役をしていたと知って、あ然としました」
「え」
「…子供だったからかな、影響も薄いし、だからか、あんな世界の人でも憎むことはありませんでした。会えないっていうのは、悪いことばかりじゃないと思います。その分、美化する面もあるけど、いつの間にか、あきらめみたいな距離が生まれるんです…。僕の父親の中ではランキング最下位ですよ」
彼はちょっと笑う。複数の父親対象を持ち、それを心でランク付けするというのは、意外で、やや驚いた。最下位に位置付けておけばいい、だから、何人いたっていいじゃないか。彼はそう言うのだろう。
懐の広い人だと思った。ここに至るまで悩んだろうし、打ち明けられず、人との違いに疎外感も持っただろう。その果てに、強いこんなかっこいい男の子になった。
それは奇跡でも何でもなく、彼本来もので、努力だったろう。総司に、こんな力が欲しいと望んだ。
「きちんとした家庭の人から見れば、欠格とか落第とかそういう人間なのかもしれないけど、それで、自分も捨てられないし、あきらめられないし…」
「こら」
何となく彼の腕をつかんで、ぎゅっとつねった。彼には、そんな卑下する言葉を自分に使う理由がない、責任がない。
「すごいね、美馬君。外見だけじゃなく、中身もかっこいいんだね。目も心も潤すホストになれるよ」
「ホストって、また…」
「お母さん、素敵な人だったんだろうね、美人で優しくて、いいママだったんだ…」
「見た目、雅姫さんにそっくりですよ。顔の骨格も似てるからかな、声まで一緒に聞こえる」
「へえ、じゃあ、わたしに似たのか、君は」
「ははは、血のつながらない親子もいいですよ。平気で息子にホストを勧められる。あ、すみません。僕みたいなでかいのじゃ、雅姫さんが若いのに気の毒ですね」
「ううん」
わたしは笑った。
元夫の話がきっかけになったが、ここまで自分をさらしてくれる美馬君は初めてだった。総司を思って、自分のことを参考にしてほしいと思ってくれたのかもしれない。それでも思いがけないもので、やっと心を開いてきてくれたのかと、嬉しかった。
彼はこれまで、用心しいつき合う人を選んできたのだろう、そう思った。だから、きっと色々条件のいい都内の大学ではなく、他県のそれを選んでいる。それでも、周囲に身の上話は避けて来たのではないか。
避けて堪えた分、吐き出してしまいたい欲求は強いはず。成長し大人になり、きれいに気持ちを処理したかの彼の、母親を求めた意味に、ちょっと触れた気がした。
恨みごとではなく、怒りでもなく。
それは甘えだろう。
辛かったと、我慢したのだと、ただ訴えて、弱音を吐きたかったのかもしれない。面影の通うわたしに彼が親しんでくれるのは、母に似るその顔を見、思い出の母へ言葉に出来なくとも、胸の内で、叫びたかったのかもしれない。
頑張って来たんだと。
「強い子だね、美馬君偉いね」
母親ぶって、こんな言葉をかけたのではない。言いたくて、そして彼も一番望むものだろうと思ったのだ。
彼の涙には、遅れて気づいた。知らない振りで済まそうかと迷った。しかし、美馬君が手の甲で目をこすりながら、照れたように笑った。
「雅姫さんが言うなら、ホストになろうかな」
可愛いと思った。こんな息子を持てる母親は、とても誇らしく幸せだろうと思う。しかし、その役がわたしに、荷が勝ち過ぎているのはわかる。ただ、これまで通り、彼の前で何気ないわたしでいよう、そう誓った。互いにそれが、一番居心地がいいだろうから。
「割り引いてね。いろはちゃんと行くよ」
と笑い合った。
 
 
実家に用があり、総司を連れて帰ったときだ。ダグに会った。近況を告げるついでに、ふと美馬君のことを話してみた。出自の詳細は言わず、複雑な生い立ちの悩みを、彼なりにどう昇華していったのかを言う。
「目から鱗っていうか、心配しなくてもいいんじゃないかって思えたよ」
「そうだろうね、放っておくのは論外だけど、若菜が気を揉み過ぎるのもよくないね、君にもソージにも」
そして、美馬君のことを「宝物みたいな青年だね」と評した。なぜか嬉しくなり、「こんな子だよ」と、ケイタイの写真を見せた。いろはちゃんとのツーショットだ。それをのぞいたダグが、ちょっと首を振る。
「何?」
「薫も心配だね、君や妹の側に、こんな目が吸いつくようなきれいな子がいたら」
と笑う。笑いながら、「美樹には見せないで。本物が見たいと騒ぎ出すから」
確かに。
姉は、結婚前に有志と美僧が目当てのサンガ巡りをしていた人だ。それでダグを捕まえた勇者でもある。この美馬君を見たら、きっと「わたしにも会わせてよ!」ときんきん声を出しそう(彼は僧侶ではないが、この美形なら姉の守備範囲だ)。
日常をこなしながら、怪我以来、休みがちだった同人を再開した。書き溜めていた物を集めて手を加え、薄い新刊を出す。これはネットと桃家さんが出るイベントに委託販売をお願いした。せめてものお礼にと、彼女の新刊の挿し絵と販促用ノベルティのイラストを描かせてもらった。
『友だちだから、お返しとか、大げさに言いたくないんだけど、うちにいらっしゃいよ。こじんまりとでも心の温まる、ごく身内の小さな集まりをするから』。
そもそもこっちがお返しのつもりなんだが。以前にも彼女には豪華なお邸に招かれもしていたから、これは咲夜さんを誘い、総司も連れ伺った。
帰ってその話をしたら、いろはちゃんが身をよじって内容を聞きたがった。「同人界噂の『奇跡のトリオ』の、新たな萌えのマリアージュについて、どんなお話をしたのか触りだけでも、教えて下さい!」
彼女は色んな新語を作るが、今度も笑った。萌えって、マリアージュしちゃうんだ。話したことって、下品なBL話を咲夜さんが始め、それを桃家さんが美麗な言葉で言い直し(内容はは変えず)、わたしがやっぱり下品な言葉で返す、みたいなどうでもいいことばかりだ。楽しいんだけどね、本人たちは。
そんなことを言っても、いろはちゃんは「そうやって、言葉の遊びから、次なる万人に訴える萌えを生み出していくんですね。さながら宮廷のサロンのようです!」
「いや、BLは万人に訴えないよ、きっと。ははは」
その際に、咲夜さんとの合同本の話もつき、またわたしはせっせと描き出している。千晶が三枝さんの会社との契約切れを機に別の出版社から出した「彼女の同人誌」も売れている。わたしはその数ページに、彼女の過去の相棒としてお邪魔させてもらうが、その反響が結構すごくて、驚かされた。
自分の宣伝用のブログには、そのコメントであふれた。たまに悪口めいた批判もあるが、概ね好意的に捉え、「久しぶりの商業誌ですね。今後のご活躍、お祈り申し上げます」などの嬉しい言葉が多いのだ。
商業誌か…、と千晶の活動の場が、自分には遠い世界に思える。今回は本の趣旨にも合い、彼女のコネで描かせてもらったが、その威光で描くのはこれで最後にしたいと思った。千晶にだって、わたしのために自分のネームバリューで雑誌の誌面を割かせるようなつもりもないだろう。
それとは別で、例えば、「本の挿し絵を描かせる人が欲しい」、そんな話を彼女がもし拾うことがあれば、投げてくれれば喜んで引き受けたいと思う。こんな曖昧な線引きはおかしいのだろう。だが、わたしの中では譲れない気がする。
それには、長くブランクのあったわたしの描くものが、商業誌のレベルには達していないとの冷めた判断もあるのだ。
ペンに積もった埃を払い描き出して、BLを始めた。人真似をして売れるジャンルで創作をし、その狭い世界では認めてもらえている。ちょっとコアで、読む人を選ぶようなものを作ってしまうのは、同人での売れを意識もし、そしてわたしの好みの傾向なのだと気づいた。
しかし、それでは商業作家としては幾つかが足りず、無理だと思うのだ。
楽しんで描いている。そして、それなりに稼げてもいる。沖田さんに寄りかからなければ、とても先行き不安だが、家計にも入れ、総司にしてやれることや自分の身の回りには十分だ。
何より、それでわたしが満足してしまっていることが大きいのかもしれない。あきらめではなく、納得だ。そんなわたしには、同人という形がぴったりと合っている、そう思う。
そんな話を、沖田さんにした。そういえば、この彼はわたしには一度もマンガの仕事をあてがってくれたことはない。コネならたくさんあるはずなのに。職を持って来てくれたことはあるが、あれは事務とか別種のものだった。復活したわたしの描くものが、売れるプロのレベルにはないことは、目のある彼にはわかっていたようだ。
わたしの自己分析には触れず、
「お前は何より、欲がない。これに尽きる」
その後で、好きにしたらいい、と言う。「儲けはもう考えずに、好きなことを好きなだけ描いたらいい。それを欲しがる人はたくさんいる。プロになるのが全てで、そんなのが作り手のゴールでもないだろ」
嬉しかった。この人は、どうしてわたしの気持ちをこんなにも理解してしまうのだろう。当たり前のように、それをさっと差し出してくれる。
だから、彼が好きなのかもしれない。
魅かれた理由なら、他にもあるはず。でも困ったとき、泣きたいとき、嬉しいとき、そして恥ずかしいようなときにも、この人はわたしを正しく受け止めてくれるのだ。
出会ったのは、十三年も前。同人遊びに夢中で、勘違いした思慮も足りない女の子だった。それでも好きでいてくれたと言うが、わたしはそれに気づきもせず、いつもどこか別の場所を見ていた。
再会してからは、出戻りの同人女と元編集者。昔と立ち位置は似ているのに、前とは違う距離で向き合うことが増えていった。わたしは徐々に彼に気持ちが傾いて行ったが、彼はどうだったのか。
昔好きだった女が、歳を取りちょっとやつれて苦労している、そんな図に、同情心を刺激されたのかも…。
二人になったときだ。なさそうで、そんな時間は結構ある。休日の買い物帰りの車の中や、眠る前の静かなひととき…。千晶の家からの帰りの車中で彼に訊いた。どうやって、またわたしを選んでくれるようになったのか。総司は後ろの席で眠ってしまっている。
昔は、彼が自分を好きだなど知りもしなかった。知ったとしても、興味を持ったかどうか。「へえ」と笑ってそれに紛らせておしまい。そんな気がした。だが今は知りたくて、彼の言葉をちょっと息をつめて待つのだ。
「次作のネタにでもするのか?」と空っとぼけようとするから、腕を軽くつねった。
「けち、教えてよ」
「どこがけちだ。要らないと言われても指輪を買ったし、さっきバンパー擦っても、文句言わないし…」
「ごめんなさい、バンパーはちょっと見切りを誤って…。へへ…」
彼はわたしの頬に触れ、「いいよ」と言う。「定期メンテのついでに直してもらうから」。
「ごめんね、ありがとう」
「何の話だっけ? 総司の遠足の話か?」
してねーよ。
わたしは、違う、ともう一度問いを重ねた。再会して、どうしてわたしをまた選んだのか…。
「言ったことあったぞ、前に。忘れたな」
「そうだっけ?」
「お前しかいなかったんだよ」
「だから、どうしてそうなるの?」
「いきなり家に現れて、俺がどれだけびっくりしたか…。同人再開したって言うし、何か訳ありっぽいし…。変なシャチョーとか、『アタシのチ○コを忘れないで』とか…」
確かにあった事実だが、自分に関わることだけに、その羅列には耳を塞ぎたくなる破壊力がある。
しかし、『アタシのチ○コを忘れないで』…。覚えていたのか、沖田さん。ちょっと忘れ難いだろうが。
彼は「まあ、とにかく」と強引にまとめ、
「焼けぼっくいに火が点いたんだ」
「今度はあきらめなるのは止めた」とつないだ。以前はあきらめたのだろうか。その気のないわたしに、彼の気持ちが冷めたのかと思っていた。
相槌も打たないわたしに、
「前はあきらめたんだ。これと言って何もしなかったけど、無理だと思った。すぐにお前も結婚を決めてしまったし…」
ふうん、と相槌を打ってから、「でも」と彼に問う。
「人妻だったよ」
「でも、決めたんだ。今度は絶対あきらめないって」
その言葉に心がしんとなった。何気なく彼は話すが、そうではない。それは重みのある大きな告白だ。ちょっと言葉が見当たらない。
しばらく黙って、彼を見た。
「おっさんの純情は気色悪いだろうが、年を取るのは悪いばかりじゃないな。雅姫に対しても、前にはない余裕もあったし、出来なかったことができる。それに、実のところ振り向かせる自信もあった」
やや傲慢にも取れる物言いは、気にならなかった。彼の自信には実体があるから。ただ、自分が、それほどに触れなば落ちん、といった物欲しげな様子だったのかと、恥ずかしくなるのだ。彼は、そんなわたしを元夫との違いに目がくらんでいるとは思わなかったのか。
「わたしがお金目当てだとか思わなかったの? 沖田さん」
「それでもよかった」
「え」
驚くと、彼は「シャチョーのお手当ての誘いを断っといて、何を言ってんだ?」と笑う。忘れていたアレを思い出す。ああ、そんなこともあったね。
「でも、揉めたりして、こんなに早く離婚できなかったかもしれないのに?」
「いらいらしながらでも待ったよ。それも年の功だな」
黙ったわたしの手を彼が握った。「今までがどうであれ、俺たちはこうなったし」と、ちょっとだけ後ろを振り返り、
「総司もいる」
そうだね、とわたしは短く返す。嬉しかった。感激に気持ちが昂ぶった。この人が好きと、つきんと胸を感情が衝いてくる。握ったままの手を引いて、口元に寄せた。
そんな甘い仕草のまま、最前会った千晶のことをちょっと話した。つわりもなく元気そうだったことや、千晶の勘は女の子だと感じているようなことをわたしが言えば、彼は、わたしに手を預けたまま、彼は三枝さんが今では彼女の家にしょっちゅう顔を出すようになったことを言う。ちょっと苦い顔で「すっかり元鞘だな」。
「でも、来てくれれば千晶だって頼もしいし…」
千晶の前ではしなかった話になった。
「奥さんと話したよ。条件付きなら認知を認めるそうだ」
「条件って?」
「「社長夫人にしてやる」って三枝さんが約束したら、認知も許すそうだ」
「なれるの? 社長に」
「さあな、一応派閥もあるし、どう転ぶかわからない。それに、なれなくたって、いいんだよ、奥さんは」
そうだ。奥さんは約束したら、とのみを条件にしている。社長になれるなれないは、関係ないのだ。どうしてそんな条件を出すのか。どうでもいいのなら、言う意味がない。
長い夫の不倫に目をつむりながら、自身の病気も乗り越えた人だと聞く。裏切られ続け、なぜ離婚しなかったのか。そこには奥さんにしかわからない感情があるに違いない。意地、または見栄など体面的なことを憚った末の選択かもしれない。
どうであれ、三枝さんはもちろん、千晶もまた謝罪をしなくてはいけないだろう。別れを選ばない奥さんの非を、逃げてばかりの三枝さんは責められない。
「寛大な人だよ。三枝さんは、あの奥さんに甘え過ぎてる」
彼が「見くびっている」ではなく、「甘え過ぎてる」という言葉を使ったことに、会うこともない、その人となりがふと浮かぶ。名門出であり気位は高いその人は、夫の部下などには細やかに気を配り、親しみを見せるのだ。病気にも人にすがることはない。そして帰らない夫を待たずに颯爽と暮らしている…。
強く弱みのない人に思われるが、そんな人などいない。どこかできっと苦しんでいるのだ。それは奥さんにとって、既に過去のものかもしれないが。
「どうしたって、社長にならないといけないね。何が何でも。奥さんの条件は叶えて見せないと」
「え」
「ならないと。それだけは叶えてあげないと」
繰り返すわたしの言葉に彼は何を感じるのか、そうだな、と頷いた。重ねたままの手を、彼は何となく振った。
わたしたちは、人の話をし、いつもの日常を語り、どうでもいいことに笑う。
まだ籍も入れず、なのに家族の形を作り生活している。ちょっとした違和感には怯えもあるが、それを新鮮な刺激と捉えられなくもない。ふと、沖田さんではないが、それも「年の功」なのかも、とも思う。
子供の面倒を見て、家のことを済ませれば、自分の好きな同人の仕事に時間を割く。その間には、煮込み料理の具合を確かめに何度かキッチンにも立つ。ちょっとしたことに、わたしはいろはちゃんと相談したがるが、それを彼はあんまり気を使わなくていいぞ、とたしなめる。「自分の妹みたいに思えばいい」。
気を使っていないというのは嘘だ。遠慮もある。でも、わたしが鈍感なのか卑下もあるのか、彼女の存在に圧迫感がないのだ。ただ、教えてもらいたいという気持ちが湧く。知りたいのは、彼女と彼とが、培ってきたこの家の空気感やこだわりを含んだ雰囲気だ。説明の利かないそれらを、わたしは彼女から自然に吸収したいと願う。
そうやって、自分と総司がここに溶込んでいけたら、と思うのだ。何かを、わたしが持ち込むのではなく…。彼らと生活を始めて、そう感じるようになった。
以前、わたしは大きな決断で、元夫ではなく沖田さんを選んだ。そのことを、功利的だとどこかで感じ恥じてもいた。その気持ちは今も多分小さく残る。だが、立つ場所が変われば、景色が変わる、そこから見えるもの、感じることも違っていっておかしくはないはず。
同人を始め、自分でやろうと動き出したときから、わたしはそれ以前のわたしとは別な場所に立ったのだろう。そこでの新しい景色に、気持ちが動いていったのだ。
だから、いいじゃないか。そう思う。偽善的な罪悪感を持つわたしに、かつて千晶があっさり言ってくれた。「いいじゃん」。きっとあれでいいのかもしれない。
ゆるく、ゆるく。
そうであるなら、元夫もどこかで立つ場所が変わり、見えるものが変化した。そうして、わたしたちはすれ違い、いがみ合い、とても嫌な別れ方を経験することになった。
 
立つ場所、見える景色が違ってしまっただけ。
 
そう考えれば、少し楽になる。少し前、元夫へ持った怒りをも、忘れることはないが、そういうものなのだと捨て去ることができる気がする。互いに見るものが違ってしまっただけ。それだけのことなのかもしれない。
 
ゆるく、ゆるく。
 
 
その日は、約束の時間に遅れないよう、すごく気を張った。千晶に以前回してもらった挿し絵の仕事の件で、本を書く大学教授の研究室に向かう。
わたしのイラストは千晶を経由して、既に数枚見てもらい、OKをもらってあった。今回の訪問は細かな打ち合わせだ。挿し絵程度にそこまで、と思ったが、ある章の内容の一つを短いマンガで描いてほしいとの先生の要望だ。なら、詳しく話をしなければ無理だった。
大学の最寄り駅で降りる。華やかで可愛い女子大生たちとすれ違った。お嬢様大学と有名で、同じ女子大でもわたしや千晶が卒業したところより、一つ二つはレベルが上のはず。初対面の、しかも仕事をいただく教授にお会いするというので、服装から困った。
迷った挙句、このためにブラウスに膝丈のスカートを買い、合わせた。どうでもいいが、沖田さんには大好評だった。
研究室の集まる棟に入り、壁の案内図を見て目当ての部屋に向かう。二階の208室矢嶋藍子教授…。近世社会女性学がご専門…。頭でつぶやきながら歩いた。
ほどなく208室に着く。ケイタイで時計を確かめ、息を整えた。ノックする。すぐに返しがある。
「失礼します」
余所行きの声を出し、静かにドアを開けた。中は八畳ほどのスペースの両サイドに作り付けの書架があり、ぎっしりと本が詰まっていた。手前に手軽な応接セット、そして奥のガラス窓を背に教授のデスクがあった。
「どうぞ、お掛け下さい。ええっと、下のお名前でお呼びしてよろしい? 女性は旧制・結婚性、ややこしいでしょう? そうさせていただいてるの」
立ち上がり、椅子を勧めてくれたスーツの女性にわたしは目が吸いついた。同じく、相手もわたしを認め、顔を強ばらせている。
 
タマさんだった。
 
以前、同人の資金稼ぎにやっていたやばいバイト『紳士のための妄想くらぶ』のバススタッフ仲間!! 
あんなフィールドワークを自らやるのか、この先生は。そして、何の調査だ。
しばし驚きを十分に味わった後、まだその余韻の残るわたしへ、タマさん…矢嶋藍子教授は、艶っぽくぬれるように笑う。
ああ。若いファンを虜にさせた湯気に香る『超熟』の声が甦る…。
 
「スミレちゃん、だったわね。あなたとなら、色々気が合いそうだわ。よろしくね」
 
人生って何があるかわからない。
でも、こんなに楽しい。
気が抜けたようになり、そして心の底からおかしくなった。
 
 
 
 
 
(長らくおつき合いをいただきまして、まことにありがとうございました)




         


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