ふわり、色鉛筆
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パート勤務では、昼食時間に三十分休憩がもらえることになっている。
いつもなら、おにぎりに総司のお弁当の余りなどを詰めた適当なものを持ってくるのだが、この日はそれを作り損ねていた。
朝のバタバタしたときに、夫が妙なことを言い出すものだから、つい「ふうん」と彼の話に耳を傾けてしまったからだ。
「隣りの安田さんの奥さん、最近お前に避けられてるって、困ってたぞ。「もしかして、何かしたのかしら?」って、気に病んでる風だったから、俺から謝っておいたよ」などと言うから、
はあ?
と、夫をまじまじと見返した。つい先日、回覧板を隣りに回してくれた際、話す機会があったという。
彼には、いちいち安田さんの奥さんに無視される…の云々の話はしていなかった。あまりに子供っぽいし、家に入ってしまえば、もうそんなことすら忘れてしまっていたからだ。
「保険を解約しなくちゃならなかったのは、こっちの都合だし、それが面白くないからって、隣近所に挨拶も止めるようなことしないでくれよ。安田さんは、理由がそれなら、「しょっちゅうあることで、ちっとも気にしていないから」だってさ。「そもそも保険を止めるも入るも、お客様の側のまったくの自由なんだから」って、さばさばして言ってくれたんだから、な」
 
はあ?
 
夫の言葉に呆れて二の句が継げなかった。
「四十いってるように見えないな、きれいだし」
女優の誰それに似てるな、と付け足した。ほんのり鼻の下が伸びているのが知れる。
営業の仕事柄か、身ぎれいにして華やかなファッションが多い安田さんの奥さんは、確かに目に立つ、雰囲気美人だろう。年中ジーンズにカットソーかTシャツ。それに手抜きメイクのわたしに比べれば、はるかに女度が上に違いない。
「それ違う。解約するとき、わたしは謝ったのに、安田さんの奥さんの方が、今も根に持ってるみたいなんだって。挨拶しないのは向こう」
言い返しても、夫は「まあまあ」と、わたしをなだめ、
「どっちにしろ、向こうは謝ってるんだから、な? いいじゃないか、もう」
よくねーよ。
大体、謝ってなんか、ないだろ、向こうは。
こういう、どっちのグループの女子にもいい顔をする男子が、クラスに一人はいたようなことを、何となく思い出す。不快で、未熟な処世術めいたものだった。女は少女の幼稚さを引きずるというが、男だって少年の頃の狡さをしっかり隠し持っていると思う。
面白くなかったが、これ以上あれこれ言うのも馬鹿らしくて、文句を引っ込めたのだ。
そんなことがあり、お弁当の代わりにパンを買おうとベーカーリーをのぞく。焼き上がりのおかしなパンなどを、従業員には半額以下で売ってくれるから、それを当てにしてきた。
「高科さん、あれ、お弁当ないの?」
「うん、安いのない?」
ベーカリーの担当者が出してくれた、すっかり土偶のようになった『ビキニパン』(ビキニを模したパン。卑猥な形に定評がある)を二つ買い、百円を払った。そこでアナウンスが流れた。店長らしい声は、わたしを呼んでいた。
どきりと、嫌なように胸が鳴った。こんな呼び出しは滅多とないから、すぐに総司に何かあったのかと、幼稚園からの連絡かと、その思いが頭をよぎる。
急いで、呼ばれた社員室に行けば、極めて平和な様子で、店長が、
「急で悪いですが、これから本社へ向かって下さい。タクシーを使っていい許可が出ていますから、領収書をもらって、総務へ出せば、返金が受けられます」
ぽかんとした顔をしていたのだろう。
「社長がお呼びなんです。まさか、高科さん、忘れてないでしょうね。本社見学ですよ」
ああ、
そういう、まるで罰ゲームみたいな申し出が、確かあった。
気が乗らないのと、パートの身でそこまで…、という怠惰な理由で、店長の問いをずるずるかわしてきていたのだ。
本社ではわたしの返事を待っていたらしいが、なかなかそれが上がってこないので、あちらの都合で、急遽本日、となったらしい。
「残念ですが、高科さんの好みで「印・洋・中いずれかの弁当の指定」は、急なのでもうできません。あっちで出されたもので我慢して下さい」
「はあ…」
残念なのは、ビキニパンだ。
 
 
着替えてから、店長の呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。本社を出れば、直帰してもいいとのことで、それだけがちょっと救いになった。
何をさせられるんだろう。
昼のやや混んだ道を二十分ほど揺られて着いた本社は、意外と大きく立派だった。十二階建ての自社ビルの、上から三フロアを『マルシェあたらしやグループ』が本社として使い、他をテナントに貸し出している。美容整形、歯科、エステ、旅行会社、…などなどが入るビルを十階に上がり、受付で指示された通り名乗った。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
紺の制服に身を包んだ女性が、先に立って奥へと案内してくれる。パーテーションのある応接室に通され、そこでお待ち下さいという。
ほどなく、別のスーツを着た女性の手でお茶が運ばれた。室内はちゃんとした会社の施設らしく、几帳面に整っている。制服の受付女性もそうだが、スーツの女性らのかっちりとしたオフィシャルな姿に、そして、社内のお堅い雰囲気に、少々気後れしてしまっている。
着古したジーンズと洗濯褪せしたTシャツで跨ぐような敷居ではなさそうだ。
ああ、やだな。
せめて、もうちょっとましな服だったらよかったのに…。裾に小ちゃくできた、もう取れない薄いコーヒーじみを見つけ、恨めしく指でこすってみる。
手持無沙汰で、出されたお茶を飲んだ。びっくりするほど薄い。お湯と出がらしの中間のような代物で、とても人前に出せたものではないだろう。乏しくて、ピーピー言っているわたしですら、家でこんなものは飲まない。
パートとはいえ社内の人間だ。お客でないのだから、いいお茶を出してやる義理もない。嫌がらせでも何でもなく、先ほどの女性たちも、これと同じものを日常飲んでいるのかもしれないし…。
ま、いっか。
湯呑のふちに、塗っていたリップクリームが残り気になって指で拭った。その指をハンカチで更に拭う。そこで、隣りのパーテーション越しに、ごとっという音がした。
ぎょっとなって目をやると、いきなりそのパーテーションが、ずるずると床を擦り動き出すから驚く。
え?!
陰から現れたのは、中年のスーツ姿の男性だ。立ったまま男性は、わたしを睨みつけてくるから、意味がわからなければ気味も悪い。
「あの…」
何か? と問いをつなごうとしたところで、その男性が、いつか店の方で見た、あの社長本人であることに気がついた。「あ」と、声が出そうになるのを堪え、立ち上がる。一体、この人、ここで何をしていたんだろう?
「神明駅前店のパートの高科です。あの…、今日はこちらに来るように、指示を受けまして…」
「あんた、遅いだろ」
そこでまた、ぎろりとわたしを睨む。「すみません」と一応は詫びたものの、時間を約束した訳でもないし、道が混んでいたのは、わたしのせいでもない。
社長はなぜかふふんと笑った。むつっとした厳しい相貌が、それで、ハスキー犬がべろを出して、笑みに似た顔をするみたいに見えた。
部屋を出るように促すから、先に立ってドアのノブを握ったとき、愛想のない声が、
「あんた、姿がいいな」
と言う。
は?
「先月、イタリアに行ってきた」
だから?
それ以上の説明がないので、脳内で補完するしかないが…。多分、女性をやたらと褒めまくる印象の、あちらの男性の習慣にあやかっている、というほどの意味なのだろう。…多分。
だから、何?
 
本社の見学、という話だったが、社長は社内をろくに見せもしなかった。説明もなく、指さしで、あちこちを指し示すだけ。
挙句、何をする気か、屋外階段から屋上へ上がる。貯水タンクと設備用の小屋の他、がらんとした屋上の中ほどに、妙な光景が見えた。
キャンプ用の簡易なテーブルとイスが、二脚セッティングされている。敷いた赤いギンガムチェックのテーブルクロスが、風にぴらぴらとなぶられていた。
座るように促され、向かい合う形で椅子に腰を下ろした。
テーブルの上には、魔法のランプに似た形の容器に入ったカレー、冷めて固そうに見えるナン、ありふれたトマトのサラダと、パイナップルの浮いたどろどろしたヨーグルトっぽい飲み物が、それぞれ二人分載っている。店長の言っていた、「印・洋・中のいずれかの〜」の印がここにあるのだろう、きっと。
しかし、よりによって、屋上で昼食を摂る理由は? しかも、社長が一緒の理由もわからない…。
なぜ?
が、ここまでに頭にあふれるように渦巻く。
「あの…」
「さ、遠慮せず」
そう勧められるが、食欲がない。健啖に頬張る社長の手前、真似事のように口をつける。生ぬるいカレーがまた、泣きたくなるほどに辛い。
「カレーは外に限る。部屋で食うと、しばらく匂いがこもって敵わない」
ああ、そういうことですか…。
気まずい食事の中、社長はここにきて、とってつけたように会社の沿革などを話し始めた。夜学を出て、苦労して今の会社を築いたこと、そして、ライバル他社とのし烈な売り上げ競争のこと…。
ときに、カレーから視線を外し、フェンスの外の景色を眺めて見せる。さりげなく、成功した自分をアピールしているのを感じたが、事実であるので気にもならなかった。
つられてわたしも視線を流してみる。サラ金とサウナの大きな看板が目に付くが、それほど悪い景観でもなかった。
話しながら、わたしへ「これも」、「あれも」食べろと勧めるから、ありがたそうな話を、ナンを口からはみ出させながら聞いた。
(社長の)食事がほぼ終わり、彼はフルーツ入りのラッシーをすすった。旨そうに頷き、白くした唇を紙ナフキンで拭き拭きし、
「ちょっと報告を聞いたが…」
「はい」
「わたしとの仲を同僚に誤解させるような言動は、慎んでくれないと困る」
「はい?」
意味がわからない。
訊けば、以前わたしが、同じパートの山辺さんにシフトの変更を強要され、それを断った際に、「今度、社長に直談判する」と言い、突っぱねたことを指すようだった。
そんなこと、すっかり忘れていた。
些細な声でも上にあげるよう徹底している、風通しのいい会社なのだ、と社長は自慢げに言う。ちなみにその声は、社内に置かれた「目安箱」に入っていたのだという。
そういえば、あの場には、社員の小林君がいたっけ…。
誤解って、誰がするんだろう。それほど周囲の目を気にするのなら、敢えてこんなとこに呼ばず、わたしなんか放っておけばいいのに。
何なのだろう、この人。
白けた気分になりながらも、相手は社長だ。形だけ詫びた。
「そんな意味じゃありません。あんまりしつこくシフトの変更を求められたので…。でも、社長のお気に障ったのなら、お詫びします」
「気をつけなさい。知られなくていいことは、わざわざ知らせてやる必要もない」
「はい?」
社長はそこで身を屈ませ、足元の何かを取った。社名の入った紙袋だ。わたしへ差し出し、持って帰れと促す。
社内案内程度の粗品だろう。一応礼を言って受け取った。
 
本社を出て、まだ一時ちょっと過ぎ。思いがけず、時間が空いた。
どうしようか、と迷う。すぐに家に帰る気にはなれなかった。掃除くらいしかすることがない。
とりあえず駅へ向かった。
電車を待つ間、手持無沙汰で、ベンチに掛け、もらった紙袋を開けた。意外にも、中に社内パンフレットなどはなく、代わりに長方形の箱がある。包装紙のロゴに「え」となった。
縁がないが、わたしでも知る高級ブランドのマークだった。
開けるのをためらい、振ってみる。そう重くもない。大きさから、財布か小さめのバックだと思う。思い切って包装を解いた。
現れたのは、ビーズがいっぱいにあしらわれた、黒いクラッチバックだった。パーティーに持てば映えそうな、華やかなものだ。
バックの入った箱の他、卵のパックが一つ…。そこで電車が来た。バックを紙袋にしまい、電車に乗り込んだ。
昼の車内は空いている。座りながら 膝に乗せた紙袋をどうしようか、と考えた。卵のパックは、もらっておけばいいだろう。
でも、値の張りそうなブランドのバックは、このまま手元にあるのは怖いような気もする。第一、もらう理由がない。社長にすれば、大した金額でもないのかもしれないが…。
幾らほどする物なんだろうか。ブランドのネームバリューから、おおよその見当をつけてみる。おそらく、十万円はするのじゃないか…。
これを箱ごと、ブランド品の買い取りの店で売ったら、そこそこの値がつくだろうな。定価の半値はもらえるかもしれない…。
それだけのお金がもしあったら、印刷所で製本した『スミレ』の本を、次の同人誌即売会で出すことができるだろう。
 
もし……、
 
降りる駅がアナウンスされた。そこで白昼夢は、ぷつりと途切れてしまう。
軽く首を振り、電車を降りた。
嫌だ、嫌。もし、このバックをもらったままにして、その後何かを強要されるようなことがあったりしたら、面倒だ。何か、今日の社長の言動も、ちょっと、なかなか、おかしい感じだったし。
やっぱり、この品は礼だけ言って、きちんと返してしまおう。
駅の外には、普段は自由のない、昼下がりの明るい光景が広がっていた。学生やサラリーマン、年配の人、幼児を連れた主婦…。それぞれ、目的を持って動いている人々の流れを前に、手持無沙汰にちょっとぼんやりとしてしまう。
バックにちなんで、無駄な夢想をしてしまったせいで、よりむなしくなってしまった。無性にお金がほしい事実ばかりが、心に浮き彫りになったよう。
どうしようか、これから。
ぽかりと空いた、自由な時間だ。
機械的に、家路への、駅前の商店街へ歩を進めながら、以前のイベントの帰り、この付近で、怪しげな広告ティッシュをもらったことを思い出す。
『バススタッフ募集』とあった。『安心の3ナイ 脱がない・触れない・身バレない』とも。
時給3500円で、今のパートのことを考えれば、雲泥の差だ。風俗にしては、広告にうたってあったように、安い報酬だろう…。
訳のわからない理由で、社長がくれたブランドバックを換金するより、自分で稼いだ方がずっと後腐れないんじゃないか。
でも、
どんなことをするんだろう。
本当に『身バレ』することはないのだろうか…。
気づけば、わたしは歩を止めていた。
ついで、焦れるような思いで駅へと身をひるがえした。構内の公衆電話から、問い合わせてみようと思ったのだ。
訊いてみるくらい、タダだ。それにバレることもない。
小走りに駅へ戻る。
ひと気のない公衆電話の並ぶブースで、ひっそりとわたしはバックから例のティッシュを取り出した。十円玉を幾つか流し入れ、思い切って、ダイアルする。
なかなか電話がつながらない。あきらめかけたとき、野太い声が、
「はい、お待たせいたしました。ありがとうございます。『紳士のための 妄想くらぶ』、スガです。本日は、ご予約でしょうか?」
「…あの…、ちょっと、その、お伺いしたいんですが…」
その先が言いにくく、言葉が濁った。すると、相手は慣れたように、わたしの戸惑いを拾い、
「はい、何でしょう? バススタッフのご応募でしょうか?」
「はい。あ、でも、まだ、応募すると決めたんじゃないんです。ちょっと、お仕事の内容を知りたくて…」
「はい、かしこまりました。迷っていらっしゃるんですね、では、バススタッフのお仕事の流れについて、店を代表して、スガがお答えします」
「は、はい、お願いします」
説明を受けてほどなく、バススタッフの仕事を理解した。なるほど、と思った。世の中にはそんな職業が…と、感心したし、内容にやや安心もしていた。
「どうなさる? 何だったら、店を見学がてら面接を受けにいらっしゃいよ。その方があなたも安心でしょ? こっちも未成年は使えないから」
ほどなく、相手の言葉は、砕けたオネエ調になった。「はあ」とまだ迷いながら答え、その際、どういった書類を持参するのかをたずねた。身分証を提示するのであれば、止めようと思っていた。
すると、「あなたの好きなように書いた履歴書を一枚持ってきてね」と言う。「応募者の申告を、こっちは信用するだけ」と。やばいようなルーズさだが、なら、本名も身元も伝える必要はないことになる…。
「でしたら…」
わたしは面接を申し込んでいた。
「オッケー。お待ちしてるわん」
こちらのちょっとした悲壮感など、吹き飛ばしてくれるような、スガ氏の軽い返事が返ってきた。
 
 
数日後、
 
「スミレさん、五番ボックスお願いします」
控え室に、従業員が出番を知らせに来た。「はい」と返し、わたしは胸元のタオルを具合を確認しつつ立ち上がる。
ドアのところで、出番を終えた女の子(アラフィフらしいが)とすれ違う。「お疲れさま」と言葉を交わし、部屋を出た。
三時間の勤務で、一万円ちょいが手に入る。そう思えば、みぞおちの辺りに力が入った。
 
よし、稼いで来よう。






          


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