ふわり、色鉛筆
(7)
 
 
 
『紳士のための妄想くらぶ』の営業時間は、午前九時半から翌日の朝の五時までとなっている。駅裏の一角、ごちゃごちゃある雑居ビルのワンフロアが、それにあたった。
支配人のスガさんと、ボーイと呼ばれる何でも屋のような男の子が数人いる。中で働く女性は登録制で、好き勝手にシフトを入れ、たいてい常時三~五人は、店に待機している具合だった。
わたしはいつものパートの帰りに、こっちの店にほぼ一日おきで入るようにやり繰りした。四時過ぎには、つばの広い帽子を深くかぶり、こそこそとビルに入る。きわどいビラがいっぱいに張られた狭いエレベーターで店に上がり、従業員用の入り口から控え室に向かう。
六畳ほどの畳を敷いた部屋には、たいてい女性が出番を待ちながらごろごろとしている。煙草を吸い、雑誌を読んだり、小さな画面のテレビを見ている者もある…。
この日は、二人の姿があった。
「おはようございます」
挨拶をして支度に入る。大したことはない。服を脱ぎ、下着だけになりその上からバスタオルを身体に巻きつけるだけ。呼び出しがかかれば、下の下着を外すのだ。
「ナナコちゃん、わたしたちにサービスしたって、何にも出ないよ」
バスタオル姿で化粧直しをしていた、メンバーの中では一番年長のタマさんが、大きく脚を開いて寛いでいるナナコちゃんに声をかけた。ナナコちゃんは、多分一番若い部類に入る。
「はあい」
と返して脚を閉じるが、すぐにまたその脚が緩み始めた。早々と下着取った格好だから、もう目のやり場に困る。
次はタマさんは言葉を省き、ナナコちゃんの腿をぺちんとはたいた。「へへ」と悪びれずに笑い、彼女はわたしへ読んだ後の雑誌を回してくれた。月刊の漫画雑誌だ。
「あげる。ナナコ、もう読んだから」
「いいの? ありがとう」
この雑誌には、旧友の千晶が連載をしている。真っ先に彼女の漫画を読み、それがまた実にいいところで「次号へ」となったとき、スガさんが部屋に現れた。
「食べる? タカシ(ボーイの一人)に買いに走らせたの」
シュークリームが入った箱を床に置いた。この人は、店の女性にこんな風によくお菓子を振舞ってくれる。「アタシが食べたいからよ」と言うが、一人で食べることを嫌う。人をねぎらう優しさも、きっとあるのだろう。
お客待ちの手持無沙汰で、皆、手が出た。
キヨハラのような凄味のある巨漢を真紫のアロハに包んだスガさんは、その見かけとは裏腹な、甘ったるいオネエ言葉を挟む人で、
「ナナコちゃん、あんた、プレイ中は、私語厳禁って言ってあるでしょ?」
「あ、ごめんなさ~い。だって、お客がおかしな声出すから、つい。えへへ」
「えへへ、じゃないの。気をつけてちょうだい。こっちは、あちらに勝手な妄想させてナンボなんだから。あんたのそのちょっと足りない素が出たら、興醒めしちゃうお客もあるかもしれないんだから」
「スガさん、きっつ~い。ナナコ足りなくなんてないも~ん」
ナナコちゃんは、また露わな下半身をばたばたさせて、きゃっきゃと反応している。「ナナコちゃん」と、わたしもシュークリームを食べる手を止め、彼女の足に隅っこの座布団を乗せて隠した。
「いいの、スガさんオネエだから、見られてもいいもん」
「こっちが見たくねえよ」
そこだけごつい地声を出して、スガさんがこぼした。
ほどなくして、ボーイが出番を告げに来た。
「タマさん、三番ボックスお願いします。スミレ(ここでの源氏名)さん、二番でよろしく」
タマさんが立ち、わたしも立ち上がった。ナナコちゃんはまだ指名が入らない。
下着を取ってバスタオルだけの頼りない格好になり、向うのはお客の待つ部屋だ。とはいっても、彼らとはこちらが顔を合わせることがない。
出入りのドアはそれぞれ別にあり、三畳強ほどの仕事部屋は磨りガラスで二つに区切られていた。磨りガラスの向こうは、一人掛けのソファでいっぱいのお客のブース。わたしたちの入るこっちは、ユニットバスになっていた。
そこでわたしたちは、何も喋らず(ごく小さいものはOK。言葉は基本不可)風呂に入る演技をするのだ。磨りガラスは湯気で絶妙に曇り、バスタオルを巻いたこちらの姿は、シルエット程度しか見えない仕組みになっている。
それを、お客が座りながらガラス越しに見て、あれこれ勝手に妄想して楽しんでもらう…、という趣向らしい。時間は通常十五分。お客次第では、延長もある。
だから、指名といっても、わたしたちは顔をさらす訳ではないから、『ヤング』、『ロリータ風ヤング』『ミセス』、『熟ミセス』とか、『ほっそり美女』、『ふっくら美女』(美女としか載せない)…、ぐらいの曖昧なカテゴリーでの指名でしかない。
これが、バススタッフの仕事だ。
ピンク系の店が集まる界隈はこれまで縁もなく、ビルに入るのすら抵抗感があった。でも、説明をよく聞き、お客と直接接触のないことが救いになり、働くことを決めた。そして、二度三度とこの店を訪れるようになり、抵抗感は薄らいでいった…。
それは、家族に内緒の、人に大っぴらにできない仕事に、背徳感は残る。残ってはいるが、それも、数を重ね、随分と小さくなっている。
あの海坊主のようなオネエ、スガさんの人柄もあるだろう。
先日、本社で社長から意味なくもらったブランドのバックでお金を作るよりは、ここで妙な時間を過ごす方が、よほど気が楽だったのだ…。
シャワーを肩に当て、首をなぜる仕草をした。顔がわからないようになっているが、前を向くのは避けていた。そこで、曇った声がした。隣りの部屋だ。音の関係で、隣りとはお風呂が接している。
磨りガラスの向こうの、こっちのお客には、わたしが聞く隣りの風呂の音は、ほぼ聞こえない。が、わたしにはダイレクトに、タマさんが立てる小さくない音が聞こえるのだ。
「ああっ、ああっ…、あっ」
また、一人芝居やってるよ。
言葉を発するのは、お客の妄想を邪魔するとかで、駄目とされている。だが、タマさんのは、「『熟人妻、浴室で一人トロケル』という演目のアレンジ」だそうで、「お客が若いとき、つい手伝ってあげたくなるのよ」と自分なりに工夫して、色っぽい声を出してあげているらしい。
「スミレちゃんも、もう一枚殻破りなさいよ。生き易くなるから」と、勧められていた。いやいやいや、もう十分自分を生きていますから。
タマさんの熱演に吹き出しそうになりながら、勤めを終えた。終了時には、ベルが鳴る。それを潮にお客が退出していく。
バスローブをまとい、浴室を出た。廊下はお客と鉢合わせしないよう、病院にあるような衝立が置かれている。タマさんのお客らしい若い感じの男性が、あちらの部屋から出てきた。やり過ごそうと、立ち止まる。
「はあ…」と、満足げな男性の吐息が聞こえた。彼女のねっとりとしたサービスが、お気に召したらしい。何気なく、目をやり愕然とした。
パート先のスーパーの、小林君だった。
 
え。
 
愕然として、立ち止まった。
あの子、何してんの?!
風俗好きだと噂に聞いてはいたけど、こんな店まで守備範囲だなんて…。
完全に彼の姿が視界から消えたところで、よろよろと控え室へ向かう。指名がかかったのか、ナナコちゃんの姿はなかった。わたしに少し遅れて、タマさんがゆらゆらと戻ってきた。濃いアイラインがぬれてにじみ、涙袋を真っ黒に染めていた。
「お疲れ、スミレちゃん」
「お疲れ様…、あの、さっきのタマさんのお客…」
「ああ、あの坊やが、何?」
「若そうね…」
「今日で八回目かしら…。坊や、『超熟』が好みらしくて、わたしが専属みたいになってるの」
髪を拭き拭きしながら、さらりと流す。ちなみに、どこかのパンのよう単語は、『熟ミセス』の広義のようなもの。
「…へえ」
と、さりげなく応じたつもりだが、頬がこわばってひきつるのがわかった。『超熟』が好みであるのなら、わたしを指名(わたしは『ミセス』指名か、サバを読んで『ヤングミセス』指名を対応させられている)されることはないだろう。
安堵にほっとする。小林君の妄想の糧になるのは、まっぴらごめんだ。
しかし、
どこかでかち合ったりしたら…。
そう思うと背筋が冷えた。言い訳は、きっと効かない。
長居はできないな、もうここも。と密かに潮時を思う。所属の女性も、慣れ合い過ぎなくて感じがいいし、居心地のいい店だったが…。
一回本を製本に出す程度のお金は、おそらく出来た。パートの収入を思えば、あまりに濡れ手に粟で、もうちょっと、あと数万あれば…、と欲が出たのも事実だ。
ほどほどにしておかないと…、と自戒しながら、まだ湿った肌の身体をバスローブ越しに抱きしめる。
ふと落ちた視線の先に、ナナコちゃんがくれた漫画雑誌が目に入った。そこには、鮮やかな表紙に踊る、人気漫画家『真壁千晶』の名前。
瞳が、よく知るその名を撫ぜながら、
あ、
と心が応えた。
自嘲ではなく、嘆きでもない。それは距離だ。ほんのりした羞恥に混じり、彼女と大きく隔たった距離を感じているのだ。
遠いな、と思った。
 
千晶のいる場所は、こんなにも遠い。
 
 
『完売しました。
委託したご本の代金は、ご指定の口座があれば、即入金いたします。
ですが、お話したいこともありますので、
もし雅姫様のご都合がよろしければ、お会いできたらと思います。
できましたら、金子はその時に直接お渡ししたく…』
 
ポケットに入れたケイタイが着信を知らせると、夕飯の支度の菜箸を置き、すぐに取り出した。期待した通り、桃家さんからのにメールだ。
この日は、彼女が参加した同人誌即売会の日だった。厚意に甘えて、わたしは作った本を、彼女のスペースに委託させてもらっていたのだ。
『完売しました』の文字に、頬が緩む。「おしっ」と小さなガッツポーズだ。
今回の本は、お金の目途も何とかつけ、印刷所に製本を頼んだものだ。
といっても、時間のない主婦のやること。やはり漫画は鉛筆描きだし、ページ埋めに、前回出したコピー本の再録もある。それでも、久しぶりにカラーイラストも描いた。つたないとはいえ、ささやかながら、愛着のある仕上がりになったつもりでいる。
だから、桃家さんの報告は本当に嬉しかった。
しかし、「金子」って…。
初見じゃ、「カネコさん?」と人名かと思った。考えて、やっと意味が取れた。ああ、キンスか。
丁寧だが、時代錯誤な本文は、あの桃家さんに似つかわしくて、笑いが込み上げる。にやけていると、総司の声が、
「ママ、何か臭い」
「え」
フライパンには、ソーセージが焦げ始めていた。もったいない。「あ~あ…」とミスを嘆く声が上がるところだが、今日は大して落胆もない。
「じゃあ、サラダにはゆで卵にしようね」
「あ、俺の半熟にして。柔らかいの」
「じゃあ、パパのだけ半熟ね。総司とママのはカチカチね」
機嫌よく夫の声に応えると、彼は、「お、サービスがいいな。いつもはめんどくさいって、固ゆでしか作ってくれないのに」と、ちょっとからかうような声を出す。
「絵本が売れたの。フリーマーケットに出したのが。今、友達からメールが来て…」
アバウトに、事実を歪めて説明しておく。夫は、連日わたしが本にする原稿を描いていたのを横目で見ている。それを、わたしは「友達に頼んで、フリーマーケットに出す」と言い言いしてきた。
「絵本が売れたら、ママ機嫌がいいね」
総司を相手に、夫がまた軽く皮肉るが、それも気分よくスルーできる。
気を入れて作ったものを、あまたの中から選び取り、お金を払い買ってくれる人がいる。どんな形であれ、どんな場であれ、それは自分を認めてもらうことに近い。
物をつくる作り手の放つ喜びを、それはうんと増し、さらに嬉しさにして返してくれる…。
この瞬間、自分を幸せだと感じた。胸がふっくらと、楽しみに浮き立つのを感じるのだ。
傍から見れば、わたしに足りないものは、きっと幾つもあるのだろう。貯金もなく、カツカツの生活で、始終ぴーぴーいってるし、不甲斐ない夫へのイライラを抑えるのに、いつもひーひーしている。
でも、
 
わたしには、描く自由がある。
 
どこでだって。どういったやり方でだって。
夫のリクエスト通りに柔らかくゆでた卵を鍋から引き揚げた。ぷるんと揺れるゆで卵を割れば、とろりと黄身があふれ出す。それを見た彼が、嬉しそうに「サンキュ」と片方をつまんで口に運ぶ。
「塩振ってないよ」
「要らない。旨い」
久しぶり、と嬉しそうにしている。
そんな夫を眺め、ちくんと胸が痛んだ。
「面倒なんじゃなくて、緩いの作ろうとして、失敗するの」
「たまにしか食えないんだから、一緒だろ」
「結果はそうだけどね」
控えめであっても、小さくとも。
自らが生み出したものを、求めてもらう充足感が得られるか、そうでないか…。よそ目には、どんなにちっぽけでも、自分の中でそれは大きく意味を持ち、輝くのだ。そのことの価値を、わたしは今ほど噛みしめたことはない。
わたしは、長く認められないでいる彼に不足こそ感じ、ねぎらい、いたわることをきっと怠っていた…。
同じ場所にありながら、同じほどにささやかな事柄に笑いながら。
その笑みの色合いは、多分、わずかに違っているのだろう。
 
 
パート帰り、家の最寄りの駅前に着いたのは、約束に十分も遅れてのことだった。
「秘書の景山に迎えにやるから」と桃家さんから連絡をもらっていた。個人秘書を持つなんて、ますます桃家さんという人が謎めいてくる。
委託を頼んだイベント後、初めて彼女と会う日だった。と言っても、オフで会うのは、これが二度目でしかないのだが。
ロータリーをざっと見渡しても、前に見たそれらしいリムジンはない。道でも混んで遅れるのかな、とそれでも慌てて自転車を駐輪所に停め、待ち合わせた、テイクアウト専門の一口餃子の店前に立った。
そうして、すぐ、忍び寄るようにそばに影ができた。目をやると、ダークスーツに身を包んだ、桃家さんの秘書といういつかの景山さんだった。この日はハンチングを頭に乗っけている。
「申し訳ございません。約束より、十一分も遅れられている雅姫様をお探しする、ほんのついでに、売店で『競馬ブック』を買っておりました」
「いえ…、こちらこそ、遅れて…」
「では、お嬢様がお待ちかねでいらっしゃいます」
「ささ」と導かれたのは、トヨタのコンパクトカーだった。わたしは前と同じリムジンを探していのだ。これでは気づくはずがない。
後部座席に乗り込めば、車は滑らかに発進した。
「例のリムジーン(と言った)は、ご家族様ご専用でございまして、わたくしども使用人が外出の際は、小回りの利くこういった安価な車両を用います。
とは申しましても、むろん、お客様にはリムジーンを使用するのが常。で、ございますが、こう申しましては、失礼、いや僭称、はばかりがあるのでございますが…、
雅姫様には、わたくしども下々特有の体臭を感じ、僭越ながら、こちらの値の張らない車の方が、よりお楽な気分でお乗りになれるのではないか、とげすな勘繰りをいたしまして…。
レベルを下げた車でもって、お迎えに上がったし次第なのでございます」
毒気を抜かれるというか…。嫌味な物言いが、実に流暢で堂に入っていて、腹も立たない。むしろ、聞き入ってしまった。
「…安い車で十分です」
「気持ちよくご理解をいただきまして、感謝を申し上げます。そうそう、ちなみに、わたくしのこのハンチングは、リムジーンを運転する場合、かぶりません」
ああ、そうですか。
はいはい。
車は山の手をへ向かっているよう。ぼんやり車窓に見入っていると、ケイタイが鳴る。メールだ。『紳士のための妄想くらぶ』のスガさんからで、次の平日のいつでもいいのでシフトに入ってもらえないか、と打診だった。
『オネガイ>< ♡泣き虫なスガからでした♡』と無駄な演出が多い。海坊主のルックスがこれを打っていると思うと、ふき出しそうになる。
小林君を見かけて以来、店は、近々に辞める方向で考えていた。心情的に不義理がしにくいものの、いつまでも引きずれる生活ではない。
「一日だけOK」とメールを返した。
窓の右手に、すさまじく長く高い塀が続くな、と思ったら、景山さんの運転する車は、ようやく切れた塀の先にある堅牢そうな門を潜った。
樹木の茂る中を、くねくねと百メートルも走ったとき、車が止まった。
促されて、降りた。四畳半くらいあるんじゃないかという、大きな大きな扉が玄関になっていた。入った広々としたたたきの向こうは、先が見えないほど奥へ広がっている。
土足のまま案内され、中を進む。いつまでも続く廊下の、ある一つの扉の前で景山さんが歩を止めた。ノックをし、わたしの来訪を告げるから、この奥に桃家さんがいるのだろう。
扉が開いた。案の定、中で出迎えたのは彼女だった。
「いらっしゃい」
ゆったりとした畳敷きの和室だ。踏み込みがあり、靴を脱ぐ。彼女はここで原稿をしていたらしい。紫檀の大机には散った紙が載っている。この日桃家さんは浴衣姿だった。黒字に雪の文様が控えめな、素敵な柄だった。
イベントではスペースに委託をしてもらった礼を述べ、彼女からは本の代金の入った封筒を受け取った。表に本単価と冊数をかけた簡単な式が書いてあった。
この場で検めて、と言うから中を見た。計算と違いなどない。紙幣の数に、思わず唇の端が緩む。また、総司に何か買ってやれる…。
改めて礼を言えば、桃家さんは雑に首を振った。「いいの、もうお礼に一冊もらってるし」とは、わたしの新刊のことだ。
ほどなく、景山さんがお茶とお菓子を持ってやって来た。机に載せると、桃家さんは「散れ」とでも示すように手の甲で、扉へ払って見せた。それ受け、しおれた草木のように、よろよろとした足取りで、彼が部屋を出ていく。
何なのだろう、この二人…。
「雅姫さんの本を一緒に置くから、人にあれこれ聞かれちゃったわ。どんな仲なのかとか…。「友達」って言っておいたけどねえ」
「友達」の部分が甲高く、ひときわ響いた。やや目を逸らし、なぜか頬を染め照れているよう。友達かどうかは微妙だけど、「知人」というのも、寂しい気がする。『ガーベラ』時代からだから、見知ってからの期間だけは長いのだ。
「うん…。アン(桃屋さんのペンネーム)さんは、新刊はまたあの宇宙シリーズの?」
彼女はうんと長く、オリジナルでSF風な小説を描いていた。背景描写がやたらと緻密なくどさがあるが、なかなか上手い物語を描くのだ。今言う、BLモノだ。固定ファンもあったはず。
「うん、いつもシリーズの番外。『スペース・やくざ ~兵隊コロニー番外地~』と、『スペース・やくざ ~さすらいのロケット野郎~』の二冊」
「ふうん」
イベントでのあれこれを聞き、はしゃいだ気持ちになる。楽しくて、つい昔のノリで、
「夏のイベント、アンさんが出るのなら、次は、わたしに売り子させてよ」
などと口走った。そこで、彼女の顔から冷めたように笑みが消えた。つぶやくように、低い声が、
「できない約束しないでよ」
「え」
「期待しちゃうじゃない…」
桃家さんは、わたしに家庭があることを言っているのだろう。確かに、言った後で、総司はどうしよう、パートは…、と諸々出てくる。
だが、唇は「何とかなるって」と動いていた。
そう返しながら、何とかなるような気がした。何とかしようと、気持ちがそちら側へ傾くのだ。実際、気持ちさえあれば、何とかなるはず。そうやって、わたしはまた本を出したではないか。
「ふうん、なら、これからも、雅姫さんとはいろいろ打ち合わせないとね。まだ、当確(夏イベントのサークル参加は抽選制)も出てないけど…」
桃家さんは、こちらの返事に、まんざらでもないようにそんなことを言った。笑みを堪えているような表情をしているから、多分その気なのだろう、彼女も。
さっそく、新刊の予定などを問うから、
「描きたいけど、新しいの一冊は、厳しいかも…。すごい薄いのになっちゃう」
「だったら、合同誌の形にしない?」
「え、いいの? だったらありがたいな」
そんな話で盛り上がっていると、また景山さんが姿を出した。桃家さんへ「例のお客様が…」と知らせている。それを聞き、半分食べ残した、練りきりのお菓子をぱくりと口に押し込んだ。もうおいとましようと思ったのだ。
「じゃあ、わたしはこれで…」と腰を上げかけると、桃家さんが怖い顔で睨んだ。なぜか。
「あなたに会わせたい人なの。というか、雅姫さんに会いたがっている人なのよ」
「は?」
聞けば、この間のイベントで、わたしの本が桃家さんのスペースにある理由を、しつこく彼女に訊いた人なのだという。女性で、わたしがその前に出したコピー本で、すっかりファンになってくれたというのだが…。
「「友達」だって、言った手前もあるし」
「友達」の部分がまた、そこだけ上ずって響く。桃家さんは、その女性が、知人の紹介もある、きちんとした人であるのだと言い添えた。勝手に呼んで悪いけど、とも。
「ふうん」
ちょっと面倒な展開だと思った。
やや気持ちがもやもやとする。本音では嬉しい、ありがたい。
だが、正直、面と向かって、作品のファンだの好きだの言われるのは、ちょっと苦手なのだ。
「彼女、同人のつてを探し回ったみたいよ。今の同人界で雅姫さんの現存する「友達」って、わたしくらいのものでしょ。そりゃ、目をキラキラさせてね…」。「『ガーベラ』さんは、元から孤高のストイックなサークルだったけど、雅姫さんも、個人で同人再開したのなら、またそれとは違ったやりようもあるしね、萌えという血に飢えた、同人荒野をさまよう一匹狼もいいけど。それを「友達」として伝えてみたくて…」…。
「友達」、「友達」と甲高く桃家さんが連呼している。
誰が、「萌えという血に飢えた、同人荒野をさまよう一匹狼」だ。
照れ臭さに億劫さがまじりつつも、会う了承に、うんと頷いていた。





          


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