白い兎が逃げていく
Impressions 1
 
 
 
その日の雪は、午後から降り出した。
ぱらぱらと小さな綿の粒が降り始め、街をどことなく幻想的に見せた。篤子ちゃんは、名古屋からの帰りの新幹線の中で、運よく窓側の席に座り、暗い車窓の中、けれどもちらちらと窓を叩く雪を眺めている。
先ほど名古屋駅で別れてきた友人にメールを送り、別の誰かにも送った。済ますと、バックから取り出した薄い文庫本を開いたりした。
結局それらにも飽き、再び車窓を眺めるのだ。
不意に、ぷしゅっと缶のプルトップを開ける音が、ほんの側で聞こえた。ちらりと瞳だけで左のシートを見ると、隣りの男性客が、乗車の際に買い込んできたらしいビール缶を口に運んでいた。薄手の経済誌を読んでいる。
(あとミニテーブルに載せた煙草と、あたりめが、出張帰りの必須アイテムなのに)
男性客の前にはそれがない。もっとも禁煙車両だけれども。
篤子ちゃんはちょっとだけ残念な気がした。
車内はほぼ満席で、どこか空気がむっと乾いている。隣り客がビールなど飲み出したものだから、彼女も途端に喉が渇く気がする。もうほんのちょっとになった小さなペットボトルのお茶を飲んだ。
(ああ、ビールが飲みたい)
小柄で可愛らしい彼女は、これで案外の酒飲みである。
気を紛らわすため、膝元に置いた紙袋からショッピングで見つけたリネンのカバークロスを取り出してみたり、またそれを戻して、別のニットをいじってみたりする。
もう三十分は、この車内に揺られていないといけない。そこから彼女は別の特急列車に乗り換える。その特急でほぼ二時間。結構な旅だと、十九歳の篤子ちゃんは思う。
隣りの客が、雑誌のページを繰る音がした。ちらりとまた目がいく。つまむように彼が持った缶ビールには、ほどよく冷えた証しに水滴が点々と見えた。
物欲しげに見ていてもしょうがない。また彼女は雪の車窓に首を向けた。自宅付近ではもっと降りがひどいだろう。雪の降る地方なのだ。
ぼんやりと、明日の通学のことを考えた。雪で道路は混むだろう。いつもより早く家を出ないと、一時間目に遅刻してしまう。都合よく、出勤する父がついでに送ってくれないかとも思う。
つらつら考えている彼女に、本当に不意に声がかかった。
「よかったら、どうぞ」
隣りの客が、篤子ちゃんへ飲み口を向け、新しいビールの缶を差し出している。一瞬で、彼女は頬が熱くなった。
彼のビールへ注ぐ幾度もの熱い視線に、気づかれていたのだろうか。うろたえて、彼女は「ああ」とか「うう」とか言い、首を振った。手のひらも振る。
「温くなるから」
こういうことはよくあることなのだろうか。篤子ちゃんが知らないだけで、これは出張帰りのビジネスマンには、当たり前の仁義なのかもしれない。
「よかったら、だけど」
初めてそのとき、男性の顔を見た。額にかかる髪が、眠そうな瞳に触れそうだ。ほんのり笑顔を浮かべたその顔は、ハンサムといえないこともない。
一見して、変な人ではなさそうだ。スーツを着た(ネクタイは外してあるけれど)三十才くらいのごく普通の人に見えた。
あっさりと勧めてくれる彼の手のビールへの誘惑は、やはり断ち難い。
なるべくがっついた印象を見せないよう工夫工夫しながら、篤子ちゃんは神妙な様子でビールを受け取った。これはせっかくの好意への、人間として当たり前の反応であるのだという顔をして。
「ありがとうございます」と、お礼を言うことも忘れない。
 
 
ビールを飲み終えたら、ほどなく降りる駅が近づいた。手荷物を膝に置きコートを抱えたところで、隣りの彼も同じく降りる気配を見せた。読んだらしい経済誌をコートのポケットに丸めて突っ込んでいる。
彼とはビールを分けてもらった以来、何の話もしていない。ただ余らせるのが面倒で、篤子ちゃんにくれてやったようである。
アナウンスの声に、立ち上がると、当たり前に隣りの彼も立ち上がった。一瞬自分の側に壁が出来たかと思った。随分背が高いのだ。逆に篤子ちゃんは小さい。
列車を降りしなに、隣りにまた並んだ。そこでもう一度彼女は「ビール、ごちそうさまでした」と彼に会釈した。
それに、彼は「ああ」と軽く笑って返した。ひょろりとした姿が、彼女を置いて、先に歩を進めていく。
乗り換える特急がホームに着くまで、約十分。篤子ちゃんは、コートのりぼんを結び直し、指先に息を吹きかけながら待った。雪が線路の枕木を白く隠していく。寒い中、こうしているのはそう嫌ではない。空気の濁った暖かい待合室に入るより、こうしている方がいい。
列車を待つ客は多くなかった。旅行鞄を提げた人々がちらちらと見えるばかり。
篤子ちゃんの側に、ふらりと人の立った気配がした。カーキのジャケットを着た男性だ。電車を待つのだろう。ポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら、同じく立っている。
おかしいな、と感じたのはどれほど後だろうか。その男性客の自分を見るじろじろと遠慮のない視線に、気味が悪くなった。幾らか、男の身体がこちらへ寄って来たような気もする。
(嫌だな)
そんなとき、するりといつかテレビで見たニュースを思い起こす。それはある特急列車内でトイレに連れ込まれた若い女性が暴行を受けたという事件で、嫌な事件にひどく腹が立った覚えがある。
シュチュエーションは同じ。若い女性。一人……。
人少なな、夜のプラットホームが不安を煽る。
慌ててバックから電話を取り出し、急いで自宅番号を出し耳に当てた。父が不在でも、話している振りをするのだ。すぐ駅に迎えに来てくれる風を装う。それで、警戒するかもしれない。
ありがたいことに父はすぐに出てくれた。
「お父さん、わたし、篤子。うん、今○○駅。これから特急に乗り換えて…」
「十時四十分に迎えに来て」と言葉をつなぐとき、充電が切れかけた。耳障りな電子音がする。頬をふくらませ電話を切り、それでも幾らかは自衛になったかと、ちらりと側の男を見る。
少し距離を置くのに、また身を寄せてくるのだ。男はこれといって何をしてくる訳でもない。ただ粘った視線を送り、じわじわと近づいてくるだけ。それでも気味が悪くて仕方がない。これで騒いだりなどしたら、ひどく自意識過剰な女に見えるだろうか。
男の整髪料の匂いまでしてきて思わず顔をしかめた。篤子ちゃんは男性の整髪料の匂いほど嫌いなものはない。
(近くの席だったらどうしよう。車掌さんに言って替えてもらおう)
唇を噛んで、買い物が詰まった紙袋を持ち替えた。そのとき、またもや本当に不意に、彼女に声が振ってきた。
「ごめん、待たせて。新聞買ってたんだ」
それは先ほどの新幹線で乗り合わせた、ビールの男性だった。彼もこの次の列車に乗るのだろうか。偽りなく真新しそうな新聞を手に持っている。
「貸して、持ってあげる」
親しげに彼女の紙袋に手を差し出した。おずおずと紙袋を渡す。
これは何のお芝居だろう。言葉もロクに交わさなかった彼が、不意に連れのような仕草で現われたのだ。
(もしかして、煙草臭い待合室から、わたしの様子に気づいて来てくれたのかもしれない)
隣りに立った彼からは、何となく煙草の匂いがするのだ。
「電車、雪でちょっと遅れてるのかな」
腕時計を眺め、軽い口調で話してくる。その声に篤子ちゃんも、「うん、そうかも…」と合わせておく。
急にやってきたのっぽの彼の姿に興醒めでもしたのか、カーキ色のジャケットの男はふらりといなくなってしまった。
彼女はほっと息をついた。
ごく小さな声で、隣りの彼が言った。「もし迷惑じゃなかったら、僕が隣りに座るけど、どうする?」
「え」
ありがたい申し出だ。また連れの男性と席が離れていると知るや、さっきのあの男が寄って来るかもしれない。
けれどもどこかで皮肉に、
(この人だって、おかしな人でないと保証はないのだけれども)
そんなことを考えもしながら、もちろんおくびにも出さず、篤子ちゃんは背の高い彼を見上げて答えた。
「お願いします、すみません」
「構わないよ」
列車は、ほどなくホームに滑り込んできた。
 
それが篤子ちゃんとみーくんの、二人の出会いのエピソード。



          

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