この道が何処に続くのか、未だ知らない
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篤子ちゃんの朝は早い。
大抵のウィークデイは、六時頃ベッドを出る。身づくろいを済ませると、ちゃっちゃと階下のリビングを片付け、掃除してしまう。
それから朝ご飯の仕度に掛かる。その時分には冷えた室内も、ほどよく温もっている。
ちょっとだけ手を加えたスープやパンにサラダを添えて、という日もあるけれど、父が好みの和食にすることが多いだろうか。今朝も、アジの干物や切り身魚を焼いて、お味噌汁や和え物と合わせた普段の定食風にする。
自分の食べたい、少し甘めのだし巻き卵も載せて出来上がり。
七時前には、父親がのっそっりと起き出してくる。二人でダイニングのテーブルに向かい合って座り、ときどき朝のニュース番組に目を走らせ、それについてとぼけたことを話しながら、温かい朝食をおいしく食べた。
いつもの朝倉家の朝の風景。
ほんのちょっとだけ手間をかけおいしいもの作る。それをおいしいと思いながら食べるのは、毎日の風水のようなおまじないのような、篤子ちゃん流に言えば彼女の信じる『幸せの素』なのだ。
それは、彼女の幼い頃に亡くなった母が口にしていたことかもしれなかったし、もしかすると、何かで読みかじったものを心に刻んでいるだけかもしれない。
どうであれ、それは彼女の心に根を張り形を作り、父と二人だけの生活を彩って、和やかに楽しくしてくれている。
父には「またか?」と、やや渋い顔をされたものの、「今夜、友達と遊びに行く」事後に近い承諾を取り付けた。
「飲んで帰るなよ」、
「男が一緒か?」、
「友達って、誰が一緒だ?」
と頻りにうるさいが、それには「大丈夫」と答え、「いつものメンバー」とうけ合っておく。嘘はついていない。篤子ちゃんは、お味噌汁の豆腐を飲み込みながら素直に頷いた。
(男の子がいるのは本当だけれど)
父が仕事に出かけると、食事の片づけをしながら、洗濯を済ませ、ついでに父の夕食を用意してしまう。この夜はビーフシチュウだ。厚手の鍋でことこと煮込んだものもおいしいけれど、時間のない朝には圧力鍋で調理する。飲み残しのちょっといい赤ワインをたっぷり入れた。
彼女が、着替えて簡単に化粧と髪を整えてキッチンに戻る頃には、辺りにいい香りが広がっている。
味を見て、粗熱をとれば、それを冷蔵庫に入れ、メモを残す。他、つけ合わせに野菜の小鉢も揃え、帰った父が好きなときチンすればいいだけにしておく。
ひどく手際がいい。
十時前には同じ短大に通う友人が迎えに現れ、一緒の車で学校へ出かけた。篤子ちゃんの通う短大は、地方都市に多く自動車通学が許されている。授業の時間が合えば、仲のいい友達と誘い合わせて一緒に行くのが常だ。
特に最近の燃料費高騰で、そんな学生も、にわかに増えた。
この日は、友人の菫が車を出す番だった。差し迫ったテストの話やレポートといった話が過ぎると、今夜の遊びの話題になる。
近くの国立大のいっこ上の男の子と、今夜飲み会の予定なのだ。友人の菫が軽い知り合い程度で、篤子ちゃんは男の子とは面識がない。
どことなく、二人ともお洒落をしてきているのが、互いに知れるのだ。菫は見たことのない可愛いコートを着ているし、篤子ちゃんのハーフパンツも卸したてだ。
「向こうの人から昨日メールがあって」
と菫がつなぐには、急遽今夜の待ち合わせの場所を変更したいとのことらしい。それに時間も遅くなるとか。
「八時半とか、言ってるんだけど」
それに篤子ちゃんは、ちょっと顔を曇らせた。それは向こうにも都合あるだろう。けれどもこっちにだってある。あんまり遅くなると、父の機嫌も悪いし、明日の朝にも障る。
面白くなるかもわからないその飲み会のために、八時半まで時間を潰すのも、何だか億劫じゃないか。
「どうする?」
篤子ちゃんの様子に、菫も思案顔になる。「わたしも、あんまり遅くなれない…。お兄ちゃんが帰ってきてるし」
「え、防衛省のお兄さんが?」
「うん、夏季休暇が今頃取れたんだって。もう冬だって、今。取らなきゃいいのに休みなんて」
彼女の歳の離れた防衛省勤務の兄上は、妹をひどく可愛がっている。年配の両親に代わり、授業参観や父兄面談にまで出てきていたのを、篤子ちゃんはよく覚えている。
菫は慣れた仕草でハンドルを握り、交通量の多くなった道路を危なげなく運転していく。このオフィス街をずっと郊外に抜ければ、彼女たちの短大がある。
「でも、お兄ちゃんに迎えに来てもらえるから、安心して飲んでいいよ」
「ふうん」
それはありがたい。けれど、お堅いお兄さんのお説教混じりに送ってもらっては、楽しい酔いも醒めてしまうような気がした。
 
 
結局、他の友人鞠菜と笙子が、「八時半まで、ぶらぶらしてお茶してようよ」などと言い出し、篤子ちゃんも菫もそれに従う形になった。
彼女たちが、折れたのも、今夜の相手方のメンバーに、一人「すっごい格好いい人がいる」との菫からの情報があったからだ。
そうでなければ、数日すればまた似たような遊びの都合は、誰彼かが拾ってきてくれる。
菫も、ちらりとしか見たことがないという憧れのその彼に、まだ見ぬ他の三人も加え、ほんのりときめいていたりするのだ。こういう場合、時間の都合は何とでもなるもの。
学校の後で、ショッピングに回り、ファーストフード店で時間を潰すとほどよい頃合になった。
待ち合わせは飲み会のフードバーその場所で、彼女たちが店先に着くと、菫の過去のバイト仲間であった中村くんが、手を挙げた。
時間の変更を、思いの他済まながってくれている。「ごめん、メンバーの都合がつかなくて。ほんとごめんね」
しかめ面したことなどもけろりと忘れ、女の子は四人とも、「ううん、いいんです。大丈夫」などと愛想がいい。
中はそんなに広い店ではない。カウンターが五席ほどに、ごく普通のボックス席が四つ。オレンジ色の間接照明が照らすシートに、銘々座る。おかしなことに、男性陣は、迎えてくれた中村くんしかいない。他の三人はどこにいるのか。
きょろきょろする女の子に、中村くんは「ごめん、一人インフルエンザで駄目になって、今日は三人。もう一人はそろそろ来るかな」
「ふうん」
そのときテーブルに、店の男性が突き出しとメニューを持って現われた。それぞれの場所に小鉢と箸を並べながら、
「勝手にメンバーに加えるなよ。僕はバイト中」
『おすすめメニュー』の黒板を隅に置いて、店員が、顔を上げる。篤子ちゃんの隣りに座る菫が、そっと彼女の膝の手を握った。
彼なのだろう。短めにカットした髪が、すっきりときれいな顔立ちに映えている。整った目鼻立ちは、きつさもくどさも感じさせない。
菫も鞠菜も笙子も、もちろん篤子ちゃんも、遠慮がなければもっとじっと見つめていたかもしれない。
ボーダーのTシャツにダブリエ姿の彼を、中村くんは「美馬」と呼んだ。カウンターのマスターに声をかけ、
「いいだろ、ちょっとくらい。ねえ、マスターお願いしますよ」
「あはは、美馬くん目当ての女性客は多いからね。忙しくならなければ、遊んでていいよ」
慣れているのか、冗談のように言う。それに美馬くんは肩をすくめるような顔を傾げるような、ちょっと困ったような仕草を見せた。ほどなくドアの開く音がして、そちらへすぐに、彼は去ってしまった。
中村くんは、美馬くんに断りなく、今回の話をセッティングしてしまったようだ。もしかすると、これが最初のことではないのかもしれない。大体、美馬くんのバイト先に、しかもその仕事中に女の子との飲み会を設けるのだから、前科ありと見てもいいだろう。
そこへ、先ほど入ってきた客が、篤子ちゃんたちの席にふらりとやってきた。
「あ」と言ったのは篤子ちゃんだ。「え」と言ったのは鞠菜で、「げ」と言ったのが、笙子だった。
みょうちきりんな格好をしていた。裄丈の合わないスーツなのはまだいい。理由があるのかもしれない。しかし、いかんともしがたいのは、耳をすっぽりと隠すほど首もとに伸びた髪を、彼はピンク色のピンで留めていること。それで、額が露わになっている。
とても初対面の、ちょっぴり女の子への下心などもあるだろう飲み会に臨むファッションではない。
(何、この人…)
彼のやる気のなさに、まるで馬鹿にされたかのような不快な衝撃が身体を走った。
(こっちは、二時間以上も時間を潰してあげたのに)
他のメンバーも呆気に取られた後は、互いに目配せしている。
『話が違う』
『第一、美馬さんが相手してくれないみたいだし』
『そこそこで、上手く切り上げようよ』
『わたしたちだけでカラオケ行こうか』
などと声にならない、濃い視線が行き交う。
そんなこちら側の気配など、何のお構いもなしに、スーツの彼は中村くんの隣りにあっさり座ると、メニューを選び出した。
「ビール、中ジョッキで。あと、『お任せ☆ミラノ風かりっかりピザ』」
でかい声で注文を通している。しかも、自分の分だけ。中村くんは、さすがに女の子の彼への鼻白んだ気配に気づき、あれこれと気を配ってくれた。
「ここ、何でもおいしいよ。好きなの食べて」
それに渋々と飲み物をオーダーする。それには愛想よく美馬くんが応じてくれ、そんなことで、ちょっと気が和む。運んでくれるとき、軽く会話も弾んだ。気持ちのいい人のようだ。
せめてもの乾杯の後で、ビールに口をつけると、亮というらしいスーツ男は、バイト帰りで疲れたと中村くんに愚痴り、
「言っとくけど、ワリカンな。君ら食いそうだもん」
せっかく和んだ雰囲気を、ばりばりと土足で踏みにじった。こういうことを、初っ端に真顔で宣言されたことは、四人にはない。自然、顔が強張った。
「おい、亮、止めとけよ。はは、こいつ可愛い子が多いんで緊張してるんだよな、はは」
盛り上がらない飲み会はある。けれども、この場の何とも居心地のよくない空気に、篤子ちゃんはシートに掛けたお尻の辺りが、むずむずするような気がした。
 
それでも飲み食いが始まると、冷たい空気も少し緩んできた。スーツ男亮くんも、そう次々に棘のあることを口にする訳でもない。
「美馬狙いは完全無理。止めといた方がいいよ」と、こちらの淡い憧れを見事砕くことはしたけれども。
(黙っていれば、それから変な格好をしなければ、この人だってもてるだろうにな。何のバイトだろう、丈の合わないスーツ着て)
篤子ちゃんがそんな思いで、ビールを飲みながら彼に目をやると、
ちょっとだけ目を細めて、亮くんが向かいの彼女を見返し、
「僕も無理だから」
と告げた。
かちんときて、つい言い返した。
「わたしだって、無理」
こんな人を前に、行儀よくかわいこぶってやることなんかないのだ。今更にそんなことを感じ、篤子ちゃんは残りのビールをごくりと飲み干した。
亮くんの前に一切れだけ残っていた『お任せ☆ミラノ風かりっかりピザ』に手を伸ばすと、口に放り込んだ。実は食べたくて、狙っていたのだ。
「あ、今食べようと思ったのに」
ちょっと悔しげな彼の声とかぶるように、ドアが開く音がした。お客が来たようだ。何気なく振り返ると、カウンターの美馬くんに目が合った。
「お代わり?」
それに、篤子ちゃんはどうしようかと迷った。このまま面白くもないこの場にいるのも時間がもったいない気がする。皆はどうだろうか。
菫に視線を向けると、彼女のオーダーした『アツアツ、夢中になれる大根もち』がまだ来ていないという。
「アレは何だか気になる」と言うのだ。
それで、他の人の分も一緒に飲み物を追加した。
「はい、お待たせしました」
美馬くんがオーダーのビールを運んできた。彼が現れると、瞬時に女の子のテンションが華やぐ。ついでながら、『アツアツ、夢中になれる大根もち』はまだ来ない。
そのとき、本当に不意に、声が降ってきた。それは篤子ちゃんの肩越しに流れ、向かいの亮くんへすとんと落ちた。
「おい、亮、忘れ物」
その声に、口にハムスターのように一杯フレンチポテトを詰め込んだ彼が、顔を向けた。
「みーくん」
何となく、篤子ちゃんは後ろを振り返った。そこに立っていたのは、以前名古屋からの帰りの電車で乗り合わせた男性だった。ビールを分けてくれ、痴漢めいた不審な男から彼女をさりげなく守ってくれた人物だった。
おかしなことに、篤子ちゃんは彼の名前を知らない。
彼は、篤子ちゃんが不安がるので、トイレのときもその前にまでついてきてくれたのだ。
密かに篤子ちゃんは、名も知らぬ彼を「用心棒」と呼んでいた。
ひょろりと背の高い、あの晩のように仕事を終えた後のようなスーツ姿の彼を見て、そして目が合う。互いに「あ」と、その瞳が大きくなる。
「ああ」
「みーくん」と呼ばれた彼は、ちょっとだけ、眠そうな目を細めて微笑むと、視線を外し、亮くんに忘れ物だという財布を渡した。
連れもあるようで、似たようなスーツの男性と、四人で彼らは隣りのボックス席に掛けた。
美馬くんが「みーくん」らに、それぞれ先生と親しげに呼んでいるのを聞き、篤子ちゃんは首を傾げた。
(どういうつながりなんだろう)
「みーくん」の連れの男性が、ぽんとこちらの席の亮くんに話しかけた。奇妙にも、彼を「ジュニア」と呼び、女の子と飲んでいるのをからかうような、ちょっとおかしがっているような雰囲気の声音で言う。
「いいよな、ジュニア。可愛い子ばっかりで」
亮くんはまたハムスターのように、食べ物でほっぺをふくらませている。
菫が篤子ちゃんのわき腹をそっと突いた。先ほどの「みーくん」との邂逅が、やや引っ掛かるのだろう。
「誰?」
それに篤子ちゃんは、「ほら、前話した…」と説明する。それで話が見えたのか、菫はぽんと胸の前で手を打ち、
「あ、特急の用心棒」
と酔いも手伝って、案外大きな声を出した。その声に篤子ちゃんは思わず頬が熱くなる。「止めてよ」とささやき、菫のわき腹をつつき返した。
声は、仕切りもない隣りのボックス席にも当然に流れ、「みーくん」が『用心棒』の件に、ふき出すように笑った声が聞こえる。
その気配に、恥ずかしさやあれこれが混じり、そっと「みーくん」へ視線を送った。
煙草を口にくわえたばかりの彼と、どうしてかふと、目が合った。



          

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