見知らぬ私を受け入れてくれたのは7つの愛 (2
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生徒も消えた予備校のフロアには、常夜灯の小さな明かりを残して照明が落とされた。
ちょっとしたいつものミーティングが済めば、
「じゃあ」
と、上着を持って立ち上がる者、いまだ椅子に長くなりテキストをめくる者、欠伸を連発する者。食事に行こうと誰かを誘う者、それぞれだ。
椅子に長くなってテキストを顔に伏せているのは、みーくんだ。
その彼に、先に職員室を出たスタッフの一人が、受付の窓から大きな声で呼んだ、
「お客さん、みーくん」
それに彼はゆらりと身を起こした。受付を見ると、中年の女性の姿がちらりと見えた。
ちょうど生徒の親御さんくらいの年の頃で、とっさに子供の進路相談か、勉強の件だと思った。
(もしくは、クレーム)
あっさり彼を呼んだスタッフの様子から、多分クレームではないな、と判断した。それにその理由も、今ちょっと思いつかない。緩めたネクタイを、もう一度締め直した。
受付に向かう彼に、本城さんが手を引いた。この後で近くの行きつけの『ルル』へ行こうと、場違いに誘う。切羽詰って腹が減ったと言う。
みーくんが返事をしないでいると、本城さんは、「じゃあ、みーくんと僕と、佐々と…」と、勝手に行くことになっている。
「小早川は僕ですが、何か?」
受付の窓からうかがうと、丸顔の中年女性は、まず彼のゆらっと背が高いことにやや面食らうのか、目を瞬かせた。
「あの、…わたし、朝倉篤子の家の者です。ちょっとお話があります」
少し低い声がそう告げる。そう距離もない。背後のスタッフにも聞こえたのか、さっと会話が止んだ。
わ、篤子ちゃんのお母さん? 
みーくんに、何の用だろ?
慰謝料の請求かな?
彼らの急な結婚話がふっと頓挫した背景もあり、興味ありげなそんな気配が、みーくんにも伝わるのだ。
彼にも、この目の前の上品そうな女性が、篤子ちゃんの新しく母親になる人であると、すぐに想像がつく。
まったく意外な人物の登場に、虚をつかれたが、みーくんはあっさりそれを流し、いつもの穏やかな様子でロビーへ促した。
ニットのツーピースを着た女性は、ロビーの椅子に座ると、みーくんを下の名で呼んだ。〜さんと。
一つ席を開けて座った彼は、そのことにくすぐったいような違和感を持ってしまう。誰も彼を名などで呼ばないし、呼ばれたこともおそらくない。
なぜか彼は物心つくころから、おかしなことに、誰もに「みーくん」と呼ばれてしまっている。この女性にしたって、苗字で呼ぶのもおかしな感じだし、かといって篤子ちゃんの父親のように、初対面に「みーくん」では変でもある。名で呼ぶのが妥当と思ったのだろう。
「何か?」
みーくんは、もう一度訊いた。敢えて自分に会いに現われたこの女性の意図が、彼にはちょっと浮かばない。
(挨拶でもないだろうしな)
彼女は自分が、じき朝倉の家に入ることを言い、戸籍上も篤子ちゃんの母親になることを告げた。
「あの子もなついてくれていますから、もう母親のようなつもりでいます」
「はあ」
それ以外に、みーくんに返答の仕様がない。
そう身分を確かにさせて上で、彼女は、
「どういうつもりですか?」
と彼に訊く。また最後に、〜さんは、と彼の名が入った。言葉は優しいし声も温和だ。けれども、ちらりと彼をうかがう瞳も、膝に乗せた指先も、ぴんとどこか尖って彼には感じられた。
(どういうつもりも何も…)
みーくんはそんな癖などないのに、問いに、ちょっと困って頭に手をやった。
気づけば、「切羽詰って腹が減った」連中は、誰一人帰ろうとしていない。面白げにこちらをうかがっているのだろう。
篤子ちゃんとの結婚は、父親の再婚で彼女に新しく母親ができることを知り、それに起因し、家を出たいのだろうと悟った瞬間から、彼の中でちょっと気持ちに停滞した感があった。
篤子ちゃんのことは変わらず好きであるし、結婚するのなら彼女しかいないと間違いなく思いもする。
けれどやはり、自身の大きな問題を彼に告げもせず悩み、その挙句、解決策に何食わぬ顔で彼を利用したらしい、嫌な匂いがつんと鼻について、結婚への勢いが、薙いでしまったのは事実だ。
(何を考えているんだろう、あの子)
と、やや気分悪く受け取ってもいた。
それに、タイミング悪く式を兼ねた旅行が駄目になり、彼の仕事が急を要して忙しくなったことが続き、そんなことらで、ちょっとした暗礁に乗り上げてしまっている。
事実、彼としては「少し時間を置きたい」気持ちに傾いでいた。
「放ったらかしているように見えて、仕方ないんです、こちらは」
やはりまた、〜さん、とくっついた。
「え」
篤子ちゃんの父親には延期の詫びと説明も済ませている。あちらは仕事のことなども話せばわかりがよく、簡単に納得してくれたようだったのに…。
彼が仕事で忙しいことは本当で、時間的に物理的に式をすぐに行うことは不可能でもある。そもそも式云々より、あまり彼女に会えてすらいない。事情も理由もあるけれど、放ったらかし、とは言葉がきついが、それは事実に決して遠くはない。
それにふわっと思い至り、みーくんにざらっとした罪悪感が浮かんだ。
「考えてご覧なさい」
長瀬と名乗った女性は、不意にそんな年長者の風をにわかに言葉ににじませ話し出した。彼女にすれば、娘となる篤子ちゃんの結婚相手なら、自分の息子も同然なのだろう。
おかしな話ではない。
ただ珍しく、みーくんは、
(へえ)
と思った。
「まだ篤子ちゃんは、二十歳になったばかりです。今更言うのも妙かもしれませんけど、随分と年も開きがありますし、こちらには二人のおつき合いに、少なくない不安があったんです」
「耳に痛いでしょうけど、ちょっと我慢して下さいね」と前置きし、二つのことを彼に述べた。
年上の彼が、若い篤子ちゃんをもてあそんでいるんじゃないか。
都合よく、扱っているんじゃないか。
それが不安だったという。そう言い、なぜかちょっと意味のあるような遺恨の残る目で、じろっと一瞬彼を睨むように見た。みーくんは知らないが、長瀬さんは、彼が篤子ちゃんの肌に残した情事の跡をしっかり見た人物なのである。
「いえ、そんなつもりではまったく。真剣につき合ってきたつもりですし…」
みーくん側から見れば、篤子ちゃんの方がお得意の気紛れで不思議な「魔女っ子」振りを発揮して、大人の自分を都合よく振り回しているのではないかと疑ったことがあるくらいだ。
しかし、その程度のことは、彼には可愛いわがままなだけで、もう一々腹を立てることなどではない。
「ええ、結婚のお話を聞いて、安心したくらいです。早過ぎるとは思いましたけど、あなたがそういうきちんとした気持ちだったんだと、嬉しかったです」
(こんな人か…)
と、不快さもなく、話を聞きながらぼんやりみーくんは感じた。ちょっと教師っぽいとも感じた。どこかの学校で教鞭をとった人かもしれない。
(篤子ちゃんに、どう見えるんだろう、この「お母さん」は)
ふと、今まで考えたことのない種の疑問が、彼の中にわいた。
「お仕事のことはわかります、忙しいことも。でも、延期だけで、今後のことに何にも触れずに、まるでなかったみたいにしているようで…、それではこちらは落ち着きませんよ。大事な娘なんですから」
だから、「放ったらかし」だというのだろう。
何がしかの確たる予定、見通しがあってしかるべきだ、と長瀬さんは言う。
まったくその通りで、みーくんは「申し訳ありません」と頭を下げるしかない。
確かに何も伝えていない。
今更そんなことに気づく自分を、思いやりのない人間に思った。不意の忙しさと、それから篤子ちゃんへの消えないこだわりに、それをすっかり失念していた。
(しばらく、時間を置きたい。そんな意志すら僕は言っていない)
みーくんが、素直に自分の意見を聞き、容れてくれた様子に満足したのか納得したのか、長瀬さんはすっと椅子を立った。
「お時間を取らせてごめんなさいね。どうしてもあなたの気持ちが知りたくて。篤子ちゃんのことが心配で、言いたいこともあったから…」
「いえ、すみません、わざわざ。僕の方から伺うべきなのに」
品よく頭を下げエレベーターに乗り去って行く長瀬さんを、みーくんは自分も立って見送る。
同じ年頃なのに、二面性(外面内面の差)がひどい彼の母親とは違い過ぎる女性がひどく珍しかった。おそらく、長瀬さんは彼に接したのとそう変わらない態度で、篤子ちゃんにも接しているのだろう。
あのちょっと不思議でおかしなところのある、けれどもきちんとした篤子ちゃんという新しく自分の娘になる女の子を、生さぬ仲であっても長瀬さんは、ひどく可愛いのだろう。
(子供っぽくて、頼りないところもあるし)
と、みーくんは思った。「いいお母さん」だ、とも。
その可愛さが、今夜の早々とした「母親」らしい行動を起こさせたのだろう、と、しっくり納得もいく。もしかしたら、長瀬さんの中の篤子ちゃんへのわずかな義務感のようなものが、そうさせるのかもしれない。
決して悪い人ではない。真に娘の篤子ちゃんのためを思っているのだろう。
(ただ……)
ただそれを、娘となる篤子ちゃんが芯から「嬉しい」と感じる義務はない。むしろ、にわかにできた「母親」を、すんなり認めて順応できる方が稀ではないだろうか。
(どう思ったんだろう、あの子)
家を出たいと欲したほどだ。新しい母親に、窮屈さや表には出さない負の感情を父親っ子の彼女は持ったのだろう。
それでも、唯一の家族である父親の再婚を認めたのだ。
(多分、反対すらしていなかったんじゃないか。ただ、きょとんと驚いて、うなずいて、喜んで見せて…)
そんな風に、何となく篤子ちゃんの思いを辿ってみる。
あの小さな身体の中で、一体どんな思考がめぐり、そして流れたのか。
どんな思いで、認めたのだろう。飲み込んだのだろう。
そして、どんな思いで、
(家を出ようと決めたのだろう)
彼女が決して口にしなかった出来事や、それにまつわる感情を、みーくんは事が露わになった時点やっと知り、ただ薄気味悪く感じた。ただ彼女の真意を疑った。
利用されたのではないかと、彼女の策に年上の自分がほろほろ落ちたのではないかと、不快にも感じた。
だから、自分は不意のトラブルを契機に、あんなに約束した結婚を置き去りにして、「放ったらかし」でいる。
篤子ちゃんが、「お父さんのため」にという健気さにこれまでのすべてが立脚しているのなら、
(僕は、自分のことばかりだ)
悩みを打ち明けてくれない彼女を、彼は心中なじったし、ちょっとばかり憎んだ。
でも、言えないほどそれは彼女に大きかったのかもしれない。言うことを思いも寄らなかったのかもしれない。
(それこそ、あの子らしい)
それほどに、彼女の悩みは深くて、重かったのかもしれない。あれで懸命に過ごしていたのかもしれない…。
数々の彼女の愛らしい仕草、自分への甘え、ねだりごと……。それらの中に何か心を知るヒントはなかったのだろうか。何か、あったのじゃないか……。
降るようにわき上がるそれらの思いに、みーくんは自分を恥じた。
(何にも気づいてやれなかった)
 
 
その晩の月は、まあるくて煌々と照り、深い紺の空に大きく輝いて見えた。
ふと思い立って、篤子ちゃんはその自室の照明を消した。ベランダの大きな窓から入るその明かりが、レースのカーテン越しにぼんやりと優しく差し込んでくる。
そのまま、ベッドに寝転んだ。お気に入りのガーゼのパジャマが、洗濯のシャボンの香りをふんわりと香らせる。
(あ、月光浴みたい)
柔らかく、光が彼女の小さな身体をほのかに照らすのだ。待つメールが午後十時を過ぎた今もまだ来ないことに、ちょっとだけ心に響く切なさを感じながら、まぶたを閉じた。
それに軽く憤りや落胆を感じるより先に、やり過ごす術も、我慢する術も、いつしか彼女は覚えてしまっているのだ。
そのとき、机に置いたケイタイが思いがけず鳴った。メールを知らせるメロディが短く流れる。
身を起こして画面を見る。
それはみーくんからで、いつもの「おやすみ」一文のメールを思った彼女だったけれども、違う言葉が並ぶことに、
「あ」
と声が出た。
『ベランダに出られる?』
そう、メールにはある。
篤子ちゃんはパジャマ姿を忘れて、カーテンのレースをジャッと引いた。裸足のままベランダに出る。小さなビオラのプランターを爪先で引っ掛けたけれども、気にしていられない。
辺りを見回す。部屋の中よりも更に、月明かりがまぶしい。
視線が下がったそこに、こちらへ手を振る彼の姿があった。自宅のそば、車の前のアスファルトに立ち、みーくんがシャツの腕をちょっと振っている。
(先生)
じゅんと胸が、熱くときめいた。
「どうして…?」
篤子ちゃんは部屋を戻り、階下へ降りようと思った。身を翻したとき、再び手のひらの電話が鳴った。
今度は声で彼が言う。
『ごめんね、待たせて』と。
「え」
『ねえ、結婚しよう。すぐには何にも用意できないけど』
「あ」
『僕が、守ってあげる』
聞き慣れたはずの彼の声。
『篤子ちゃんが、ほしい』
その優しい熱が、このとき彼女の頬をはにかみで火照らせた。胸がつんと嬉しさと、とくとくいうときめきで、きらきらとあふれそうになる。
「うん…」
ちょっと階下へ降りる足が止まるほどに、胸の高鳴りは大きくて、彼女を捕らえてしまう。
(先生が好き)
うなずくだけの返事の後で、
「ちょっと待って、先生。今行くから」
と告げる。
彼女はこんなときふっと、彼と初めて会った日のことを思い出すのだ。電車で隣り合わせて座り、ビールを分けてくれた彼を。さりげなく自分を守ってくれたあの行為を。
きっとあの日から、きっと始まっていたのだろう。
それは、彼にその手を差し出されたように彼女には思えた。当たり前に自分はその手を取り、こうして今に続く道を歩んできた。
そのつないだ手は、ときに深まり、あっさりと指を結ぶときもあれば、または彼女が甘えて、それから気を引きたくて絡むのだ。
(一緒にずっと)
その事実だけで、ふんわりと幸せに、今も、これからも、染まるのだ。
何も要らないと思い、やっぱり素敵なドレスくらいは着たい、とも女の子らしくちょっとだけ思う。
ただ、今は、すぐに手をつなぎたい。少し引いて、彼の腕に身を傾がせる。
「先生」と呼び、いつものように並ぶ右肩から彼を見上げたいのだ。
 
 
 
 
 




(長らくおつき合いを下さいまして、ありがとうございます)




          

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