見知らぬ私を受け入れてくれたのは7つの愛 (1)
Impressions 27
 
 
 
煙草をくわえながら、みーくんは猫の声のする庭へ降りた。彼がサッシを開けるとすぐ、飼い猫でもない三毛猫がするりと入れ違いに家に入ってくる。
シャツの胸ポケットに入れたケイタイを取り出し、篤子ちゃんにかけた。
ほどなくつながり、聞き慣れた彼に心地いい声が耳に流れてくる。
『あ、先生』
「遅くにごめん、バリの旅行の件だけど…」
みーくんは言うべきことを伝え、彼女の返事を待った。待ちながら、頭の隅で別のことを考えている。
篤子ちゃんは、彼が取り寄せた旅行のパンフレットを、明日予備校に取りに来ると言った。十日を切った話で、何しろ時間がない。
『でも、見なくてもいいかも。先生が別に嫌じゃないんだったら』
篤子ちゃんはそんなことを言う。
「見た方がいいよ、雰囲気とかわかるから」
『うん』
彼女は朗らかに、鈴を転がすような声で、彼女の父親が今日初めて会ったみーくんの母親の絹子さんが、若くて美人なのに驚いていたと言った。
彼はそれに「ふうん」と応じ、
「化粧してないとひどいよ」
と、どうでもいい口調で付け足した。
(「ねえ、篤子ちゃんお母さんができるの?」)
どれだけ訊こうかと思ったか知れない。
問おうとして、その声は乾いた喉の奥で絡まり、言葉にならずに押し戻されていく。
二人の関係が、結婚にまで進み、この期に及んで、彼女の方から切り出してくれるのではないかと、彼はちらりと待ってもいた。
けれど、篤子ちゃんは告げない。結局そのまま、大したことも交わさず電話が終わった。
少し、…かなり彼に後味が悪かった。
問えない自分へ、みーくんはいつもの彼女にめためたに甘い、何でも許す自身の情けなさだけを思わない。
まず驚きが勝った。
そしてそれから、どうして言ってくれなかったのか、という疑問。年頃の女の子にはもしかしたら、父親の再婚は打ち明け辛い種の話なのかもしれない。
けれども、自分とは結婚するのだ。避けていい事柄でもないだろう。ちょっとでいい、触れてさえくれていたらよかった。みーくんだって、彼女にそれ以上訊かなかった違いない。
ただ、
(把握しているのと、そうでないのとではえらい違いだ)
と、最後の最後まで隠し続けた篤子ちゃんの思惑を、頭のどこかでやっぱり幾分、憤ってもいるのだ。
みーくんは、縁側に片膝を立て座り、くわえていた煙草に火を点けた。暗がりの中、点と蛍の明かりのように、それは小さく灯る。
彼の胸にわあんと響く、衝撃の残響のようにあるのは、先刻の母親の言葉だ。彼に痛いそれは、ほろっとこぼれてきた。
 
「家を出たいのかしら、あの子」
 
一番大きくて、彼に痛い部分はこれかもしれない。そしてそれは、さまざまな思いに絡んでくる。
その言葉をまるで補強するかのような、これまでの篤子ちゃんの言動は、幾つもある。幾つも。
篤子ちゃんには早過ぎるだろう結婚の件を、きちんと持ち出したのはみーくんではない、彼女だ。その瞬間、彼はちょっぴり奇異に思いはしたが、嬉しさが勝った。
そして、こうまでとんとんと結婚を急くことになったのは、篤子ちゃんの言葉が契機となっていたといえる。
機転の利いた式の簡略化を言い出したのも彼女なら、、式の後の生活の準備なども、「徐々に暮らしながら」で構わないと、欲のないあっさりとしたことを告げたのも彼女だ。
それに、母親の強いた『花のや』の若女将も、実に物わかりよくあっさりのんでくれた…。
(ちょっと、上手く、出来過ぎてるくらい)
みーくんは彼女とこんなにも早く結婚が叶う感激に、すっかり目を奪われていた上、式も新居の家具もそう興味がない。ごく簡単に彼女の言葉にうなずいてきた。
彼女の意図に沿うよう、リードされ巧みに今の場所に導かれてきたという感覚が、じわっとみーくんの頭にしみてくる。
いい感覚であるはずがない。
妊娠の心配もあった。けれども、純粋に「好き」だという理由だけで、篤子ちゃんはにわかに自分との結婚を考え付いた訳ではないだろう。やはり母親の言ったように、
(家を出たいんだろうな)
みーくんは煙草の灰を長くしながら結論づけた。
父親っ子の彼女はだから、嫌だったのだろう。
だから、考えて思いついたのだろう、彼女が家を出ればいいことを。
円満に、父も新しく母になる人も安心させてあげられる結婚という格好の逃げ場があることを、彼女はいつ気づいたのだろう。
(言ってさえくれていれば…)
こんなにこだわりもしなかった。彼女の悩みを、多分すっぽり受け止めてやれた。納得もできただろう。
承知の上で、自分は彼女を求めたに違いない。
(あの子が、わからない)
幾度も身体を重ねた。求めると、抗わない彼女は可憐で優しくて、ひどく彼に可愛らしかった。
抱き合うその瞬間の狭間、狭間に、篤子ちゃんはもしや考えなかったか、
「先生は、簡単」
と……。
(止めよう)
みーくんはそのまま立ち上がった。
考えれば考えただけ、頭の中の愚痴と繰言にぶくぶくと溺れそうになるのだ。それは気分が悪かった。
 
 
思いがけず、既に前金さえ支払い済みだったバリ行きの旅行が中止になった。
「現地の気象の理由でして…」、電話口で詫びる担当者の声を聞いても、みーくんはそう大きな落胆もなかった。新聞で、彼自身が現地のそんな記事を目にして、どうかな、と考えてもいた折だったから、すぐにわかりよく了解した。
予定通り連休に式を行うとすれば、時間もなく、もう次の旅行プランのあてもない。そもそもキャンセルになったプラン自体が、こんな差し迫った日程に、よく見つかったと思っていたくらいだ。
ともかく、篤子ちゃんに連絡する。彼女は、
「あ」
と言ったきり、ちょっと黙り、「そう」と告げた。
それはちょうど昼の休憩時で、みーくんは人気のないロビーの窓から、身を乗り出すようにして彼女に電話をかけていた。陰った場所に吹く風が、四月も下旬になるのに冷たくて、彼に心地よかった。
「どうしようか?」
問う形ではあったけれど、彼女の答えなど、実はみーくんは期待してもいなかった。案の定、ちょっとした沈黙が続き、
「うん…」
と返事にもならない声が聞こえた。
「篤子ちゃん…」
彼が言葉をつなぐとき、ふらりとロビーを横切って、バイトの亮くんがやって来た。こちらへ手を出すから、煙草かと思い、ポケットのそれを箱ごと差し出すと、
「財布忘れちゃった」などと言う。自販機のジュースが飲みたいらしい。みーくんも財布はデスクだ。ないと首を振りかけて、ポケットに朝のお釣りがあったのを思い出す。それを亮くんにくれてやった。
「サンキュ、みーくん」
亮くんがちょっと離れたのを潮に、みーくんは途切れた言葉を続けた。
「しょうがないから、延期しよう。ちょっと、急ぎ過ぎたみたいだから」
 
その声に、自販機の前でジュースを選ぶ亮くんが、さっとみーくんへ振り返った。
電話の相手が、みーくんがめろんめろんになって溺愛している篤子ちゃんだと亮くんにも読めた。彼らが近く電撃結婚をする予定というのも知っている。
なのに、亮くんにみーくんの声はちょっと硬かった。まるで、生徒に数学を教える彼のようだった。彼の側に既に決めたシナリオがあって、それを篤子ちゃんにただ告げている、たとえばそんな風な。
(どうしたんだろ?)
ちらりとみーくんをうかがうと、彼は短い通話を終えて、電話をシャツの胸ポケットにしまったところだった。
ちょっとだけいつも眠たげな目を、瞬いている。
 
 
篤子ちゃんはお定まり通りの、まるでコピーしたようなメールの文章に、やっぱりいつも味気なさを覚えている。
みーくんからの必ずある、毎晩の十時ごろにあるおやすみメールはいつも決まって、
『おやすみ』
だけだ。
面倒なのだろうし、忙しくもあろうし、書くこともないのだろう。けれども、電話だと声ではとても優しい彼が、文章ではこうも硬くなるのはどういうものだろう。
その晩のメールを見て、篤子ちゃんはベッドの上で膝を抱えた。ふと思い立ってドアを少し開けてみた。階下から、父の声に混じり、困ったようなそれでも途切れない長瀬さんの声がする。
今夜食事を一緒に家で食べて、今もまだ姿がある。ちょっと前まで篤子ちゃんもリビングにつき合っていたのだけれども、二人に気を使ってと、用もあるのとで自室に引き上げたのだ。
耳を澄ますと、二人が話しているのが自分のことだと理解がいった。急に結婚が延期になって、それは旅行会社のせいというよりも気象のせいであるが、その後の予定も立っていない状況に、長瀬さんは不満も憤りもあるらしい。
届く声でそんなことが、篤子ちゃんにも知れる。彼女がいたときは遠慮があったのか、そのことには触れなかったのに、父と二人になるや、やっぱりその話題を持ち出している。
みーくんが篤子ちゃんに告げただけで終えず、父にも説明に来たこと、それはいい。けれど、ただ「延期」を告げただけで、彼はその後に触れなかった。
それを、
「まるで放ったらかしみたいで、ひどいじゃないですか」
と長瀬さんは言う。
「篤子ちゃんが、気紛れに遊ばれているみたいで、気分がよくない」と、そのちょっと声が尖った。
「まあ、みーくんも忙しい身だから、この間も一人講師が入院して参ったと言っていたから…」
父のとりなす声が続き、篤子ちゃんはそっとドアを閉めた。
式が延期になって、その連絡の電話の後、彼とは連休中、一度だけ会った。父が口にしたように、折り悪く彼らの予備校のスタッフ(本城さんではない)が一人短期入院することになり、ゴールデン・ウィークの連休中も、ほとんどその穴埋めのための準備に忙殺されていたらしい。
会った際、彼の部屋に行ったが、テキストがテーブルに散乱し、勉強していた様子が見られた。
「急に求人かけても無理だから」と、今のスタッフで何とか補いつつ欠員を埋めるようだ。
篤子ちゃんには異次元の世界で、ちょっと「大丈夫なのかな、先生」と不安な気持ちにもなったけれども、すかさず、彼の気負わない声で、
「大丈夫、何とかするよ」
と穏やかに降ってくると、その声の強さのない不思議な安心感に、ふと納得させられてしまったのだ。
この事柄に、多分、と彼女は時を置いても感じる。
(先生は、何とかしようと決めたら、何とか出来る人なんだろう)
何であってもいい、それをするのに、人を傷つけたり貶めたりすることもなく、難しければ、少し自分に無理を強いるだけで、涼しい顔で、まるですらすら運ぶかのようにやり遂げてしまう。
(そんな人なんだろう)
篤子ちゃんは、そんな彼をまぶしくも頼もしくも思い、しんみりと深く素敵だと感じる。
その彼に今、一番寄り添っているのは自分だ、と篤子ちゃんは意識している。愛されているとも、自覚している。
(でも…)
鳴らない電話。
会えない時間。
それから、
(素っ気ないメール)
そして彼にあって、自分にない部分を感じるときの「あ」というほどの微かな劣等感。自分は相応しいのか、ほんのちょっと、彼女だって思うことくらいはあるのだ。
それから、ふわっと消えてしまったような結婚の約束。
式のキャンセルは誰のせいでもなく、しょうがないことだともちろん納得できる。忙しい彼の日常も。
けれどもやっぱり、淡い恋の悩みが絡まれば、胸の奥が疼くような、ちょっと言い難い痛みを感じるのだ。
長瀬さんの口にしたような、みーくんに「まるで放ったらかし」にされているとまでは思わないけれども、それに近く、遠くなく、篤子ちゃんは切なさを感じている。
今夜も電話はもう鳴らなくて。
メールも途切れて。
(先生に会いたい)



          

Impressionsご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪