永遠という言葉の、それはそれは尊いこと
祈るひと(1

 

 

 

その人が店先に佇んでいるのを見かけたのは、ちょうどわたしが習い事の帰りのことだった。

日暮れ近く、足袋の爪先がきんと冷え出す頃合。店までもう数歩のことだ。「どなたでしょう?」と、半歩遅れてわたしの後ろに付く、女中のおみつが、不審そうに声をひそめてささやいた。

「さあ」

おみつが不審がるのも尋常で、店の暖簾先で、中へ声をかけるか、ちょっと思案をしているかのように立っているのは、軍人さんらしい。ゆらりと伸びた背には官製の外套が見え、平たい帽子が頭にややずれてのっかっている。

それが商家の建ち並ぶ町の光景とひどく不似合いで、わたしも足を止めた。

我が家の商いは呉服物で、軍人さんは用がないはずだ。いずれかへ贈り物でも求めてのことかと、ちらりと思いはするが、そうであれば、気安く暖簾をくぐればいい。それに、お客にしては時刻も少し遅いだろう。

濁った色の軍服に、胸の奥を、暗い思いが影を落として過ぎった。先だってのシナへの出兵で、我が家で奉公していた若者が、一人命を落としている。失っている。大事な、あの人の命を。

それはまだ、思いをめぐらせるだけで、肌がひりひりとなるほどの衝撃でもある。

軍人さんの躊躇いがちな背へ、わたしは声を掛けた。

「ご用でございましょうか?」

『成田屋』と染め抜いた暖簾をちょっとつまんだまま振り返り、軍人さんは、一瞬きょとんとした顔でわたしを見た。頬のこめかみに近い部分に、一目でそれとわかる傷痕がある。それが表情を精悍にも見せているし、また粗野にも見せる。

「君は、ここの…」

ここの、でつまんだ暖簾を軽く引いた。その仕草が見かけに不似合いでおかしく、わたしは薄く笑って、頷いた。

「娘にございます」

肩章と胸に付いたしるしで、この人が将校であることは、軍の知識の乏しいわたしにもわかる。

外の様子に、中の奉公人が様子を見に出てきた。

「お嬢さん、お帰りなさいませ…」

軍人さんとわたしの顔を比べつつ見、小腰をかがめる手代の将太に、「ご用だそうよ」と告げ、将太に軍人さんを任せた。

 

部屋の時計が六時を指す頃、女中のおみつが顔を出した。六時半と決まった夕飯にはまだ早い。

わたしは顔を上げもせず、膝や畳のその辺りに広げた華やかな小布に目を当てている。

「文緒お嬢さんは、どう思いなさいます?」

わたしの二つ上で今年二十一になるおみつには、まとめもせず、思いのさま言葉を口に出す癖があった。ときに急くように問いかけ、意味の量れない相手を困惑させもする。

「何が?」

いつものことで、軽く訊き、針に目を落としたままでいる。

品物にはならない端布を、様々柄に合わせて組み合わせて縫う。こんなものは、我が家には商売柄あふれている。それで風呂敷も作れば、手提げも作り、またはお座布団も出来る。娘らしく愛らしい品は、持って歩けば、友人たちにもちょっと人気なのだ。

わたしの小さなころからの、日々のたしなみの一つだ。

「もう、お嬢さんたら、のんきな方なんですから」

わたしの反応の鈍さに焦れ、ちょっと目を上げれば、大袈裟に袂を振り、おみつはぺらぺらと話し出した。

話しの流れに、わたしは「え」と驚き、ようやく針の手を膝に落とした。先ほど店先で見かけたあの軍人さんが、座敷で父と歓談しているというのだ。

父は上機嫌で、「文緒を呼んで来い」と、おみつを寄越したという。

「旦那さまは、本物の軍人さんがお見えで、よほどご機嫌がよろしくって、じゃんじゃかお振る舞いなさっていますよ」

父ならありそうなことだ。

「ご挨拶なら、さっき済ませたでしょう」

わたしはまた針を取り上げた。座敷へ向かうのは気が進まない。将校らしい軍人を相手に、商家の娘がどう振る舞えばいいと、父はいうのか。

「お二人で、お話しなさったらよいでしょう? 難しい話は、文緒はわかりません」

父の陸軍贔屓は店の誰もが知っている。近所の旦那衆もきっと知るはずだ。恐ろしく、殺伐とした状況を伝える新聞を、「士族の血が騒ぐ」などと、父は流行の小説でも読むように嬉々として目を通す。

手代の隆一が戦地で死んで、まだその知らせから一年も経たない。可愛がっていた奉公人のことは、父はもうとうに水に流してしまったのだろうか。

将来は、わたしの婿にも迎えようと、目をかけ慈しんできた青年だったのに……。

「何でも、今晩からご逗留らしいですから…」

小布に針をあてがったとき、おみつの声が耳に入った。あまりな出来事に、わたしは針を指先にちくんと刺してしまった。

「何ですって?」

ようやく興味を持って自分の話を聞いてもらえることが嬉しいのか、おみつはにこにこと、

「ええ。だってもう旦那さまがお決めになりましたもの。何でも、三日前の火事で軍の宿舎が焼けて…」

 

わたしが敷居際で挨拶を述べ、その下げた頭を上げたとき、その人は片頬を口の食べ物で膨らませていた。

外套は脱ぎ、床の間を背に胡坐をかいていた。こちらに向いた靴下に大きな穴が開いているのが目に付いた。

「娘の文緒ですよ。さ、霧野様にお酌なさい」

黒檀の机には、取り寄せ物らしい皿がずらりと並び、既に銚子が四〜五本も開いている。

わたしは膝を滑らせ、霧野という男性が指にのせた猪口に酒を注いだ。

「さっきは、どうも。どこか出かけていたのですか?」

どうでもいいような声で問う。この人に興味などある訳がない。どこへでもいいではないか。わたしは、瞳を下げ、

「刺繍のお教室に」

と小さな声で答えた。

「ほお、それはそれは」

からかうような馬鹿にしたような、けれどどこか驚いている響きもある。そう口にしたそばから、汁物の椀をかき込むように喉にやっている。

よほど空腹であるのか。軍人とは、こういったものなのか。

下品な仕草であるが、軍服の威厳と、気取らないこの人の本性のようなものが垣間見え、すっきりと整った眉目でもあり、それほど見苦しくもなかった。

わたしは父の隣りに動いた。そのわたしの袖を引くように、父が、

「霧野様は、我が家に隆一の遺品をお届け下さったのだよ」

「え」

わたしは父の顔を見た。

父は頷き、膝に置いた、小さな帳面のような粗末な手帳をわたしに差し出した。黄ばみ、縁が欠け、ざっと中を繰れば、破けている箇所もある。少し目を通してみる。簡単な日記のようなものだが、大半が白紙のままだった。

父が、霧野様に代わり説明をした。なにせ、彼は目下鯛の薄作りに夢中で、箸ですくっては、がつがつと口に運んでいるのだ。話しどころではない。

「シナでは、霧野様は隆一と同じ連隊におられて、あれの上官でいらっしゃった。撤収の際、遺品の忘れ物があるのに気づかれて、持って帰って下さったのだそうだ。それをわざわざ…」

父はそこで声を途切れさせた。瞳を何度も瞬いている。隆一の形見に、こんなとき新たに触れ、時間を置いた今、悲しみや痛みがまたぶり返したのかもしれない。

わたしだって、まなじりに熱い涙の雫が浮かんでいる。

遠くない隆一との記憶が甦り、くるくると頭を回っている。それはどれも懐かしく、切なく、そして温かで優しい……。

そんな父の手を、手帳を持ったままの手でなぜた。

この父の様子に、勝手に我が家に居候を置くことを決めた怒りも、ちょっとだけ凪いだ。父は、どこかで寂しいのかもしれない、と。

ちらりと客人に目を戻せば、いまだ口一杯に物を含み、頬を膨らませている彼の姿がある。

手に触れたままの隆一の手記の一節は、今も目に鮮やかだ。

 

『本日、晴。午後よりにわかに雨。

気温甚だしく下る。

霧野中尉に煙草を差し上げる。ご自分のは泥濘に落としたとおっしゃる。

少し会話する。

殊に爽やかなご気性は、感激なり』

 

もういない隆一は、遠い異国の戦地で彼をそう記している。




          


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