梔子(クチナシ)の香りに誘われて
祈るひと(2

 

 

 

隆一は、今年二十二歳になるはずだった。

気がつけば、わたしの毎日に、彼はいつの間にか役割を持って、そこにあったように思う。

小学校から女学校に行き帰り、付いてくるのは女中の誰かであったが、暖簾をくぐるわたしの背に、「行ってらっしゃいませ、お嬢さん」、「お帰りなさいませ、お嬢さん」と、彼は声をくれる。

わたしが不機嫌な顔をしていようものなら、彼自身が不快な目にあったかのように、細面のあの白く柔和な顔を、辛そうにやんわりとしかめるのだ。

わたしの抱えた悩みなど、どれもちっぽけなものばかりであったのに。

級長に今年も選ばれなかったこと。

答案に付いた意外な×印の多さ。

または自分よりも珍しく華やかな柄の着物を着た級友がいたこと……。

わたしの子供じみた憤懣のぶつけ先に、彼は自ら立っていてくれたようにも、思う。

「それは、文緒お嬢さん、残念なことでしたね」、「次はいい目がありますよ、決まっています」、「そちらの方がずっとお似合いですよ。ほら、今銀座に掛かっている活動写真の女優のようだ」……。

わたしの向けるそのままの直截な機嫌を、隆一はにこにこと、ときにしんみりとした表情で、またはおどけるように軽やかに流してくれた。

ただで向けられる彼の優しさに、当たり前にわたしは甘えていて、父が、隆一をわたしの婿がねにと考えており、ゆくゆくは店を任せるつもりであることを知ったときも、自分に都合よく考えたものだ。

将来彼を婿と迎えても、やはり、わたしは彼に甘え続けるのだろう。裕福な商家の気ままなお嬢さんのまま妻となる……。

隆一は、きっとそれを許してくれることを、わたしは小ずるく知っていたのだ。

そして、彼の自分に向ける瞳の優しさ、その色、深さに、優しさだけで測れない、自分への特別な好意を感じていた。

それすらもわたしは、当たり前に思っていた。嬉しくはあった、好ましくあったが、予想のできる範囲内のことで、ちっとも奇異な感じではなかったのを覚えている。

店の者も、お客も、この界隈の人々も、皆がわたしを「成田家の可愛らしいお嬢さん」と褒めてくれた。自分でも思わない節はなかった。

鏡をのぞく、その中に左右反対の、確かに目に心地のいい自分が映るのを、いつからか認めてしまっていたから。

当たり前に思った隆一の存在を、それでも意識し始めたのは、やはり父から彼との縁組の件を聞かされたときからではなかったか。

不快でなかった。そして、ちらりとも不快と思わない自分に、わずかに驚いたのも、また覚えている。

熱く、焦がれる思いは知らない。

けれども隆一と目が合う、言葉を交わす、彼の姿を見る……。それら日常に、薄く色づいたときめきが、胸に芽吹いているのに気づいた。

そして、幼い頃、担任の先生に淡い恋をしたのとは違い、隆一へのそれは、叶う恋だった。叶った恋でもあった。

彼を失った今からそのときを辿れば、自分を包んだ幸福に、わたしは意識を払っていなかった。切なく、惜しいほどに、その毎日を浪費し続けていたのだ。

 

翌日には、軍から霧野中尉の荷を持った従卒が我が家に訪れ、それは、彼の居室に当てられた離れの部屋に運び込まれた。

奥内からちらりとのぞいた気配では、大した荷物もない。女でも持てるほどの行李が一つと、粗く紐で束ねた硬い背の本が幾つかばかり。

ほぼ毎日軍へ出勤する彼とは、食事も別だ。これも女中が決まった時刻に離れへ運んで行く。

「まあまあそれはきれいに、器が舐めたように、きれいになって下がってくるんですよ」

女中のおみつは運んだ朋輩から聞いたことを、まるで見たように話す。彼のあのがつがつとした健啖振りからして、器くらい舐めかねない。

思いがけなく彼の存在が自分から遠いことに、安堵した。隆一の恩人に近い人ではあっても、よく知りもしない青年が家にいるのは、気持ちのいいものではない。

姿を見かけるのは、夜、湯上りにわたしの部屋の前の廊下の窓から、中庭を介して離れが目に入るとき。そちらの庭へ降りる窓も開いており、着流しの彼がそこで寛いで煙草を吸うのが目に入った。

 

ある日、通う刺繍教室が終わり、屋敷の門の外にいつも待つおみつの姿がないことに気づいた。

教師の時間はほぼ二時間あまり。その間は仕事を頼まれていなければおみつにとって自由時間だ。

その辺りのカフェで脚を伸ばしてお茶でも飲んでいることもあれば、側の公園でうとうとと日向ぼっこしていることもある。けれども、時間の切れには必ず出迎えに戻ってきていた。

彼女の姿がないのが怪訝で、やや暮れかけた時分、うっすらと不安にもなる。わたしは一人歩きをしないように育てられた。

「お先に。さようなら」と、女中を従え帰って行く友人らをやり過ごし、うろうろと辺りを見回すと、不意に声がかかった。

「文緒さん」

自分を呼ぶ声に、はっとなる。

声の先には、見覚えのある軍服の彼がいた。霧野中尉は、はらりと肩に掛けた外套のポケットに、両手を突っ込んでいる。

軍部からの帰り、偶然その前の辻でおみつを見かけ、自分がわたしを送るからと、彼女を先に帰したという。

「え」

「君に聞きたいことが…」

わたしは気まずいことになったと、勝手な判断で先に帰ったおみつを、ちょっと呪った。よく知りもしないこの人と二人きりにするなんて、ひどいではないか。

普段なら、刺繍箱を包んだ風呂敷の包みは、教室を出た際おみつに渡すが常だ。それを自分の腕に置いたまま、背の高い彼を見上げた。

「何ですか?」

彼はそれに答えず、わたしの腕の風呂敷包みをさっと自分の手に取った。腕に抱えず左の指に引っ掛けて提げ、

「歩きながら」

と道を促した。

互いにしばし無言で歩く。

その短い時間に、わたしは彼が聞きたいという事柄は、おそらく隆一に関したことであると思った。でなければ、わたしたちの間に何ら話す話題などない。

ふと、彼は声を出した。しかしそれは隆一にことではなく、わたしへの質問でもなかった。遠い欧州での大戦のことや、時局の簡単な説明と、遠くなくまた出兵があろう事を述べる。

けれども、それも、彼がわたしに教え諭そうというものでもなく、ただ彼が普通に常識として知っている事柄を、話の接ぎ穂にでもしているかのような、熱のない声音だった。

戦地の経験のある軍人であり、男である。話す事柄はこの程度のことになるのは、尋常なことに思えた。

父からも似たような話を聞かされたことがある。でもそれは、わたしの知識とはならず、胸をざわめかせただけで、ほとんど耳を通り過ぎていったけれども。

風の強い日には砂埃の舞う、舗装の粗い公園の中を通る。そこは通りへ出るための近道だ。異国の情景を模したらしく、大きく育った常緑樹が、通路の両脇を取り囲んでいる。

帽子に羽織をはおり、襟巻きをして犬の散歩をさせている、どこぞのご隠居らしい姿、稽古事帰りの娘とその女中、子供をあやしながら歩く若い母親の姿が目に付いた。

霧野中尉の声が途切れた。わたしが相槌もせず、聞き流していたからかもしれない。でも、決して面白い話しでもなかった。

また沈黙。

今度はわたしが口を開いた。

「霧野様は、それは大した秀才だって、父が言っておりました。あの帝国大学を、お出になったのでしょう?」

呆れたような小さな笑いが返った。

「金があれば、誰でも出られるさ」

急に、口調がぞんざいなものになった。面白くない話題なのだろうか。

全国の秀才が集まる大学である。金があればそれだけでは入れるというのはおかしい。現に、資産家で鳴る隣町の山本屋の跡取りは入学を許されなかった。

優秀であると、確かに選ばれた存在の彼にとって、わたしの言葉は耳に心地よくない話では決してないはずだ。

歩に連れ、彼の下げた風呂敷包みがふらふらと前後に揺れる。どこかで烏が甲高く鳴いている。

普段なら、気軽におみつを連れ、甘味処にでも道草するのに……。

無言で彼と歩を進めることに倦み、わたしはほろりと言葉を発した。そこに皮肉がにおうのを、止められない。

「では、霧野様は大層なお金がおありになったのね。…随分とがつがつと物を召し上がるので、文緒はてっきり、霧野様を食べ物にも事欠く貧乏な方だと思い込んでいました」

「あははは」

わたしの嫌味な言葉を、彼はからからと笑って流した。

「いや、あんたの言うことは正しい。俺は食い物にも事欠く貧乏人だ」

「あんたなどと呼ばないで下さい」

「すまない」

彼はまだ口許に笑いを残したままの顔を、わたしへちょっと傾げた。そのまま「聞きたいこと」とやらを続けるのかと思えば、わたしに、こちらの日常を話させるのだ。

口ごもれば、「いいから」と促す。

女学校を終えてから、刺繍を習い始めたこと。それが楽しいこと。

空いた日はお茶とお花の稽古もしていること。

何もない日は、家で裁縫ごとをすること。

母と買い物や活動写真、芝居を見に出かけること……。

そんな、彼にはどうでもいい、退屈だろうことを、頷きながら聞いているのだ。

少し目を細めた。そのまなじりに、やや伸びた前髪が、帽子で押されて触れかかる。整う鼻梁の辺りに、わたしの位置から瞳をやれば、うっすらと影が見えた。

何かを、思い巡らせでもしているかのように、その影は見える。

「結構な毎日だ」

聞き終え、彼は感心したかのようにそんなことをつぶやいた。

何が結構なのだろう。わたしのような立場の若い娘には、きっと共通した毎日だ。女学校を終え結婚までの、束の間の自由に似た日々でもある。

「そうかしら、特にそうも思いませんけれど」

「いや、それは君の贅沢だ。上げ膳据え膳で、毎日あんな旨いものも食える身分だ」

「まあ、我が家の食事がお気に召したようで、嬉しいですわ」

「俺にも妹があるが、…とても君のような暮らしはできなかった。羨ましくも思う」

「え」

わたしは絶句した。

もしかして彼は、亡くなった妹御の影を辿っていたのかもしれない。だから年が近いだろうわたしに、さもない日常を訊きなどしたのか……。

「あの」と声を掛け、わたしは彼を横目でうかがった。

「お妹御は、いつお亡くなりに?」

「いや、死んでない。壮健だ」

そのあっけない返しに、ちょっとした同情を浮かべていたわたしは、肩すかしにあった。

口を尖らせ、

「でも、霧野様はお金持ちでいらっしゃったのでしょう? だから帝国大学に入れたとおっしゃったじゃないですか」

父からは、霧野中尉の家柄は、徳川期の直参旗本の大層な家柄だと聞いている。

父はそれにしきりに感心し、感銘を受けていた。「同じ士族だが、陪臣の我が家とは血筋が違う」と、時代錯誤なことを言っていたのだ。

今は大正の時代。

遠く、幕府の禄を食まれたお旗本衆の方々が、皆豊かな生活をしているとは言い難い。苦しい日々に喘いだ毎日を送る家もあろう。

けれども、息子を最高学府にまで通わせるには、相当ではなくとも、やはり少しは貯えと余裕のある家でないと難しいはずだ。

彼はがつがつと物を食べる自分を「食事にも事欠く貧乏人」だと言うが、それはおかしい。

「いや、違わない」

「金は、妹が作ってくれた」と、それはひとり言に聞こえた。だから、わたしは耳を澄ますだけで、言葉を挟めなかった。

そして、

え。

と心の中で起きた驚愕は、大きい。

「紫(ゆかり)は、見初められてある華族の妾になっている。金と引き換えに、自分からそう望んだ。俺のために…」

言葉も返せずに、彼について、わたしは黙々と歩を進める。自分の履物の先を、いつしか目で追っていた。

そこへ、ふと頭頂部で結ったリボンを軽く引く気配がした。目を上げるとその手は既に離れており、続いて渇いた声が降った。

「あんたは十分恵まれている。なくす前に気づいた方がいい」

「あんた」と、再び言われ、癪に障ったが、少し頷くだけで敢えて抗わなかった。

彼の言った言葉が、しんと胸に響いたのだ。

大切さは、ありがたさは、その恩恵を愛情を失ってから人を襲う。満たされた幸福に気づけずにいた過去に苛立つほどに。

どうしてもっと大切にできなかったのか。

どうしてもっと、感謝できなかったのか、「ありがとう」と一言も言えないまま……。

まぶたに隆一の影が見える。その影は、わたしをいつもの優しい声で、「文緒お嬢さん」と呼ぶのだ。

 

二度と聞こえないあの声で。

 

せりあがる涙の元を、わたしはごくりと喉に飲み込んだ。そうしながら問う声は、涙の色をしている。

「…霧野様、わたしに、聞きたいこととは?」

彼が訊ねたのは、やはり隆一のことだった。

隆一が、好きな娘がいると言い残していたこと。叶うのであれば、その娘の自分への気持ちを知りたいと言っていたことを。

「筒井の言っていたのは、許婚だったあんたのことじゃないかと、思うんだが…」

また「あんた」だ。ちくんと腹が立ったが、ここは流した。

 

「隆一は、一番側にいてくれた人でした……」

 

わたしはそれを、彼へのすべての答えに代えた。




          


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