寂しい思いはさせないと抱きしめる
祈るひと(43

 

 

 

翔和十四年十一月二十八日

 

早百合は、セーラーカラーのワンピースにウールの外套を羽織り、デッキへ出た。波は凪いで穏やかだが、吹く風は洋上とあって、更に冷たい。

それでも、一月の米国滞在の後では、日本領海に入れば風すら柔らかく懐かしく感じる。

旅客に混じり、手すりへ身を乗り出す。目に入るものなど波と空、他米粒のように見える船だけだったが、もうわずかもすれば、日本の地を踏むことが叶うのだ。それだけで彼女は心が弾み、少々寒いからと、船室にばかりこもっていられない。

彼女の背を追い、こちらは和装の中年女性が早足でデッキを駆けてくる。その手には帽子と、厚いショールが見えた。

「お嬢さん、危ないですよ、そんなにお身体を乗り出したりして…」

「あら、おみつ。お昼寝していたってよかったのに。だから、お部屋に置いてきたのよ」

昼食の後で部屋に下がり、うたた寝をするおみつを置いて、早百合はデッキに上がってきたのだ。

「早百合お嬢さんをお一人になんて、させられますか。アメリカ滞在中、お嬢さんのことは文緒奥様より「おみつ、あんたに任せたわ」と、よくよく言い付かっておりますから」

「はいはい」

早百合は、おみつが差し出したつば広帽子をおとなしく頭に載せ、顎でピンクのリボンで結わえた。おみつの手を引き、自分と並ばせる。

「あと一時間ほどで横浜でしょう?」

「ええ、予定表では…」

「お父様もお母様も、迎えに来て下さっているかしら、どう思う?」

「いらっしゃるって、先日ニューヨークのホテルに電報が届きましたもの、いらっしゃるに決まっていますよ」

「そうかしら、でもお父様、お忙しいから…」

おみつは、かもめに目をやる早百合の視線を追い、父霧野中将の友人に歓迎された米国での滞在を、この十六歳の少女が楽しみながらも、ふと、折々我が家を懐かしみ、寂しがっていたのを思い出す。

(大人びたところもあるようで、まだまだご両親に甘えたいお年なのだわ)

今回の早百合の米国行きは、父の友人であちらの政府の高官夫妻が招いてくれたことが発端だった。利発で好奇心の強い早百合は、その父づての誘いに、迷いもなく喜んで受けた。

雑誌やニュースなどでは知れない海外を目にしたかったのだ。あちらの食べ物を食べ、舞台を見、目の色髪の色、肌の色の違う友達もほしかった。滞在するニューヨークから遠出し、旅行もしてみたい……。

母は少女の渡米に難色を示したが、夫中将の「経験だ、行かせてやれ。もう子供でもあるまい」に、従った形となった。

早百合の願いは、一月の滞在の間にほぼ満たされていった。単身異国にやってきた勇気のある少女を、パーカー夫妻はその子息と共に歓待し、少女の他愛ない願いを叶えてくれたからだ。

四十を少し越えた、お付きのおみつも、生来が出好きで人好きする性質であったため、この不惑を過ぎての、思いがけない初の海外滞在体験を、随分と楽しい思いで過ごすことができたのだ。

「スチュアート坊ちゃんは、お嬢さんのことお好きだったようですよ。ほら、乗馬もお上手で、お年も近いし」

「いやだ。パーカーの小父様嘆いていらっしゃったわ、学校のお点が悪いのだそうよ。早百合は頭のよい男の人が好き」

つんと、そんなことを口にしながら、少女がその実まんざらでもないのを知るおみつは、その澄ました様子をにんまりと眺めている。パーカー夫妻の子息スチュワートは、もう青年といっても差し支えのない、金髪のスマートな少年だったのだ。

「ふふ。じゃあ、お父上の書生の如月少尉殿のような?」

「まさか。あの人靴下に大きな穴を開けて平気でいられる人よ。お母様が見かねて、新しいのを差し上げたりして…。お食事も、「舐めたの」ってほどきれいに平らげるのよ。よほど貧乏…、じゃなくて、我が家の食事がお気に召したようね」

常日頃から母には、人を指して、冗談でも「貧乏人」などと口にするなと、少女は、これは厳しいほどに躾けられている。けれども、母のその叱責が届かないこんな場では、つい思ったままが出てしまう。

失言を急いでごまかし、「論外」とでも言いたげに、表情をしかめて答えた。

如月少尉とは、霧野の屋敷に住み込む、中将の従卒であり見習い、であり雑用係の若い書生だ。

帝大出の抜群の秀才であるが、気さくに銀座へ夫人の文緒の買い物もつき合えば、その母に付き、芝居見物もこなす。また、中学生である長男恭緒のいい家庭教師も務める。

早百合は、ワンピースのポケットから飴玉を二つ出し、一つをおみつにくれてやってから口に含んだ。飴玉で頬をふくらませながら笑い、

「お父様、『帝大は、「低脳」の集まるところだ』って、ご自分だってご出身のくせに。そうやって適当な難癖をつけて、何人も書生候補を落選させてきたのよね。おばあちゃまが笑っていらしたわ」

書生を数人屋敷に置くのは、将官になれば当たり前のことだった。若者の立身の一つの方法でもあり、自薦他薦、諸々斡旋が来る。

霧野中将が将官に列し数年経つが、書生を置いたのは、当時苦学生であった如月少尉が初めてで、しかもまだ二年に満たない。若者を従えるのが好みでないのか、その用がないだけか。増やすつもりもないらしい。

おみつはそれを、中将が過去の自分を思い合わせ、青年将校を屋敷に置くことへ、警戒の念を抱いているのでは、などと深読みしている。

いまだ娘のような容色の夫人や若い令嬢の早百合を、妙な目つきで見ようものなら、あの凄味のある主人のことだ、本気で木刀で撲殺しかねない、と。

(ご立派におなりになっても、京の壬生浪のような雰囲気の方だもの。お若い頃と、ちっともお変わりにならないわ)

その点、如月少尉は女にしたいような顔立ちに、またこれもほっそりとした優しげな身体つきだ。奥方の文緒へは恐縮し従順であるし、もし万が一、億が一、早百合に言い寄ろうものなら、合気道を習う彼女のこと、軽く懲らしめられそうなのだ。

「女に興味のない、あっちの趣味のお人かもよ」などと、女中仲間とはあけすけに、おかしな噂をしていたものだ。

早百合は独り言のように、家族や友人への土産の品を、ひとつひとつそらんじ始めた。ときに、「ねえ」とおみつに相槌を求める。

「恭緒に買ったウールの襟巻き、紺の方がよかったかしら? あの子の学生服灰色でしょう、青だと変に目立って派手かしら?」

「そんなことありません。青い方が、お若い方にはよく映えて、よろしゅうございますよ」

「そう…。そうだ、着いたら、明日にでも、お土産を持って川島の小父様にご挨拶に行くわ。出発前に、たっぷり餞別にお小遣いをいただいたの。紫叔母様のところにもよ」

「まあ、お忙しいお嬢さんだこと」

話は米国での出来事に流れ、観た舞台の話、出かけた動物園・植物園の話、街の賑わいや、流行に及んだ…。

「わたし、パーカーの小父様が、お父様の書いた論文をご覧になっていて、びっくりしたわ。「平和的貢献度は計り知れない」って、すごく褒めていらした。「あの論文がなければ、米国と大きな戦争になっていただろう」ですって、信じられる?」

先年、霧野中将が執筆した論文『国防としての戦略』は、今でこそ、軍事教育機関において必須とされる論文となったが、当初は内容の奇抜さもあり、目立たない専門誌に載ったに過ぎなかった。

それが、不意に脚光を浴びることになった契機は、その地味な専門誌を、某宮様が、興味深くご覧になったことだった。

霧野論文の骨格は、ひたすらに戦争回避である。そして、戦争抑止力としての軍備のあり方示唆している。そこから、混迷と危機を深めていくシナ情勢からの一刻も早い撤退の利と、その法、また別市場の確保の意味、それによる成果……。

それらを簡潔にまとめた論文は、軍部だけでなく国内で大きな物議をかもした。事実、中将自身は、数度の暗殺の危険にも遭遇している。

半年の自主的謹慎後、軍部の流れは、紆余曲折ののち霧野論文に沿うものとなっていった…。

まず応援者となった宮様、そして政治力ある久我子爵の尽力が大きい。その下地工作に、ある高級官僚が関与していたと、一部の者に噂されてはいたが。

そして、経済界から学生、知識人にまで及ぶ、論文支持者の層の厚さが、軍部強硬派を震撼とさせたのは、やや遅れてのことだ。

「そのようでございましたね」

おみつには理解が及ばず、主人の書いた論文が呼び起こした騒動の真の意味を、把握している訳ではない。

けれども、連日新聞を『霧野少将(当時は少将)国賊論が〜』、『不逞惰弱論の〜』などと、明らかに論文を批判した調子の文字が躍り、屋敷の者は使用人に至るまで、はらはらとした日々を送ったものだった。

「論文の内容は、早百合にはまだわからないわ、難しくて。でも、お父様を褒めていただくのって、おもはゆいけれど、嬉しいものね。娘として誇らしい気分だったわ」

おみつはややも胸を反らし気味にし、

「お父上もそれはご立派な方ですが、お母上もご立派でございますよ。なりた家は、わざわざお泊りにいらっしゃるお偉い先生方も大勢あるんですから」

と、どちらかといえば、おみつははっきり文緒の肩を持つ。

文緒が母と営む宿屋なりた家は、このとき十八年を迎えている。贔屓の常連客も増え、この頃には、先代の主人の人脈もあり、画家・小説家といった文化人の定宿と、名が売れていた。

五年前に若干の増築と改装を行っている。

家内及び商売事には全く門外漢の中将が、その工事の折、忙しい義母と文緒の「恭介様、これを食べていらして。わたしたちは宿で…」、「お着替えは、女中に言ってありますから、宿に行きますね」などの言葉に、ぽかんと所在なげにしていたのが、おみつには、おかしく思い出されるのだ。

「そうね、お母様も、おばあちゃまもお偉いわ。早百合はお二人が大好き」

「ええ、ええ」

頷きつつ、在籍する良家の子女が通う女学院の学友に、早百合が、母や祖母の趣味のよさや美しさを自慢しているのを、おみつはとうに知っていた。

(お幸せなお嬢さん…)

ふと、思い出に連れ、少女の出生の頃が頭に甦り、改めて成長した早百合を眺め、あれこれと思いがめぐる。それで、鼻の奥がつんと涙にしみた。

月日が経つのは早いと、その流れの急が、ちょっと切なくもあり、またしみじみと嬉しくもあるのだ。

往時を振り返れば、文緒の無茶な選択も、それを強いた中尉の無理も、おみつには許せず、密かに憤ったこともある。またそれを止められない自分を呪ったこともある……。

手すりに置いた自分の手の、文緒に贈られたパールの粒の指輪のはまった指にしわを見つけ、

(あたしも、年をとったもんだわ。出戻ってから、ひいふうみ…、あらやだ、十五年も経つじゃない)

彼女は、ややも海へ身を乗り出しがちな早百合へ目を光らせる。

「あ」

と、少女が笑みを向ける。「ねえ、おみつ」と、その声も顔立ちも、良家の令嬢そのままの、他愛のない驕りはのぞくが、可愛らしく澄んだもの。

血のつながりはない。似ているとはいえないが、確かに、早百合のその表情には、育ての親の文緒の娘時代の面影が、ふんわり匂う。

(これは、旦那様も、易々と、若い書生を家に置けないわね。昔、ご自分がなさったように、飢えた狼みたいなのに、奪ってかれちゃうもの。ふふ)

「何です? お嬢さん」

早百合が言い出したのは、米国へ立つ間際の両親のちょっとした不仲だった。喧嘩というほどの深刻なものではない。夫である中将が、夫人とのちょっとした約束を反故にしたことによるらしい。

その理由を、おみつは文緒より聞かされ知ってはいた。中将が、つき合いで行った花柳界の茶屋で、寝入って朝帰りをしたことだった。

夫人の文緒は、翔和の新時代の女とは違い、明治の女である。表向きは家族や書生の目もあり、夫を立て、ちらりとも不快の気配を見せない。しかし、おみつや母の前では、かつての娘時代のように、ふくれっ面を見せることも、これで結構あるのだ。

さすがに夫婦で、中将も文緒のわずかな不機嫌にすぐ気づいた。きっと詫びたはずだが、簡単には彼女の機嫌は直らなかったと見える。

その後、茶屋泊まりの埋め合わせにと、中将が、おびただしい数の薔薇の花を夫人に届けさせたのは、その日の午後。寝室といい居間といい、玄関といい、子供部屋といい、屋敷中あちこちが薔薇であふれる数日間だった。

「帝都中の薔薇が集まったみたい」と、大げさな表現で喜んだのは、少女の早百合で、さすがに男の子恭緒は、ロマンチストとはほど遠い父の、この行為の異常さに気づくのか、ややも弱い気管支を持つため、しばし咳が止まらなかった。

薔薇は、文緒の好きな花だ。不意の贈り物に喜び、中将には「嬉しいわ」と笑み、礼は言ったものの、またもや母やおみつには、

「恭介様は、いつから女に贈り物をなさるのがお上手になったの? お若い頃はそんなこと、ちっとも気にかけたお人ではなかったのに」

などと、まんざらでもないくせにぼやく。

あれで、彼が薔薇も贈らず放って置けば、それはそれで、「恭介様は、随分と冷たくおなりになったわ…」などと、母とおみつを相手に必ずぼやくはず。

「お加減でも悪かったの? お母様。それでお父様、お好きな薔薇をうんと奮発なさったのかしら?」

まさか、本当の事情を娘の早百合には話せず、おみつは、「さあ、そうかもしれませんねえ」と、笑いを殺しながらごまかした。年を経た分、自分の失敗も踏まえ、夫婦のことは所詮その二人にしか、わかりなどしないのだから…、との料簡がある。

船は定刻より二十分ほど遅れ、港に着いた。降り出した冷たい小雨の中、波止場は出迎えの人々でひどく賑わう。

人の群れに、軍服姿に外套を肩に引っ掛けた、父の中将の姿を見つけ、早百合は駆け出した。彼の肩のキャメルの外套は、昨年義母が、彼に、と特に仕立てさせた英国製のもの。

「お父様」

と抱きついた。父も娘の頬をなぜ、

「パーカーは元気だったか?」

「ええ、とってもよくしていただいたのよ」

中将の横に、こちらは小柄な和装の婦人が見えた。文緒は、薄紫地のお召しに肩へカシミヤのショールをたっぷりと纏っていた。父に抱きつく娘の背を、「お帰り」とぽんぽんとを叩き、小走りに追いついたおみつへねぎらった。

「ありがとうね、おみつ。早百合が面倒をかけました」

「いいえ、お行儀よくなさっていらっしゃいましたから」

早百合が父の腕にぶら下がり、

「恭緒は学校よね。でもあら、おばあちゃまは?」

「大事なお客様があって、でもあんたの船が着くから、宿を任せて残ってもらったの」

「そう。ねえ、お紅茶とケーキがいただきたいわ。船の中のは、あんまりおいしくなかったの」

と、さっそく早百合が両親に甘える。「おばあちゃまには、ケーキを持って帰りましょうよ、お父様、早く早く」。

「わかった、わかった。おい、うさぎ」

中将は傘を差し掛ける、後ろに控えた如月少尉へ振り返った。車を回すよう命じている。「うさぎ」は、少尉のあだ名だ。色白で目が充血しやすく、似ていると中将が付けた。

「はい、ただ今」と慌てて彼が、これもうさぎらしく、機敏にぴょんと駆けていく。

うつむいた文緒が、小さなくしゃみを幾度かハンカチで押さえた。ほどなく、回された車に向かい、歩を進めながら、中将がちょっと身を屈め、手袋の手を彼女の背に当てた。文緒に何かささやいたようだ。数歩後を行くおみつにも、声は聞こえない。

そこに、妻を気遣う夫の優しい仕草を見るだけだ。おみつはいつからか、中将が妻へ向ける言動の端々に、彼が若かったときにない、細やかな情愛を感じることに気づいていた。

そこに、家族となり、絆を結び、時間を経た二人の今がある。

(こればっかりは、惚れた腫れたの、夢中の頃には難しいのよねえ)

文緒は夫のささやきに、わずか首を振り、彼の腕にちょんと指を置き触れた。答えのように。

(文緒お嬢さんも、お幸せ)

 

 

スチームを切るように言ったのは、どれほど前だったかしら。

わたしは寝返りを打ちながら、薄暗く冷えた部屋の空気に身を縮込ませた。途端、喉の奥から咳が続けて、あふれる。

ここのところの忙しさのつけか、二日前、早百合を迎えに港へ出かけて以来風邪を引いてしまった。熱のぽんと上がった今日、母の勧めで宿も休み、横になっていたのだ。

ここで無理をすると、去年のように、長く寝込むことになるからしようがない。年末は、宿も宴会や会合で立て込むのだ。こちらは、母任せにのんきに寝てなどいられない。

冷えているのに、スチームの余韻か、首筋が汗にしっとりとぬれている。乳房の辺りもそう。拭いたい、と思い身を起こしたとき、襖が開いた。

髪を片肩へ流し、振り返る。中尉だ。

おかしい。

もう立派に中将になった彼を、わたしは今も何となく、頭では「中尉」などと呼んでしまっている。

彼は軍服を着替え、湯上りか単衣だった。ふと時計に目をやれば、十時に近い。気づかずにいたとはいえ、出迎えもしなかったことを詫びた。

中尉が片膝をついて傍に座る。母にわたしの様子を聞いたらしい。

「大丈夫か?」

「あなたのお床、客間に延べさせたのよ。風邪が伝染るから、あちらで休んで」

「無理して、紫の孤児院の手伝いなんかするからだ。もう放っておけ」

彼の妹御は、孤児のための養育施設を持っている。そのための寄付を募る園遊会に招かれたのは、先週のこと。義妹の気安さで、あれこれと用事を請け負っていたら、案外これが身にこたえたらしい。

「家族だもの、何かお手伝いくらいはしたいわ」

「次は、うさぎに行かせろ」

「まあ」

彼へ背を向け、枕元に置いた乾いたガーゼのタオルを手に取った。首に押し当て、胸元へ潜らそうとして、寝巻きの浴衣の衿を広げかけ、立つ気配のない彼へ、

「嫌な方、あちらへ行って」

中尉は返事もせず、わたしの腕を取った。引き、抱き寄せた。タオルを握る手を上からつかみ、そのまま衣の下を潜るから嫌になる。熱で、湯も使っていないのに。

抗っても、易くそれを封じられてしまう。こんなところは、昔と何も変わらない。

「俺がしてやる」

「あ」

彼にタオルを渡し、熱気もあり、わたしはぼんやりと身を預けた。「しんどいのか?」と問う声。ゆらりと首を振る。そうではない。

心地いいだけ。あなたに甘えて、こんな風にしている二人の時間が、嬉しいだけ。

ほどなく、大きく前の寛いだ浴衣を直す。肌をさらした恥じらいがあり、少々きつく「あちらへ行って」と、声が尖る。

「ここでいい」

床に身を横たえれば、昨夜したのと同じ、彼はわたしを後ろから抱きしめた。

いつもそう。いつまでこんな風にわたしたちは眠るのだろう。そんなことを思い、ちょっと切なくも、寂しくもなる。

「恭介様…」

「何だ?」

「ううん、恭緒がね…」

わたしは、ささやかな屈託を、つい子供の話題に紛らせる。「早百合に必ず言い負かされちゃうの、男の子なのに」。

「男だからだろ」

「どうして? 優しいから」

「ははは」

「あら、どうしてお笑いになるの? あの子は優しいわ」

「そうだな」

と、言葉を収めるように彼は、わたしの耳に唇を寄せた。いつもと変わらず、やんわりと、噛む。

いつかの約束を違えず、既に彼は、彼自身がかつては「坂の上の雲のような話だ」と笑っていた、閣下と呼ばれる、影響力のある顕官の身となった。

軍服を纏えば、すっきりとした身には、過去にない威厳が備わり、まぶしさに誇らしさに、眺めるこちらは、見慣れていても「は」とする。

一方、わたしは二人の子の母となり、宿の仕事をし、ようやくそれらを軌道に乗せた。そして、来年には四十になる。

「娘の頃と変わらない」、「お若い」などとお世辞をもらうが、もう娘ではない。それは自分がよく知っていること。

悔やむことなどないけれど、

惜しむことなどないけれど、

 

いつまで……。

 

ふと寝込むようなこんな晩、時の重さに、心がわずかにしおれるのを感じる。たとえば、ぴんと張った心の線が、ほんのちょっと気持ちだけ、緩むような。

身に降り積もった日常のさもないことごとが、どうしてだろう、ため息を呼ぶ。

大切な、愛するものばかり、のはずなのに。

熱のせい、疲れのせい、しんと冷えゆく晩秋の夜のせい。月のものが近いせい。

「まだ怒っているのか?」

「え」

不意の問いかけに、わたしはやや身をよじる。彼の、衣を潜り乳房に触れる指を、やんわりと制止した。

「そんな気がする」

彼が何を問うているのか、瞬時悟れなかった。それが知れたのは、彼自身の言葉で、「海部の持ち込んだ安ワインで、酔いつぶれただけだ」とあったから。

 

あ。

 

それはもう一月以上も前のこと。中尉が、外務省の今ではお偉い海部氏とのつき合いで、茶屋へ行き、そこで泊まってしまった件のことだ。それでわたしは、平静を装いながらも、ひどく面白くなかったのを覚えている。

呼ばれた芸妓の中には、あの梅若の姿もあったという。翌朝彼を送り届けた海部氏が、余計なことを余計に教えてくれたせいで、知らずでもいいことを知り、母やおみつにふくれて見せたのも、記憶に新しい。

その詫びに、彼がびっくりするほどの薔薇を贈ってくれたのは、きっとこの先もずっと忘れられないだろう。

「海部には、例の論文騒ぎの件で、借りがある。断わり切れなかった」

「何もない」と、彼は首筋に唇を当て、ささやいた。

 

恭介様、気にしていたの?

 

「ううん…」

彼には見えない笑みを頬に浮かべ、わたしは、乳房にとどまる彼の指をぎゅっと握る。

ほんのり心が、切なさに揺れるのは、今このときが惜しいから、愛おしいから。早百合の少女雑誌にあった、「センチメンタル」という流行の外来語が、もしかしたら今の気分を表すのかもしれない。

中尉の言葉は、ほろりと頬を緩ませるほど嬉しく、わたしを若やいだ気分にさせる。彼の腕にあるとき、素肌を辿られるとき、ふと、わたしは娘の頃に立ち返る自分を知るのだ。

あの頃のときめきに似たものを、落ち着いた妻の顔で、胸によみがえらせている。ぱっと心を彩る華やぎは、同じものではないだろう、ほのかに色も違う。けれども、そんな自分が嬉しい。

そして、そんなわたしを強い腕で求めてくれる彼が、嬉しい…。

三年ほども前、彼が発表した論文の、深い内容は、学のないわたしには知れない。ただ、それによって引き起こされた大きな騒動だけは、今も鮮やかだ。

連日の新聞報道と、物騒な誹謗中傷の手紙に電話。彼自身は謹慎を促され、危険があってはと、一時わたしや母、そして子供たちは、両国の川島さんのお宅へ移っていたこともあった。

そんな中、彼はあの言葉をくれた。

戦争回避を謳った、国賊視もされたあの論文を書いた訳を、彼は、自身の思想や哲学など立派なものではない、と言い切り、

『このまま行けば、十のうち九分九厘まで戦争は避けられん。軍人の言葉じゃないが、おそらく負ける。今度こそ国が、焦土になるかも知れん。そんな風に国も時代も流れている。勢いに抗うのは無駄骨だ。どうせ止められん。…でも、敢えて無駄骨を折る気になった』

 

「あんたのためだ」と。

 

あのときの彼は、わたしの父がかつてしてくれたような、財産を遺してやることはできない、と言い、ちょっと笑った。「そんな才覚も、甲斐性もない。俺は、あんたやおふくろさんに食わせてもらっている身だからな」。

だから、と敢えて、と、

 

「生きているうちに、あんたを守りたい」と。

 

無駄骨を、何より厭う、合理的で利己的な人なのに。

今もその言葉、意味は、わたしをしっとりと満たしてくれる。愛おしさと嬉しさ、幸せに、くるりと身を包んでくれるのだ。

一度きり、もう二度と口にはしてくれない。

その言葉を、わたしは忘れかねている。折に胸から取り出し、その重さ、愛を感じ、彼とのこれまでの日々を思う。

 

「ありがとう、恭介様」

 

彼には脈絡なく聞こえただろうか、意味が量れなかったかもしれない。

その返しだろうか、欠伸交じりに、

「あんたと、ずっとこうしていたい。軍も仕事もどうでもいい」

彼は、そんなことを言う。それは気負わない、飾らない彼の本音。

そうね。

娘の心のまま、心のうちでつぶやく。

たとえば、大人びた振る舞いの影、落ち着いた帯を締めたその奥に、まだ娘の気持ちをもち続けている自分がいる。あの頃のままの自分が、消えずそこにいる。彼の茶屋泊まりに、ひっそりと、でもやはりふくれて拗ねる、そんなわたしが。

いつまで…、ではなく、心が欲すれば、願えばいい。いつまでも、と。

それを、彼はきっと、欠伸でもしながら、易く叶えてくれるのだ。

こんなように。

これまでも、これからも。

 

 

あなたに恋をして、よかった。 

 

 

 

 

 

 

長らくおつき合いをいただきまして、まことにありがとうございました。
心より、感謝申し上げます。




          


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