覚えていて下さい。忘れないで下さい。
祈るひと(42
 
 
 
赤子の声でにぎわった我が家に、更にひとときの喧騒が訪れた。霧野中尉の無事の帰国が知れたことによる。
母は、彼からわらしとの結婚の意志の言質を取るや、すぐさま行動を起こした。簡素でも略式でも、式を行いたいという。
こちらの返事など待たず、
「お客など招かなくてもいいの。そうね、関係のある方々だけお呼びして、お披露目だけしましょうよ」
その足で、もう納戸へ衣装を検めに向かっている。きびきびとした母の足取りは軽く、ほんのちょっと前の涙の愁嘆場が、まるで嘘のように感じた。
母の去った後、ややのほうけた感も去り、わたしはハンカチで涙を始末し、彼へ顔を向けた。
わたしは母の意図するような婚礼の式など、今更求めていない。恭緒を間に置いた、彼との生活が始まれば、それでいいのだ。照れやはにかみも若干混じり、
「嫌だわ、お母さん、今更大振袖でも着せそうな勢いだもの。恭介様も、ご迷惑じゃない? 改まって、そんな…」
「我慢してやれ。それに、俺は軍服で済む。造作ない」
彼は、膝を崩しながら煙草を取り出し、小さく笑った。「大振袖って、あの桜のあれか? 紫の夜会に着ていた…」と、わたしですら忘れてしまっていた事柄を、何気なく口にするから驚いてしまう。
そうあれは、母気に入りの、京のなじみの作家の春向けの新作だった。濃紫地に桜の花が散る、華やかな物だが、季節も合わず、何より娘が着てこそ似合う若々しい柄。
二十歳をとうに越し、既に母となったわたしには、袖を通すことが相応しくない。
「あんた、まるで人形みたいだったな、小さくて…」
「まあ」
「人形みたい」だの「小さい」だのは、かつて意地悪に響いた、わたしへよく投げた彼の言葉だ。懐かしくもちょっぴり小憎らしい言葉に、畳についた手の甲をそっとつねってやる。
「目に焼きついてる。あんた、きれいだった」
その声に、つねった指先の力が解けた。そのまま指を重ね、記憶まで彼に重ね合わせるように、わたしもふと、まぶたへ過去を甦らせてみるのだ。
堪らなく憧れた、逞しさ、強さ。
颯爽と、ひどく凛々しく映えた、将校の彼の軍服を纏う姿。
震災の夜、駆け通して現れてくれた、「文緒」とわたしを呼ぶ声……。
数々のそれらは、わたしの歩んできた彼への恋の道々に織り込まれ、編み込まれ、鮮やかに今も、胸に輝いている。
価値がある恋だった。
彼への思慕が、わたしの中で揺らいだことがない。拒絶の苦しさに恨んでも、別れの切なさに憎んでも。
彼のため、流した涙の数は知れない。母への申し訳なさに、胸は痛む。けれども、どうしても、
 
貫く価値のある恋だったのだ。
 
「何度も泣かせた。すまん」
「ううん」
わたしは引き寄せられた彼の腕の中で、ちろりと出した襦袢の袖を涙に押し付ける。
泣いたっていいのだ。彼がそばにあるのなら。涙を拭ってくれる指の温もりと、頬をうずめ、強い腕に包まれるのなら。「もう泣かせない」。それが空約束であっても、構わない。
「行かないで」
寄り添い、彼へ告げる。それは返事ではなく、願い。
「行かないで…」
涙にぬれる熱い願いを、彼がくすっとした笑いで遮った。「行く所がないんだ」と、また笑う。
「え」
「だから…」とつなぐ彼の説明に、こちらも頬が緩む。彼は、書類上一年以上も前に殉職したとされる将校だ。死者に居室は要らない。その間に、書類に従い宿舎ではとっくに名を削られてしまっているのだという。
「また申請すればい…」
と言った彼の声と、わたしの、
「うちにいらして。いらっしゃらないと、嫌よ」
が、被さった。彼はそれに笑い、「ああ。おふくろさんがよければ、厄介になる」。
「あんた、やっぱり親父さんに似てるな。どっちも、素性の知れない貧乏軍人を拾うのが趣味の物好きだ」
「まあ」
口の悪い言葉に呆れながら、ややふくれ、けれどもすぐ唇が笑みでほころぶ。彼と共にあるこれからの日々に、ぽんと胸が弾み、心が躍るのだ。「恭介様のお一人くらい、養って差し上げるわ」と、嬉しさに、いつもの勝気が顔を出す。
手慰みに彼へ向け縫った浴衣も、単衣もうんとある。まるで、知らず、今日の喜びの日を迎えるため、ちくちくと希望を蓄えていたかのようではないか。
我ながら、この幸運の合致に、あ然となる。
そしてそれは、彼の言葉が呼んだのでもなく、自然、亡き父の見えざる庇護をわたしに感じさせるのだ。
また胸の中で、父へ感謝をささやいた。
ありがとう、と。心から。
 
 
ささやかな婚礼が執り行われたのは、十月の頭。
母が暦を調べ、大安の日を選んだ。場所は、『なりた家』の小広間がちょうどよく、すんなりと決まる。
母が気を揉んだわたしの花嫁衣裳は、成田屋の暖簾を譲った、かつての大番頭に相談し、現成田屋の店先を飾る婚礼用の物を直すことで落ち着いた。
中尉は、この婚礼の前に既に我が家に滞在していたが、軍のお仕事で関西へ下ることがあり、当日も、ぎりぎり東京駅から駆けつけてきた慌ただしさだった。
こじんまりとした式に顔を並べたのは、中尉の妹御の紫様に、爺や。なぜか、ごくごく身内の集まりのはずが、まちえに聞いたらしい、あの海部氏がしたり顔で現れたのには、開いた口も易くふさがらなかった。
我が家の方では、亡き父方の叔父、叔母。こちらの二人とは、父の葬儀以来となる。そして、かつての大番頭だ。
これら集った人々には、結婚の時期と、あまりに年月の合わない恭緒の存在を、とやかく言う人間はいない。
記念写真を撮り、略したお披露目が済めば、既に夕刻。日の暮れも早いと、客人は三々五々暇を告げた。
夕刻を待ったように、両国の川島さんから連絡があり、中尉は呼び出されて、既に出かけて行っている。
「成田の叔父さんたち、せっかくいらしたのに、泊まって下さればよいのに。千葉までとんぼ返りだなんて」
重い婚礼衣装を解き、平服に直し、母に言う。母も、宿に出ない普段の銘仙に着替えてあった。いつもの居間で、机を挟んで母娘が向かい合う。
「そうね、わたしもよくよくお勧めしたんだけど、お気が乗らないようだったから…。こちらは敷居が高いと、遠慮なさって」
「え」
念願であり懸案の式の後で、すっかり肩の荷を降ろした様子の母から耳にしたのは、亡くなった父に関することだ。それは、わたしにとって驚くべき話だった。
千葉の叔父叔母の話が糸口とはいえ、こういうことを口にする気持ちになったのも、母の心のゆとりや遊びなのではないか、とは、のち思った。
「あんたに言ったことはなかったけれど…」と、前置きの後で、
「何十年も前のことよ。お父さんは、大変なお金で成田屋を買ったの。お母さんは、あの人がもう、成田屋の主人としてすっかり納まっている頃に、この家に嫁いで来たの」
え。
父の店呉服商の成田屋を、わたしは、代々受け継がれた家業であると、思い込んできた。誰も、それを疑わせるようなことを言わなかったからだ。
父は成田屋を旧主から買い、その縁戚に当たる者であるという触れ込みで、商売をつないできた。もちろん旧主とは売買以外の関係などない。それを疑う人も、またなかった。
「そう…」
今更、どうでもよいことではある。父が、侍の出自を買ったのと同じ程度の些事だろう。
けれども、それを伏せ続けた母と、式にやって来てくれた、そうつき合いのない叔父叔母の、資産家とは言い難い質素な雰囲気。そこに、わたしは密につながるものを感じ、母の表情をうかがった。
そして、初めて耳にする、父の謎めいた半生に興味がないといえば、嘘だ。
母はわたしの視線を、ほんのりとした笑みで受け、「お父さんが、本当の出を言いたがらなかったのよ」と、言い添えた。旧主の縁戚と名乗る以上、商いの信用に障る。本来の出自は明かせない。
「ふうん」と、それを流し、父が成田屋を買う資金をどう入手したのか、母へ問うた。実家の金は当てにできなかっただろうから。
それに母は、
「若い頃は、大阪で働いてお金を貯め、それを元手に相場で大きく当てたそうよ。いつか教えてくれたわ。随分苦労もしたらしいわ。詳しくは、いつもとぼけて教えてくれなかったけれどね」
「ふうん」
長火鉢にかけた鉄瓶が、しゅんしゅん湯気を立てだした。母はそちらに向き、湯飲みに二つ、お茶を淹れた。棚の置き時計が鳴り、七時を指す。それを見て、中尉は川島さん宅で遅くなるのだろう、と思った。
「あんた、お母さんの弟の横川の叔父さん、覚えているでしょう」
わたしは頷いた。詳細は知らないが、我が家と大きな揉め事があったらしく、それ以来疎遠となっている、素封家と聞く母の実家だ。それゆえか、今日の式にさえ出席を乞うていない。
「あるとき叔父さんね、お父さんが、本当は成田屋の縁戚じゃないこと知って、わたしとの縁組を詐欺だと言い立てたの。そりゃひどく怒ったわ。警察に訴え出るとまで言い出して、本当に大変だった」
母の話に、口にわずかに含んだ玄米茶が、喉に流れずしばし留まった。驚きを押しやるように、茶を飲み込む。
「それで?」
「叔父さんもかなり息巻いたんだけど、お母さんの里も、その頃内所が厳しかったらしくて…。結局お父さんが、叔父さんにお金を渡して、それで事を納めたの」
びっくりするような額だったわ、とほろりとこぼした。
おそらくそれが、我が家と疎遠になった原因なのだろう。返事もままならず、知らない父の横顔に、やや慄然となる。
金で大店の主の身分を買い、人を欺き続け、それを見抜いた義弟を金で黙らせた。更には、士籍を求め、こちらへも大枚を払いものにしている……。
言葉が途切れた。黙ってお茶をすする母へ、
「お母さんは、どう思ったの?」
「ふふ」
母は瞳を伏せ、湯飲みを見つめ、ほどなく、
「最初はわたしも驚いたけれど、「ああそうか」って、飲み込んでしまえたの、大したことじゃないって。夫婦って、きっとそんなものよ。なってしまえば、簡単に切れないわ。あんたも、そのうちわかるだろうけど」
頷いてはみたが、顧みてどうであろう。
仮に中尉の、大旗本の出であるという出自が、全くのでたらめであったら…。
そうであっても、わたしの中で、彼の像が揺らぐことはない。隆一の形見をだしに、厚顔に我が家に寄食する度胸のある人だ。侍好きの父の興味を引くよう、それくらいの嘘、平気でつくやもしれない…。
そんな風に、母の言う通り、「ああそうか」と飲み込んでしまえるのだ。
けれども、それには、根底に相手への深い愛情がなくては成立しないだろう。「夫婦だから」と、それを理由にしてしまえるには、わたしにはまだない長い年月が必要になる気がする。
その頃、今よりうんと若い、娘を引きずる母は、きっと父を愛していたのだ。里と疎遠になっても、身を偽った父と夫婦でありたい、と望むほど。
何もかも金で事を納める父の一面を知り、わたしはちらりとうそ寒く感じた。だが、その経済力を、父は独力で零からつかんだのだ。誰に譲られたものでもない。
そこに、お嬢さん育ちの母は父の逞しさ、強さを感じたのではないか。まぶしく思ったのではないか。自分が、中尉へ強く惹かれた頃を思い出し、母の父への心の傾ぎが、よくわかる気がする。生意気に、そう思う。
そこで電話が鳴った。中尉からで、やや遅くなると告げる。それを受け、母と二人、簡単に吸い物と今日焚いた赤飯の余りで済ますことにする。
「恭介様のお食事の用意もしておいて。召し上がっていなかったら、お気の毒だわ」
台所へ指示に出た際、おみつに伝えた。よくわきまえております、と言いたげな顔で「はい」とおみつが頷く。
「お願いね」
くどくあっても、こう一声かけるのは、彼が再び我が家に来て以来の習慣だ。食事がずれる場合の配慮で、手違いがあって、それで冷めた汁や硬い飯を出したりしては、申し訳なく思うから。
けろりとそれを食べてしまう人ではあろうけれど。そう、彼へ心を配ることが叶う自分が、しんと嬉しくもあるのだ。
これが、共に住まうこと。暮らすこと。
そんなことを思う。
 
中尉が帰ったのは、深夜に近かった。食事は済んで要らないという。母は挨拶の後で、もう部屋で休んだ。
湯上りの彼を待ち、袷を縫っている。これから向かう冬に向けた彼への物だ。単衣や浴衣は幾舞もあるが、手のかかる袷はまだ縫っていなかった。仕立てに出している品もあったが、やはり手ずからの物もほしい。母にも習い、折を見てこうして針を運ぶ。
髪を拭いながら、浴衣の彼が、明かりの灯る居間に戻ってきた。大欠伸をしている。出張から婚礼、それに川島さんのところへ顔を出すなど、彼も忙しい一日だったに違いない。
このところ、ちょっとご無沙汰の川島さんの様子を問えば、胸元を寛がせた中尉が、手で風を入れながら、「ああ」と無造作に答える。
「飲ませてくれるのかと思って行けば、歳の野郎…」
と、彼が苦笑しながら話す内容に、ややあ然となる。彼はこれまで、川島さんの組が開いた賭場の用心棒をしていたのだというのだ。
「ご立派な帝国軍人が、極道の、賭場で、用心棒…」
「ご立派な帝国軍人が、極道の、賭場で、用心棒だ」
彼はからっと笑い、「しかも式の当日に」とつなぐ。親友であれ、大尉である銀時計組の彼を、そんな裏の仕事に使うなんて…、とあきれるが、受けた彼も彼だ。貴い軍籍にある身。知れたら事なのではないか。
「まあ」
「歳には、借りがあるからな」
さらりと口にしたそれに、彼自身が川島さんへ、何がしか報いたいと感じていたように、響いた。わたしのために。
彼のいない間、川島さんから受けた恩は忘れ得ない大きなものだ。こちらで彼の子を養育してやっているとはいえ、それとは別に、中尉が自身で親友へ何か返したいと願ったのではないか。
それが、今夜のおかしな役目につながるように思う。
わたしは針を置き、縫い物を膝から下ろし、いつもの竹の籠にざっと畳んで脇にやる。「休みましょう」。
寝室に下がり、夫婦になり、初めて床を共にする。欠伸交じりの彼に抱き寄せられながら、最前母と話した父の事柄が、つい口を出た。多くを語らず、ごく端折り、「お父さんが士籍を買ったこと、覚えていらっしゃる?」と前置きし、
「お母さんの里と揉めたときも、お父さん、義弟の叔父さんに大金を払って、事を収めたのだって…。それ以来、行き来がないの」
彼は相槌も打たず、身体に腕を回し抱きしめる。湯上りの、温かく少し湿った肌の気配がくすぐったい。
「ねえ、聞いていらっしゃる?」
返事がないので、そう問うと、
「何が不満なのか、わからん」
「え」
「親父さんは聡い人だ。一番易く、効果のあるやり方を選んだだけだろう」
「でも、母の里よ」
「でも、受け取ったのだろう?」
言葉がつなげず、わたしは回された腕に頬を寄せた。中尉が髪を指で手繰るのに任せた。
長く言葉を発しないわたしへ、彼が、
「なあ、怒ったのか?」
「ううん…」
話さない間に、わたしは感じていたのだ。父が、この彼を気に入った理由を。
それを、わたしは、父が自分にないものを彼へ求めたのだと、思い込んできた。帝大出の輝かしい学歴であるとか、大身の武家の出であることとか…。それを持つ彼を、見栄や自尊心の裏返しで、一人娘のわたしに娶わせたいと願ったのではないか、と。
でも、
そこに隠れた真の理由を、知った気がする。おそらく父は、自分と似た男を好んだのだ。
才覚があり、度胸もある。合理的で聡く、人を欺くふてぶてしさもあれば、戦地を経験し、悪漢を易く追い払う強さも持つ。そういった中尉の素の部分に、自分と似た匂いを嗅いだのではないか。
そういう男をこそ、わたしにと望んだのではないだろうか。
先に、わたしは母の里との厄介を、父は金で始末をつけたと、彼にややも愚痴ったが、きっと彼も父の立場にあれば、同じことをする。だから、「何が不満なのか、わからん」なのだろう。
と、父が、彼に遺産の在り処を託した理由が、ここでしみじみと腑に落ちる。
自分に似た彼が、自分の亡き後、いざという万が一の危難に、どう動くか、父には読めていたのだろう。あたかもその場にあり、己がするように、彼がわたしたちを守ることを、鮮やかに描いていたのかもしれない……。
彼の狡さも、図々しいまでの合理性も、自身を省み、父には好ましく頼もしく移ったのだろう。彼を前に、酒も料理も大盤振る舞いした父の笑顔がふと浮かぶ。嬉しかったのだ。裏なく、父は。
文や、言葉にこそない。
でも、
 
遺すことになる妻のため、娘のため。
父の願い、また祈り。
 
感じることで、つんと胸が熱くなる。涙にしゅんと鼻をすすった。
「どうした?」
彼の声は、こんなにも、近い。
ほら、
 
「文緒」



          


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