魔法の時間
3

 

 

 

それは楽しげに、笑い声さえ届かせながらベッドの上で跳ねるユラを目の前に、ガイは軽くないため息をついた。

そうしているごくわずかな間に、彼女はベッドを跳躍を止め、転がるようにベッドから降りた。

そのままあちこち歩き回る。何が珍しいのか、チェストの置き時計に手を触れ、または上から垂れる天蓋のレースを引いては遊ぶ。

そのたびにころころと陽気な笑い声を立てるのに、ガイは自然口許にやった指の背を噛んでいるのだ。

どんな気紛れか、衝動か。いつものユラにない、そのどこからか借りてきたかのような天真爛漫な陽気さは何なのだろう。

彼へは、「無礼者」と頬をぶったが最後、存在を忘れたかのように取り合わず、こちらが声をかけるのをためらわせるほどのマイペースさで、彼女はなじんだいつもの寝室を、なぜか検めている。

夢うつつであるにしては、身体もふらつかず、元気そのもの。何より表情が、溌剌とし、はっきりと覚醒していると示す。

(やれやれ…)

突飛な振る舞いで自分を驚かせ、ちょっと困らせてやろうなどという、たとえば彼女なりのある思いつきなのかもしれないし、そんな気分であるのかもしれない。

そんな風に、頭を何とか納得させてみるが、どうにも根の部分でしっくりこないずれは、如何ともしがたい。そんな彼女を知らないし、正直驚きもし、戸惑いもしている。

ドレスの他に彼女がまとうのは、どこか女らしい淡いしどけなさだ。そして自分への絶えない優しさと気配りで、ときにほのかなはじらいと憂いさえもしんみりとにじませて、ぬれるような黒い瞳に映す。

そんな彼女の姿を彼は、いつだって、瞳を閉じることさえなく、易くまぶたの裏に浮かべることができる。

「危ない」

暖炉の前をうろうろとしていた彼女が、信じられないことに、マントルピースの燃える火の中に平気な様子で手を伸ばし入れたのを見て、慌ててガイは彼女を背後から抱きしめた。

「止めなさい」

「触ってみたかったの。それだけよ」

呆れたことに、自分の手を止めた彼を、まるでなじるような口調でそう告げる。

「まだあっちを見ていないわ」

窓から日の注ぐテラスを指差し、彼の腕をすり抜けるや、彼女は洋々と歩き出した。

錠の掛かった窓辺で、まさか開けられないのか、彼女は困っている。

それをガイは手を貸さずにしばらく眺め、長椅子の手すりにちょっと腰掛けながら、つい煙草を口にくわえていた。

何のためらいも湧かず火を点け、煙を吸い込んでから、ユラに断りを入れていないこと、寝室では煙草を吸わないいつもの軽い決め事を、あっさりと破ってしまっていることに気づく。

彼女だけではない。

普段にない彼女の様子につられ、彼もどこか、今朝は調子がずれているのだろうか。

口に煙草をくわえたまま、彼はベッドのジャケットを肩に掛け、彼女の側に行くと、その背後から錠を外してやった。

「ありがとう」

「さあ、外は冷えますよ。これを着ていなさい」

夜着のままの彼女に、自分のジャケットを羽織らせる。少し雪の積もるテラスにユラは裸足で飛び出した。

どんな彼女でも知りたいと思い、手のひらにそれを包んでおきたいと思った。

微かな卑怯さやずるさ、しんみりとした弱さなら、知っている。

ときに小さなきっかけで、彼女が抱えて密かに憂うそれらは、彼には他愛のないほどのもので、瞬きの狭間やふっと息を吹いただけ散るような、ごく軽いものばかり。

(まだ僕の知らない、こんなあなたがいるの?)

愛らしくはある。

けれども、目の前の、いとこであるジュリア王女を三倍ほども強化したような無軌道さを振りまく不思議な今朝のユラに、ガイはやっぱり戸惑うのだ。

「ねえ、王子さま」

「え」

はっきりと自分を呼ぶ彼女の呼びかけに、ガイは指に挟んだ煙草をつい滑らせてしまうところだった。

彼の驚きなどまったく量らず、彼女はもう一度呼んだ。当たり前のように「王子さま」と。

「早く来て頂戴。そして教えて。あれは何?」

ガイはユラの指差すガラスのシェードの意味に答えてやらず、テラスに出ると、彼女の膝に腕を回し、そのまま抱き上げた。

 

 

伊織が取り落とした扇子を、長子は静かに拾い、それを要の部分を先に、彼に差し出した。

黙ったまま彼は彼女の前に屈み、目の前の扇子を手の甲で軽く払った。

そのままその手を額に当て、熱の具合を測り、異常がないのを知ってから、頬をぷみっとつまんだ。

それに、彼女の表情が一瞬で強張った。あというほどの間に、目尻に涙の小さな粒が生まれる。

いつもの長子への仕草で、この後にぺちりと頬をごく軽く指で叩くこともある。今のは力の加減がやや強かったのか、彼が思うよりずっと多く痛んだのか。

思いがけない彼女の顔色に、彼は虚をつかれ、「あ」と、唇が開いた。

長子はあれでも某流派の免許持ちだ。竹刀のやり取りは慣れているし、以前彼が稽古の相手をしてやった際も、加減はしたが、したたかに打ち込まれてもけろりとしていた。

口にしつつも、こんなことで痛がるような女子ではなかったはず、と違和感にやはり首を傾げたくなる。

「ううん」

長子は控え目に首を振り、少し彼から顔を背けた。またもはにかむように「驚いただけ…」とほっそりと言う。

「ふうん」

武家の女子には当たり前の仕草だが、彼の長子は規格が違う。大名の姫として育ち、だからか、誰彼の真似をすることなどなく、比較されることもなく、天真爛漫にのびのびと育った。ある意味純粋培養の女子だ。

その彼女の、今朝のにわかの武家夫人振りは、流行の絵草紙などを見て、面白がってその芝居でもしているのか。それを彼がどう取るか、こっそり楽しんでいるのかもしれない。

それにしては、やや芝居が長いのではないか。彼が扇子を取り落とすほど驚かせれば、それで御の字であろう。「ね、長子はすごいでしょう? 驚いたでしょう?」とでも、朗らかに得意げに笑い出しそうなはずであるのに……。

(もしくは、誰かにきつく忠告でもされたか)

彼の妻の長子に、そんな行為が適う人物はごく限られている。彼の妻でなくとも、限られている。

すぐに浮かぶのは、自身の母か、彼女の叔母だ。

しかし、伊織をよく知り、また長子もよく知るあの二人が、彼女にそんなことを強要するようには思われない。古参の女中の萩野辺りかもしれないが、彼女の皮肉程度では、毒気にすら気づかず、長子は糠に釘でけろりと流してしまうはずだ。

やはり、自分へのねだりごとの先触れなのではないか。

それが一番頭にしっくりとくる。何か口にしがたい、けれども必ず叶えたいみょうちきりんな願いが彼女にはあって、それがため、猫をかぶっているのだろう。

「何か、俺に願い事か?」

彼をどこかひっそりと上目づかいで見つめる彼女の顎を、伊織はいつもに比べ、ちょっとだけやんわりとつまんだ。

「え、願い事?」

「ああ、何でも聞いてやる。言ってみろ。犯罪以外は叶えてやる」

何がおかしいのか、ちょっときつく結ばった唇が、ふわりと笑みにほころんだ。

「何でもいい。言ってみろ」

しばしの逡巡の後で、長子は瞳を伏せがちにし、こう彼に頼んだ。「一度でいいから、名前で呼んでほしい」と。

「え」

その声に、ほのかに首を傾けこちらを見る彼女のかわゆい仕草に、彼は喉の奥から笑みがこぼれた。

「長子」

彼女の名を呼んだ後で、不意に募った胸がちくりとするほどの愛しさに、彼はつまんだままの彼女の顎を、ほんの少し持ち上げ、口づけた。

優しく舌が、彼女の少し冷たい唇を割ったとき、いきなりそれは起こった。

思いがけず、とんと自分の胸が押しやる腕の力があること。そんな程度の抗いなど、意に介さず、彼はそのまま強引に、唇に触れたままでいた。

少し口づけに時間をかけると、何か彼のことでちょっと拗ねた彼女の気持ちが、和らぐのか喜ぶのか、ふんわりと凪ぐ。笑顔が戻ってくる。

ばちりと、自分の頬を打ったものに、彼はちょっと唖然となった。驚きに、唇が離れた。

「嫌、お願い」

と言った。

いつもの彼女の反応とは違ったものに、伊織は再び、不思議な違和感を持つ。

自分を睨む瞳はもう一つつなぐ。

「わたしは『長子』ではないの、だから止めて」

それを口にするや、彼女の瞳は力を失い、はらりとまぶたを閉じていく。ぐらりと身が前へ倒れるように傾いだ。

「おい」

伊織はその様子に、驚きをかなぐり捨て、すぐに彼女を抱き止めた。彼の「姫」と呼ぶ声に応えはない。ぺちりと頬を打っても、まぶたを開ける気配もない。

ぐったりとなった長子の身体を、抱え上げ、襖を蹴り開けた。

人を呼び、しばらくは彼女の具合に「匙〔医師〕」だの、「安静にさせる」だのわらわらと騒がしい。その騒ぎの中も、長子は一向に目を開ける気配がないのだ。

奥女中が衣装を解いてやり、臥所に横にさせる。その傍らで、伊織は硬い表情で立ちすくんでいた。

その彼をじき、襖から呼ぶ。「ご登城の刻限が…」と伺いを立てる近習のうかがうような静かな声に、「構わん、遅参する」と、自然返していた。

返答の後で、ちっと舌打ちが出る。

(俺は、何に苛立っているのか)

常ない蒼白く冷めた長子の寝顔を見ながら、彼には、胸が痛むような不安や恐ろしさとは別種の、腹立ちに似た気持ちが、ぶくぶくと内に存在するのに気がついていた。

ようやく慌ただしい足摺の音がし、襖の向こうに人の気配が立った。使いを遣った医者が着いたのだ。

また、唇を舌打ちが出る。

(遅い)

苛立ちの根が、こんな形で顔を出した。

「これは、榊さま…」

敷居際に正座し、常と変わらずに馬鹿丁寧な挨拶などを述べ始めるから、伊織の怒りを煽った。てらてらとした顔の中年の匙に、冷酷な一瞥を投げ、顎を長子へしゃくって見せた。

言葉の代わりに、彼は違い棚に載った香炉をつかむや、力任せに、匙の背後にある華やかな絵襖へ投げつけた。普段にない、主人の物に当る怒りに、控えた侍女らも、首をすくめた。

「ひいっ」

甲高い磁器の割れる大音に、匙は首をすくめ耐えた。

「こちらを待たせるな」






          


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