とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜
3
 
 
 
瞬時、身が固まった。
背後の声や誰かの立てる音に、はっと我に返る。
わたしは窓の格子を離れ、玄関へ歩を速めた。つんのめりそうになりながら履物を脱ぎ捨て、開け放した扉から、道場へ入った。
それほどの間がないためか、それとも自分ですら信じ難い驚きにか、伊織はようやく半身を起こしたところだった。
後ろでに手を突き、片方の手で耳の辺りを押さえていた。そばには跪いてその様子をうかがう、長子もよく知る彼の近習で左近という名の青年の姿がある。
左近は、わたしの存在に、「は」というような、「あ」というような驚きの後で、目を伏せ、かしこまる表情を見せた。
「平気?」
伊織のそばに膝をつくと、彼はちょっとぼんやりとした瞳をこちらに返す。まるでそれは寝覚めのようにも思えたが、瞬きの後でうっすらと笑んだ。
頷くように、ああ、とだけ返し、立ち上がった。その際、左手をややかばう仕草を見せた。
立った彼の手の甲を取ると、組み合ったときの衝撃だろう。赤く腫れ上がっている。痛むはず。
「ねえ」
伊織はわたしの声を無視し、取られた手を素気無く振り、外した。そのまま、ひっそりと立ったままである、立ち合いの相手に歩を寄せた。
ねぎらいの声をかけ、賛辞を贈った。
「見事な太刀筋だ。先の塾頭の宮永もそうだが、こちらの完敗だな」
「なに、鄙の剣でございます」
それとはなしに、伊織の立ち振る舞いや雰囲気に上つ方の匂いを感ずるのか、男の言葉は丁寧なものだった。
「いや、優れた剣だった。速さといい、類したものを、俺は目にした事がない…。面白い経験だった」
「我が方は、小さな流派でございます。旅の多い暮らしにて、こうした組合のごとに、それからも離れていくような…。流派など口にしては、既におこがましいのやもしれませぬ」
伊織との会話が途切れたのを潮に、脇から、道場の人間が松岡浪人に紙の薄い包みを差し出した。
「かたじけない」
浪人は遠慮の気配もなく、包みを受け取りさっさと懐にしまう。その慣れた様子に、知らないよその道場に乗り込んできては、ああいった包みをもらうことがすっかり板についているようだ。
わたしは左近の袖を引き、問う。
「何が入っているの?」
「金子にございます、姫様」
「ふうん」
なぜ、道場側があの浪人に金を支払うのか、長子にはよくわからなかった。
左近によれば、乗り込んだ道場が試合を受け入れ、その試合に挑戦者側が勝てば、道場より謝礼を受け取るのは、江戸でもよくある礼儀なのだという。
浪人は、風のように姿を消してしまっていた。他流試合に勝ち、幾ばくかの金子を手にしたら、用もないのだろう。
「ふうん」
誰ともなく、意味もなく出たつぶやきだ。
ふと、目を戻せば、再び竹刀を握った伊織が、竹刀を壁に返した。「帰る」という。ほら、とややぼんやりするわたしの背を、とんと無造作に叩いた。
「え」
伊織は稽古着のまま、左近から受け取った刀を腰に差し、玄関に向かう。その気配に、塾頭の一人と思しいのがするりと背後に付き、玄関に送りに出る。
「妙な輩を、招じ入れまして…。ご不快ではございませんでしたか?」
慇懃な口調に、彼のみは伊織の真の身分を承知しているのだと知れた。「妙な輩」とは、先ほどの松岡浪人を指すのだろう。
「いい、構うな。刺激になっていいだろう。受け手があれば、懲りずに入れてやれ」
「は」
外に出れば、まだ日は高い。これまでなら暮れた頃に帰途に着く、というのだから、今日は特別なのだ。
長子がいるから?
それとも、手痛い負けを喫したから?
そこで彼の手の甲の傷を思い出し、わたしはやや先に立って歩く彼の手を取った。さっきより腫れがひどくなっている気がする。
「痛まない?」
問えば、伊織は指を屈伸させ、「折れてはない」とぶらりと振った。
襟元を寛げ、風を入れながら、やや振り返った。背後には、長子よりも遅れ、近習の左近の姿がある。
「少し外せ」
「しかるに…!」
「しかるに、何だ?」
「殿がお一人に」
「これが、あるだろう」
「これ」とは、長子のことらしい。よりによって妻を「これ」とは。ふくれかけたが、伊織が続けて左近へ、
「あれも返して来い」
と後方を顎でしゃくった。「あれ」とは何だろうと振り返り、左近の後ろに、これまた長子を乗せていた駕籠が、長子らをゆるゆると付いてくるのが目に入った。
あ、駕籠のことをすっかり忘れていた。
伊織は長子の使う駕籠を、近い義母上のお邸に返させた。のち、乗って帰られるよう、配慮してくれたのだろう。
「暫時、でございますから」
不承不承命を飲み込んだ口調の左近が、駕籠の一行と共に去り、思いがけず二人になった。
こうしたのは伊織だ。何か話でもあるのか。
「みっともないところを見られたな」
ぽつんと肩越しに言葉が降った。
「え」
不意のそれに、瞬時意味が取れなかった。ややの後で、先の道場での一戦を指すのだと思い至る。
「ああ」
「それだけか?」
「びっくりした」
「俺も驚いた」
と、声に笑みがにじむ。
「伊織が打たれるなんて…」
「ははは」
「ああいった手合いは」と伊織は、言葉をつないだ。金に詰まれば、腕を頼んで道場に乗り込んでくるという。それで暮らしを凌いでいるのだ、と。
「あれは、剣客商売だ」
「まあ」
あんなことをして、暮らしを立てているとは。人のたつきの方など、長子には見当もつかない。ふっと、数日前の芝居見物で見た役者の顔、そして牡丹の顔が浮かんだ。
「旅が多い、と自分でも言っていた。あちこちで、稼ぎに荒いことをして流して来たのだろう。その間流派を超えた、雑多なものが混じった剣筋が仕上がったのかもな。型通りの殿様剣術とは、ものが違う」
伊織の話にふうん、と頷きながら、そういえば、あの松岡浪人が不思議な太刀を見せたのを思い出す。
あれもそうだろうか。
伊織に問えば、彼も十分留意していたらしい。苦笑いのような声で、
「しかし、あんな目くらましの、幻術まがいなことをされてはな…」
と、珍しくこぼした。
「汚いわ。ずるではないの?」
「本身で立ち合ったとき、あの手で斬られたとする。今のはなしだと言えるか? 御前試合でもなければ、どうあれ、倒せばそちらの勝ちだ」
淡々と素直に、彼が己の負けを受け止め過ぎてしまっているその様に、どうしてか、長子の方が納得がいかない。
たまの休暇に邸を空け、長子や子供らも置いて、竹刀を握りたいと言っていたのは、伊織なのに。
素性の知れない強敵に、思いがけずあっさり負け、どうしてこう恬淡としていられるのだろう。
「怒ってるのか?」
ぶすっとした顔をしていたのだろう。そのまま黙り込んだわたしの頬を、伊織の甲がぽんと叩いた。
わたしはそれも面白くなく、ついっと顔をあちらに背け、背けたそのままで、「悔しくないの?」と口中でつぶやいた。
そうしながら、自分が、伊織の圧倒的な剣の腕に、思っていた以上誇りを抱いていたことを知る。それが今回の件で不意に瑕をつけられたようで、不快なのだ。
返事をしないわたしへ、伊織が、今度は頬をぷみっと、ほんのり痛むほどつねった。「なあ…」、そう何か言いかけた彼の言葉にかぶせ、わたしは、
「悔しくないの? 伊織は、そんなにあっさりと…」
「は?」
頬に残る彼の手をつかみ、乱暴だと承知しながら、痛むはずの甲の部分をぎゅっと握ってやる。
「ってぇなあ」
よほど痛んだのか、一瞬顔をしかめて見せた。傷みを紛らわすのにか、取り返した手を軽く振り、よくやる、伏せがちな眼をわたしへ向けた。
長子よりかなり上背があるので、目をやれば、こちらをにらんでいるかのよう。
「俺が負けて面白くないのか?」
やはり返事をせず、わたしはあちらを向いたまま。ほどなく、ぽつんと笑みの混じる声が耳に降ってくる。
「それは悪かったな。期待に添えず」
笑ってばかり。
それが、長子には面白くないのだ。
伊織は、そっぽを向いたままのわたしに構わず、言葉をつなぐ。
他流であれ同流であれ、妙な奇術を弄しない相手になら、おそらく自分は勝てる、と。
そして、そうでない相手の場合、負けることもある、と。「それから…」、とちょっと言葉を切る。
「姫には悪いが、俺にとって剣は余技だ。道楽、と言っていい」
え。
伊織の放った信じ難い言葉に、彼の側の頬が強張った。武士である殿方にとって、技量の甲乙あれ、剣術は分かちがたい自己の一部ではないのか。
「真ん中じゃない」
どういう思考か、まるで長子の頭をのぞいたような言葉を返すから、びっくりする。
「今の勤めが、俺の本分だ。…過去には、剣客であれかし、などと気楽に思った時期もある。でも、それが許される身分でもない。だから…」
余技だ、と彼は締めくくった。「何かのための」と。
話に釣り込まれ、彼の態度につむじを曲げていたこともどこへやら。わたしは伊織の袖を引き、「何のための?」と問うていた。
やはり伊織は長子のそれに、わずかに笑う。「さあな」とのみ返し、ゆらりと首を振った。
拍子の抜けた返答に、ややも気負っていたのを削がれてしまう。
更に問おうとして、わたしは言葉を飲み込んだ。
きっと問うても、彼は言葉にしてくれはすまい。「何かのための」と言うのであれば、それは今の彼にとって必要な、何かのため、なのだろう。
一つではなく、また、言葉に表しがたい思いのもやであるのかも……。
伊織の言葉は、じっくりとわたしの心にしみていった。
 
途切れた言葉のどれほどか後で、不意に彼が、がらりと場違いなことを訊いた。
「俺が邸を空けて、拗ねてないのか?」
「え」
気ままな彼のこの休暇の日々に、まるで放っておかれるように腹立ちを覚えたのは、ほんのわずか。
ごく自然に、わたしは伊織の自由を許容し、受け入れている。
伊織の真似ではないが、首を振って応えておく。ついでに、義母上に杏への土産を渡したことを話した。
きっと伊織も、市井にある『猫じゃらし』など知らないだろう。
「長子が求めたの。鈴が鳴って愛らしいの。双子とそろいよ」
「ふうん」
普段のように、どうでもいいというような相槌が返る。
日の穏やかに照る昼下がり。左右の築地塀に宿る小鳥たちが、ちゅんちゅんと可憐な声を立てている。
会話が切れれば、そんなものらが自分たちを包むことに、改めて気づく。
乾いた道のせいで、歩を運ぶ伊織の紺の袴の裾が、砂埃にふわりと染まっているのが目に映った。その先の、涼しげな素足履きの足先を、無造作に運んでいる。
ほんのちょっと前、老中である今の自分が「本分」だと言ったくせに。供を軽く外し、長子と二人で歩くなど、なんてこの人は身軽なのだろう。
それがおかしいようで、目にまぶしく、出会いの頃との変わりのなさに、また落ち着くようで…。
自分は、この人のこんな部分もやはり好きなのだな、と心の底で秘めやかに実感する。
つかんだなりの彼の袖を、歩に合わせて振るのは、気持ちのいい午後だから。束の間のこんな二人の時間が、おもはゆく嬉しいから。
「ねえ」
頬に弾んだ思いを乗せながら、わたしは、まだ聞いていない伊織の答えをねだるのだ。
「負けて、悔しくないの?」
伊織は少し笑い、すっと瞳をあちらに逸らした。
「何度も訊くな」
不機嫌に封じた問いが、それが彼の返事なのだろう。
 
 
この日のことを、いつしかわたしは記憶の中に埋めてしまっていく。日々に織り込んで、心のひだに、頭の思い出の箱の中にしまう。
再び鮮やかに甦らせることになるなど、知りもしなかった。
それは、牡丹が火事に遭った報を聞き、胸を恐ろしさでとどろかせた、そののちの事になる。



        

企画ページへのお戻りは→  からどうぞ。

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪